日本文学史概観(近現代)
言文一致~浪漫主義
戯作文学→仮名垣魯文『西洋道中膝栗毛』『安愚楽鍋』、成島柳北『柳橋新誌』
政治小説→矢野龍渓『経国美談』、東海散士『佳人之奇遇』、末広鉄腸『雪中梅』
「言文一致」とは、その当時乖離してしまっていた書き言葉と話しことばを一致させることで、ありのままを描くことを目指したもの。二葉亭四迷(だ調)の他、山田美妙(です調)、尾崎紅葉(である調)らによっても試みられた。 一方で、江戸時代の文学を見直す「擬古典主義」と呼ばれる動きもあった。尾崎紅葉は、日本で最初の文学結社である「硯友社」を結成。雑誌「我楽多文庫」を発刊した。女性心理を卓抜した筆致で描くことに長けた紅葉に対して、人間の男性的な面を理想的に描いた幸田露伴は「理想主義」と呼ばれることもある。 「浪漫主義」は、自我の開放や個性を求めた文学傾向である。北村透谷や与謝野鉄幹がそれぞれ創刊した雑誌「文学界」「明星」が中心となった。初期の森鴎外も、浪漫主義とされる。彼はドイツ留学から帰国したあとに、「ドイツ三部作」(「舞姫」「うたかたの記」「文づかい」)といわれる作品を発表している。 自然主義・反自然主義
人間を肯定的にとらえた「浪漫主義」に対し、あるがままの人間を客観的に描写しようとする「自然主義」が生まれた。その到来を決定づけた作品が島崎藤村の『破戒』である。もともとは浪漫主義の詩人だった藤村は、社会の偏見に苦しみながらも真実に生きようとする青年を描いた。 人間をありのままに描くことを目指した自然主義は、やがて<主観の排斥>から<自己の醜い部分の告白>という方向に向かっていく。その代表的な作品が田山花袋の『蒲団』である。女弟子に恋情を抱いた体験を題材にしたこの作品は、大正期以降の「私小説(小説の主人公がそのまま作者に重なる小説群)」の先駆けとして、後の文壇に大きな影響を与えた。 明治後半の文壇を席巻した自然主義に対抗する文学思想も登場した。「耽美派(耽美主義)」「白樺派」「高踏派(余裕派)」である。これらはまとめて「反自然主義」とされることもあるが、それぞれまったく違う理念に基づいている。 耽美派は、<ありのまま>を重視する自然主義とは逆に、徹底的に<美>を追求した。江戸風俗を情趣豊かに描いた永井荷風や、女性の美を官能的に描いた谷崎潤一郎が代表的な作家である。 人間の醜い部分に着目した日本の自然主義に対し、白樺派は自己や個性を積極的に肯定したのが特徴である。トルストイの「人道主義」に影響を受けた明るい作風の作品が、学習院出身の作家を中心とした雑誌「白樺」に登場した。『友情』を書いた武者小路実篤、『城の崎にて』を書いた志賀直哉、『或る女』を書いた有島武郎が代表的な作家である。特に『城の崎にて』は、「私小説」「心境小説」の傑作として、今日でも評価が高いとされる。理想郷を求める彼らは、宮崎県(のちには埼玉県であるが)に実際に「新しき村」を建設するに至ったが、その試みは失敗に終わっている。 森鴎外や夏目漱石は、余裕を持って人生を眺めるという点から「高踏派(余裕派)」と呼ばれる。文明に対する批判精神と、西欧留学の経験に基づく豊富な知識に裏付けられている点が特徴である。 イギリス留学から帰国した夏目漱石は、高浜虚子の勧めで雑誌「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を連載して文壇デビューを果たし、「前期三部作(漱石の前期三部作)」と呼ばれる作品群を完成させたあと、「修善寺の大患」(胃潰瘍で入院後に修善寺で療養していたが、吐血して生死の境をさまよう)が彼の死生観・人生観に大きな影響を及ぼし、「後期三部作(漱石の後期三部作)」と呼ばれる作品群を書くに至った。晩年は「則天去私(我執を去り自然の理法に従う)」という言葉で説明されることが多い。「ホトトギス」を主宰していた正岡子規とは親友であり、寺田寅彦・和辻哲郎・芥川龍之介など、彼を慕って集まった作家たちを輩出したことでも有名。 新現実主義
