言文一致
表記改革
前島密は慶応二年(1866年)に『漢字御廃止之儀』で難解な漢字漢文を全廃し、仮名による表記にすべきことを提唱し、明治になっても政府に仮名表記の採用を建議し続けた。一方、福沢諭吉は明治六年(1873年)『文字之教』で漢字の数は二千か三千字で十分であり、難しい漢字を使う必要はないとする漢字節減論を提唱した。これに対し、西周は『洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論』で、漢字仮名書きをやめてローマ字を国字とすべきだという論を唱えた。 その後、前島らの仮名文字使用論を受けて「かなのくわい」が、またローマ字採用論を受けて「羅馬字会」が結成されるが、こうした表記改革の流れは、ともに言文一致運動を推進した。そもそも漢字廃止の趣旨からいって、漢語に頼った文語文体を改め、話し言葉に近い平易な用語、文体を採用することは、当然の筋道であった。 文体改革
雅文体・漢文体・言文一致などの文章の形式としての文体の改革は、話し言葉(=言)と書き言葉(=文)が乖離している現状を批判し、それを一致させようとすることから始まった。
西欧先進国では口語と文章とがほぼ一致していることから、すでに幕末から明治初年にかけて、先述の前島密『漢字御廃止之儀』をきっかけとして洋学者たちが言文一致を主張した。加藤弘之『真政大意』(明治三)、西周『百一新論』(明治七)などでは、「各々自己ノ本分ヲ尽クシテ。他人ノ権利ヲ敬重スルハ。(略)人タル者ノ。須臾モ忘レテハナラヌコトデゴザル。」(『真政大意』)といった「デゴザル体」が試みられている。
明治十年代には仮名文字運動の三宅米吉・物集高見、ローマ字運動の田口卯吉らが先駆的提唱をした。特に田口は『意匠論』(明治十八)で、「今日の言語に一致せる文体」=言文一致体こそ「諸種の想像を網羅」できる自由な文体であり、「文学の趣味は文体にありとの愚想」を速やかに打破し、「世俗の言語を以て文章を記する」ことで、文学の「進歩の端」が開かれると主張、新しい文学のためには文体の改良が必要であることを明言した。なお、「言文一致」という名称の初出は、神田孝平の『文章ヲ読ム』(明治十八)であるといわれる。 落語の速記本
幕末から明治にかけて活躍した落語家に三遊亭円朝がいる。彼は落語を自作自演して好評を博した。その代表的な作品は、口演を速記したテキストによって読むことができる。 ――此に萩原の孫店に住む伴蔵といふものが、聞て居ると、毎晩萩原の家にて夜宵中女の話声がするゆゑ、伴蔵は変に思ひまして、旦那は人がよいものだから悪い女に掛り、誑されては困ると、密と抜け出て、萩原の家の戸の側へ行て家の様子を見ると、坐敷に蚊帳を吊り、床の上に比翼蓙を敷き、新三郎と於露と並んで坐つて居る様は真の夫婦の様で、(略)どんな女か能く見て遣ろう。と差覗てハツとばかりに驚き、化物だ〳〵。と云ひながら真青になつて夢中で逃出し、白翁堂勇斎の処へ往ふと思て駆出しました。
速記者の若林玵蔵は同書の「序詞」で、「将来我国の言語上に改良を加へんと欲する遠大の目的を懐く」と、文体「改良」の意図があることを表明している。落語の口演の調子ではあるが、若林のいう「言語の写真法」によって、おのずと一種の言文一致体たりえている。この企画は大成功し、明治期にこの種の速記本が流行するきっかけとなった。
また、言文一致体小説の成立にも影響を与え、二葉亭四迷が『浮雲』に言文一致体を採用する際に、坪内逍遥の勧めで円朝の落語を参考にした。 言文一致体小説の出現
社会の改良や実用性を主眼とした書き言葉の改革が、文学の近代化にも大きな影響を及ぼすことになった。すでに文学の領域でも口語的な文体の試みはなされていたが、言文一致体小説の成立に直接の影響を及ぼしたのは、前述の三遊亭円朝の速記であった。
『浮雲』の主人公内海文三は叔父孫兵衛の家に下宿する官吏であり、孫兵衛の娘、お勢とは将来を暗に認められた関係にある。だが、人員整理のために馘首されたことをきっかけに、お勢の母お政は急に文三に辛くあたるようになる。文三のライバル本田昇は処世術にたけており、次第にお勢へと接近していく。お勢もまた昇にひかれ、文三が焦燥の色を濃くするところで小説は中絶する。作者の残したメモによれば、文三は狂気に陥るという結末が用意されていたようである。
