ポスト資本主義社会
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まとめ
(資本主義では)資本家が資本の生産的使用の方法を知っていたように、ポスト資本主義社会では知識労働者が生産的使用の方法を知っている
社会的な課題
本文
資本と労働の未来
考察
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このあたりは個人的に類似性を感じる。
これは自分も感じた
特に、チームの話をするとき(野球のチーム、サッカーのチーム、テニスのチーム)にティール組織で同じような話を読んだなと思った Glaspによるハイライトインポートtkgshn.icon*3 われわれが異質な新しい社会に移行したことが初めて完全に明らかになったのは、イデオロギーとしてのマルクス主義と社会システムとしての共産主義の双方の崩壊によってだっ 知識社会における最も重要な社会的勢力は知識労働者と
資本家が資本の生産的使用への配賦の方法を知っていたように、知識の生産的使用への配賦の方法を知っているのは、知識経営者であり、知識専門家であり、知識従業員である。しかも、彼ら知識労働者のほとんどすべてが、組織によって雇用されて
だが彼らは、資本主義社会における従業員とは異なる。彼らは、自ら生産要素と生産手段を所有する。あらゆる先進国において、唯一の真の所有者として急速に登場してきた年金基金を通じて生産要素を所有する。そして知識を所有し、その知識をどこへでももっていけるという意味において、生産手段を所有
他方、ポスト資本主義社会における社会的な課題は、ポスト資本主義社会の第二の階級たる人々、すなわちサービス労働者の尊厳に関わる問題で
サービス労働者には、一般に、知識労働者となるうえで必要な教育が欠けている。しかしあらゆる先進国において、しかも最も進んだ先進国においてさえ、多数派は彼らサービス労働者で
さらにポスト資本主義社会は、価値観によって二分されることになる。しかしそれは、イギリスの小説家にして科学者、官僚でもあったC・P・スノー(一九〇五〜八〇年) が示した二つの文化、すなわち文学的文化と科学的文化への二分ではない。ここでいう社会の二分とは、知識人と組織人への二分である。前者は言葉と思想に関わりをもち、後者は人と仕事に関わりをもつ。実にこの二分を乗り越えた新たな統合こそ、ポスト資本主義社会における哲学的および教育的な課題と
- 産業革命は知識の応用によってもたらされた。東西両洋において、知識とは常に存在に関わるものだった。ところが、一夜にして行為に関わるものとなった。知識は資源となり、実用となった。私的な財であった知識が、一夜にして公的な財になっ
- 第一段階として、知識は一八世紀半ば以降、一〇〇年にわたって道具、工程、製品に応用された。それが産業革命だった。同時に、カール・マルクスのいわゆる疎外、階級、闘争、共産主義がもたらされた。 第二段階として、一八八〇年頃に始まり第二次世界大戦の末期を頂点として、知識は装いを新たにして仕事に応用された。その結果、生産性革命がもたらされた。この七五年間において、プロレタリア階級は、上流階級に匹敵する所得をもつブルジョア階級となった。こうして生産性革命が、階級と闘争と共産主義を打ち破った。 第三段階として、第二次世界大戦後、知識は知識そのものに応用されるようになった。それがマネジメント革命だった。いまや知識は、土地と資本と労働をさしおいて最大の生産要素となっ - プラトンが伝える賢人ソクラテスは、知識の目的は自己認識、すなわち自らの知的、道徳的、精神的成長にあるとした。一方、ソクラテスのライバル哲人プロタゴラスは、知識の目的は何をいかにいうかを知るにあるとした。プロタゴラスにとって、知識とは論理、文法、修辞、すなわち、やがて中世において学習の中核に位置づけられることになった三大教養科目、今日の一般教養を意味し - 一七〇〇年以降、わずか五〇年の間にテクノロジー(技術) が発明された。テクノロジーという言葉そのものが象徴的だった。それは、秘伝の技能たる「テクネー」に、体系を表す接尾語「ロジー」をつけた言葉だっ - 技能から技術への劇的な変化を示す偉大な記録、人類史上最も重要な書物の一つが、一七五一年から七二年にかけて、ドゥニ・ディドロ(一七一三〜八四年) とジャン・ダランベール(一七一七〜八三年) が編纂した『百科全書』だった。この書は、技能に関するあらゆる知識を体系的にまとめ、徒弟にならなくとも技能者になれることを目指し
- 書いたのは情報の専門家、すなわち分析、数学、論理学の能力をもつ者たちだった。ヴォルテールやルソーだっ
- 『百科全書』の思想は、道具、工程、製品など物質世界における成果は、知識とその体系的応用によって生み出されるとするものだった。『百科全書』は、一つの技能において成果を生む原理は、他の技能においても成果を生むと説いた。この説は、当時の知識人や職人にとっては異端のものだった。 実は、一八世紀の技術学校の中に、新しい知識の創造を目的としたものは一つとしてなかった。『百科全書』もそうだった。科学を道具、工程、製品に応用すること、すなわち技術への応用について論じる者はいなかった。そのような考えが実現するには、さらに一〇〇年後の一八三〇年まで待たなければならなかった。ドイツの化学者ユストゥス・フォン・リービヒ(一八〇三〜七三年) が、科学的知識を応用して、人工肥料の製造と動物性蛋白質の保存法を発明するまで待たなければならなかった。 だがおそらく歴史的には、リービヒの偉業よりも、初期の技術学校や『百科全書』が行ったことのほうが重要だった。数千年にわたって発展してきたテクネー、すなわち秘伝としての技能が、初めて収集され、体系化され、公開された。技術学校や『百科全書』によって、経験は知識に、徒弟制は教科書に、秘伝は方法論に、作業は知識に置き換わった。これこそ、やがてわれわれが産業革命と呼ぶことになったもの、すなわち技術によって世界的規模で引き起こされた社会と文明の転換の本質だった。 この知識の意味の変化こそ、その後の資本主義を必然とし、支配的な存在にしたものだっ