「耽美派」や「白樺派」によって見過ごされてきた<現実>という者に立ち戻ろうとした大正時代の文学傾向を「新現実主義」という。「新思潮派」「奇蹟派(新早稲田派)」、またその他に大正期に活躍した作家を広く含める場合もあるが、狭い意味では「新思潮派」のみを指す。 新思潮派は、東京帝国大学の学生たちが出していた雑誌「新思潮」から登場した作家たちである。「(新)理知派」「新現実派」「新技巧派」などと呼ばれることもある。 その代表的な作家である芥川龍之介は、『鼻』を夏目漱石に激賞されて文壇デビューを果たした。この作品は『今昔物語集』に題材をとった作品であるが、他にも『羅生門』『地獄変』など、『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』といった説話に題材をとった「王朝物」と呼ばれる作品は多い。また彼はその他に江戸物(『戯作三昧』『枯野抄』)、切支丹物(『奉教人の死』)、保吉物(『お辞儀』『あばばばば』などの私小説作品)、童話(『蜘蛛の糸』『杜子春』)など幅広い作品を書いた。後年は神経衰弱が進み、「ぼんやりとした不安」という理由を遺書に残し自殺した。彼の命日は晩年の作品]『河童』にちなみ、「河童忌」と呼ばれている。 菊池寛は、その明確なテーマゆえに「テーマ小説」と呼ばれることもある。『忠直卿行状記』で脚光を浴びた彼は、その後『真珠夫人』を初めとする通俗的な大衆小説を書いて成功を収め、また雑誌「文芸春秋」を創刊して文壇ジャーナリズムの祖となった功績も大きい。現在でも続く芥川賞・直木賞は彼が創設したものである。 自然主義の流れを受け継ぎ、「私小説」と呼ばれるジャンルを定着させたのが「奇蹟派」である。「奇蹟」廃刊後は、「早稲田文学」に発表したので「新早稲田派」ともいう。
同時期には、詩人から出発した作家たちも活躍した。『田園の憂鬱』を書いた佐藤春夫や室生犀星などがその代表である。 プロレタリア文学・芸術派
大正時代の末から昭和の初めにかけては、関東大震災や世界恐慌などが起き、社会情況が大きく悪化した。その中から登場したのがプロレタリア文学である。これは資本家階級と労働者階級の闘争の手段として文学を用い、革命を促そうとするもので、葉山嘉樹や小林多喜二(代表作『蟹工船』)が代表的な作家である。彼らは貧しい労働者の姿を描くことで社会の革命を目指したが、当局の激しい弾圧に遭った。 こうしたプロレタリア文学と対立したのが、「新感覚派」「新興芸術派」「新心理主義」である。まとめて「芸術派」と呼ばれる彼らは、政治思想を抜きにして文学そのものの変革に取り組んだ。 プロレタリア文学者たちの中からは、国家の激しい弾圧に屈し、転向(思想的・政治的信念を放棄すること)する者もいた。彼らは転向したことについての苦悩を私小説的に吐露する「転向文学」というジャンルの作品を発表した。転向文学の代表的な作家が中野重治(代表作『村の家』)である。 昭和初期に活躍した作家の一人が中島敦(代表作『『山月記』『李陵』など)である。中島は漢字の素養を生かして独自の文学を作り上げた。また林芙美子(代表作『放浪記』)は『放浪記』で自らの青春時代を描き人気を博した。その一方で、昭和初期の社会不安や言論統制の中で文学を変容を迫られ、火野葦平『麦と兵隊』のように、政府の主張を推進する「国策文学」と呼ばれる作品も登場した。 無頼派・戦後派・第三の新人