古い儒教的倫理と新しい英学の素養とを兼ね備えた文三は、現実の軽薄さを批判しつつ、自己の生き方を確固とは定めえないまま想念の世界をさまよう。書き進むに従ってぎこちない文体が洗練され、戯作調が消えてゆく一方、<私>の影は逆に濃くなっていく。
第一編が明治二十年六月、第二編が明治二十一年二月に刊行され、第三編は明治二十二年七~八月に雑誌連載されている。三篇はあたかも違う作品であるかのように表現、文体の質を異にしており、その試行錯誤のプロセスはそのまま近代小説の生みの苦しみをあらわしているかのようである。
第一編の語り手は、「シツ、跫音がする」と読み手に注意を喚起し(第六回)、登場人物の家に「一所に這入ツて見やう」(第一回)と呼びかける存在である。ただしこうした語りは見立てや茶化しに妨げられてしまい、なかなか人物の内面描写に入っていくことができない。そのため第二編の後半になると視点は大きく変わり、語り手は主人公文三に密着して、彼の心情に忠実に寄り添うようになる。しかしこれでは今度は文三以外の人物の内面心理を描けなくなってしまうので、第三編では再度体勢が立て直され、「人事で無い。お勢も悪かツたが、文三もよろしく無かツた。」(第十六回)というように、冷静に、客観的に各人物の心理が説明されていく。
結果的に言えばこの第三編がもっとも言文一致に近づき、客観性も保たれているのだが、今日文三の内面心理の描写として評価が高いのはむしろ第二編の方である。超越的な視点から各人物を裁いた方が客観性を打ち出しやすいはずだが、一方で、ある特定の人物に密着し、その人物になりきった方が、読者としてははるかに内面心理の動きを身近に感じることができる。
文末表現
「浮雲」の書かれた時期は、山田美妙らがさまざまな言文一致の実験を行っていた時期でもあった。おそらくその際に一番問題になったのは文末表現――どのような形で文を結ぶか――という点で、「である」「です・ます」など、さまざまな文末詞がこの時期の小説家たちによって実験され、一般の普及にもあずかることになる。 たとえば二葉亭の『浮雲』の第一編では、「……た/だ」というふうな末尾はまだ登場しない。
「秋九月中旬といふころ、一日自分がさる樺の林の中に座してゐたことが有ツた。」という一節に始まるこの小説は、回想する現在と回想される過去との対比が明確に打ち出されており、過去を示す文末詞「~た」が小説文体に定着していく上で大きな影響を及ぼすことになる。
文末詞「た」は、文字通り「かつて――そこに――あった」世界を客観的に提示する上で大変有効ではあるのだが、一方で現場に密着した実況中継の視点が失われてしまうことにもなるわけで、双方の要素をいかに両立させていくかという試行錯誤を通して、次第に近代の「描写」の合意ができあがっていくのである。
二葉亭の「だ調」の他に、山田美妙の「です調」、尾崎紅葉の「である調」、若松賤子の「ました調」などがつくられた。 言文一致とは
小説における言文一致体は、誕生して直ちに一般化したわけではなかった。明治二十年代初めに流行し、その後しばらく下火になるなど、当時は文語体を含めて様々な小説文体の可能性の一つにすぎなかった。
言文一致体小説の成り立ちをみる際に注意すべきなのは、人間は言葉によって世界を捉えていること、言い換えれば言葉は世界の捉え方の反映だということである。
書き言葉の文体には、歴史的に積み上げられてきたその型(スタイル)に、固有の世界観なり美意識なりが含まれている。ある文体を、たとえば漢文体を選択したときには、漢文体の決まり文句、決まった発想、決まった表現技法があり、それによって表現内容が文字どおり〝型〟にはめられる。これを避けるためには、旧文体の〝型〟に意識的になり、それを方法化するか、あるいは全く新しい文体を創出するかである。表現主体の<私>が近代化するとともに、明治二十年頃から、主体的な文体の選択という傾向が現れたのは当然であった。