雑誌「近代文学」を中心に昭和二十年代から活躍した作家たちを「戦後派」という。厳密には、自身の戦争体験をもとに政治と文学の問題に意識的に取り組んでいった「第一次戦後派」と呼ばれる作家群と、特に西欧の小説の手法を取り入れて新しい文学を開拓していった「第二次戦後派」と呼ばれる作家群とに分けられる。 近代以降の詩歌
近代以降の詩は、外山正一らの『新体詩抄』に始まる。それまでは「詩」というと「漢詩」を指していたが、日本語による新しい詩という意味で、西欧の詩の形式を取り入れて作られた。また近代詩の初期には、森鴎外が翻訳した浪漫主義の詩集『於母影』の及ぼした影響も大きい。与謝野鉄幹は短歌での功績が有名だが、彼の創刊した浪漫主義の雑誌「明星」は、多くの詩人を輩出している。その後は上田敏や北原白秋によって、感情を感覚的に表現した象徴詩が作られた。 それ以前の詩が文語詩であったのに対し、口語詩も作られるようになった。口語自由詩の確立に大きく貢献したのは高村光太郎、その達成は萩原朔太郎によるといわれている。それ以降も、多くの詩人が作品を発表し、活躍している。 与謝野鉄幹が創刊した雑誌「明星」で活躍したのが与謝野晶子である。近代短歌は、官能美を発見した晶子の歌によって成立したともいわれている。「明星」の歌人のうち北原白秋は、「明星」廃刊後は「スバル」を中心に活躍した。また石川啄木は「明星」「スバル」参加後、次第に貧苦の日常を読むようになり、「生活派」の歌人であるといわれる。彼は歌を三行書きしたことでも知られている。 正岡子規は俳句においても「写生」を主張している。子規の死後は、雑誌「ホトトギス」を中心に活躍する高浜虚子らのホトトギス派と河東碧梧桐を中心とする新傾向句に分かれたが、次第に「ホトトギス派」が俳壇の中心となった。季題や定型にとらわれない「自由律俳句」も登場した。 評論・研究
西洋文明の急激な流入という事態にあって、明治初期の文化人たちは「西欧化」「文明化」という問題に非常に意識的であった。慶応義塾大学を創設した福沢諭吉は、『学問ノスゝメ』の中で「実学」の必要性を説いた。実学とは、実際の生活に役立つ学問のことで、工学や医学などがこれにあたる(これに対し、文学などを一般に「虚学」という)。また夏目漱石は『現代日本の開化』において「内発的」に発展してきた西欧文明に対し、それを無批判に取り入れた日本の文明開化は「外発的」であると批判し、出来る限り「内発的」に変化していくべきだと論じている。その他、石川啄木(「時代閉塞の現状」)や有島武郎(『惜しみなく愛は奪ふ』)といった文学者たちも優れた評論を残している。 昭和期にはいってからは、和辻哲郎や三木清などの評論家が多く登場したが、中でも小林秀雄は批評を一つのジャンルとして確立させるに至るなど、後に大きな影響を与えた。代表作は、プロレタリア文学と芸術派について論じた『様々なる意匠』、中世文学について論じた『無常といふ事』などである。その他にも『「モアツアルト』『ゴッホの手紙』『本居宣長』など、数多くの評論を残している。 民俗学とは、民間伝承を素材として文化を研究していく学問である。柳田国男は、岩手県遠野市の伝承を記録した『遠野物語』、文化の伝播について研究した『蝸牛考』や日本文化のルールを考察した『海上の道』などによって、日本民俗学の祖となった。その弟子である折口信夫も、日本文化論について大きな影響を与えた人物である。折口は「釈迢空」として歌集『海やまのあひだ』を著すなど佳人としても有名。また、古い伝説にヒントを得て書いた『死者の書』という小説もある。