書き言葉を変えることは、旧来の型にはまった世界観、美意識を揺さぶり、変化させることでもあった。二葉亭を嚆矢とする言文一致体小説の創出は、近代的なものの見方、捉え方、美意識への移行という意味を持ったのである。
しばしば誤解されることだが、「言文一致」とは「言」と「文」とが一致した状態を言うのではない。
規範性の要求される「文」と、時代の申し子である「言」とが乖離するのはいわば宿命ともいうべきで、古今東西、「言」と「文」とが完全に一致した例があるはずもなく、両者の距離が開きすぎてしまった時に「文」の側から起こる自己改革の動きを「言文一致」と称してきたのである。
たとえ「しゃべるように書く」ことはできても、口語それ自体は決して文章にはならない。文学における「言文一致」とは、いかに口語をよそおってみせるかという、その意味ではあくまでも意識的な方法の問題であった。
言文一致の進展イコール小説の〝進歩〟と捉えるのは誤りで、日常的な現実をよそおうための言文一致体もまた、他のさまざまな文体と並ぶ一つの世界観――現実を模倣するためのフィクション――にほかならない。
言文一致の課題
語り手がどのような距離を持って作中世界を伝え、そこに自らの判断を介入させていくか。語り手の判断をできるかぎり控えて「客観」をよそおっていくべきであるという考え方と、むしろこれをつとめて前面に押し出していくべきであるという発想とは、その後も分裂を抱えたまま、長く近代小説を支配し続けていくことになる。
これは話すように書く、という近代の言文一致体に宿命的につきまとう問題であった。話し言葉をよそおう以上、ある意味では主観的な、きわめて具体的な応答関係が想定されるはずだが、近代小説の場合、言文一致体はまず何よりも正確で客観的な文体であると考えられていた形跡があるのである。
柄谷行人の考察
「幕府反訳方の前島密をとらえたのは、音声的文字のもつ経済性・直接性・民主性であった。彼にとって、西欧の優位はその音声的文字にあると思われたのであり、したがって音声的文字を日本語において実現することが緊急の課題だとみなされたのである」
とし、
「「漢字御廃止」の提言に明瞭にうかがわれるのは、文字は音声に仕えなければならないという思想である。このことは、必然的に話し言葉への注目となる。いったんそうなれば、漢字が実際に〝廃止〟されようとされまいと、実は同じである。すでに、漢字も音声に仕えるものとみなされており、漢字を選ぶか仮名を選ぶかは選択の問題にすぎないからである」
「問題は、そこにおいて「文」(漢字)の優位が根底的にくつがえされたことであり、またそれが音声的文字の思想によってなされたということである」
と述べている。
また文末表現については、言文一致の運動を「語尾」の問題に還元してしまうことはできないとし、森鴎外の『舞姫』二葉亭四迷の『浮雲』の一節を比較したうえで、 「『舞姫』の文章を英訳することはたやすい。文語体ではあるが、その骨格は完全に翻訳体であり、また〝写実的〟である。他方、『浮雲』はほとんど翻訳不可能であり、(略)一向〝写実的〟ではない。(略)語尾が「だ」であっても、「言文一致」というべきものではなかった」
とし、
「第一に、二葉亭はロシア文学を通して得た自己意識をもちながら、人情本や馬琴の文体のもつ引力に抗しきれなかったということだ。それもまた一種の文語体にほかならなかったのであり、話し言葉とはちがった位相に存在したのである。第二に、二葉亭が「言文一致」で書くためには、日本語の従来の話し言葉と書き言葉のいずれからも離れなければならなかったということである。「言文一致」において見出されるべき話し言葉は、もはや実際の話し言葉とはちがったなにかなのだ」
「鴎外の文体は語尾だけ変えればただちに現在の文章体になおしうる。したがって、それは必ずしも言文一致からの後退ではない。むしろ、「言文一致」の本質からいえば、『舞姫』の方が『浮雲』よりはるかに前進しているといえる。むしろ、そこに「言文一致」の問題をみるべきなのである」
と述べている。