- いまや知識は、成果を生み出すために既存の知識をいかに有効に応用するかを知るために応用される。これがマネジメントである。同時にそれは、「いかなる新しい知識が必要か」「その知識は実現可能か」「その知識を効果的にするためには何が必要か」を明らかにするためにも応用される。すなわち、知識は体系的なイノベーションにも応用される。 この知識に関わる変化の第三段階が、マネジメント革命である。今日すでに、このマネジメント革命は、前の二つの変化、道具、工程、製品への知識の応用、および仕事そのものへの知識の応用と同じように全世界を席巻しつつある。 産業革命が世界中で支配的な流れとなるには、一八世紀中葉から一九世紀中葉までの一〇〇年を要した。生産性革命の場合には、一八八〇年から第二次世界大戦末期までの七〇年を要した。しかし今度のマネジメント革命の場合は、一九四五年から九〇年までの五〇年弱の期間しか要しなかっ
- すなわち産業革命、生産性革命、マネジメント革命の根底にあったものが、知識の意味の変化だった。こうしてわれわれは、一般知識から専門知識へと移行した。かつての知識は一般知識だった。これに対し今日知識とされているものは、必然的に高度の専門知識で
- これまで専門知識をもつ人間について論じられたことはなかった。これまで論じられてきたのは、教養ある人間、教養人だけだった。教養ある人間とはゼネラリストだった。いろいろなことについて話し書くために必要なことを知っていた。いろいろなことを理解するために必要なことも知っていた。しかし彼らは、何かを行うために必要なことは知らなかっ
- マーク・トウェイン(一八三五〜一九一〇年) が一八八九年に書いた小説の主人公、コネティカット出身のヤンキーは、教養ある人間ではなかった。ラテン語もギリシャ語も知らず、シェイクスピアを読んだこともなく、『聖書』もほとんど読まなかった。しかし彼は、機械のことなら、電気を起こすことから電話器をつくることまですべて知ってい
- 組織がますます知識労働者の組織となっていくにつれ、組織から組織への移動はますます容易になっていかなければなら
- 組織は、社会やコミュニティや家族と異なり、その最も基本的な資源として献身的な知識労働者を求めて互いに競争する。つまり組織は、製品やサービスと同じように、あるいはそれ以上に、従業員であれ、
- であれ、単なるシンパであれ、組織への参加についてマーケティングを行う。組織は人を惹きつけ、引きとめる。人を認め、報い、動機づける。そして彼らに仕え、満足さ
- ポスト資本主義社会においては、いかなる分野においても、知識を有する者は四、五年おきに新しい知識を仕入れなければならなくなる。さもなければ、時代遅れと
- 成功する組織は、自らの内に、自らが行っていることすべてについて体系的廃棄を組み込んでいる。数年ごとに、あらゆる工程、製品、手続き、方針について徹底して検討することを身につけている。 「もしこのことを行っていなかったとして、いまわかっていることすべてを知りつつ、なおかつ、これを始めるか」と問う。もし答えがノーであれば、「それではいま、何を行うべきか」と問う。 行っていたことについて再検討するのではなく、何か他のことを行う。組織は今後ますます、成功してきた方針、行動、製品の延命を図るのではなく、計画的な廃棄を行う。しかし今日のところ、これを行っているのは日本のいくつかの大企業だけで
- あらゆる組織が、自らの構造の中に三つの体系的な活動を組み込まなければならない。 第一に、組織はその行うことすべてについて、絶えざる改善、日本語でいうカイゼンを行わなければならない。歴史上あらゆる芸術家が、カイゼンすなわち体系的かつ継続的な自己改善を行ってきた。しかし今日までのところ、日本だけが、おそらく禅の影響だろうが、企業組織の日常の活動と仕事をカイゼンしている。カイゼンの目的は、製品やサービスを改善して二、三年後にはまったく新しい製品やサービスにしてしまうことである。 第二に、組織は展開、すなわちすでに成功しているものについて新たな展開を行わなければならない。ここでも日本企業が最も成功している。日本の家電メーカーが、アメリカの発明たるテープレコーダーをもとに、いかにして次から次へと新製品を開発していったかを見ればよい。 第三に、組織はイノベーションを行わなければならない。イノベーションは、体系的なプロセスとして組織化することができる。それは、そのように組織化すべきもので
- アメリカでは、エンプロイーのうちの最大の階層が、支払いを受けないで働く人たちである。アメリカでは成人の二人に一人、すなわち九〇〇〇万の人たちがNPOのために働いている。彼らのほとんどが週に三時間以上無給で働いている。彼らは明らかにスタッフである。彼ら自身もそう思っている。しかし彼らはボランティアであって、支払いは受け
- 所得、教育、社会的地位が上がるほど、仕事の能力は組織に依存するようになる。ポスト資本主義社会とは組織社会である。それは「従業員社会」である。組織社会と従業員社会は、同一の現象を別の角度から見たにすぎ
- 従属的な地位にあって単純なサービス労働につく従業員は、その前身たる賃金労働者すなわち昨日の肉体労働者と比較して、その置かれた地位はさして変わら
- スーパーのレジ係、病院の掃除人、配送トラックの運転手などである。しかしいまや、彼らは労働人口の四分の一もしくはそれ以上を占める。すでに工場の肉体労働者よりも多い。彼らの地位、生産性、尊厳こそ、ポスト資本主義社会における中心的な社会問題と
- これに対し、ポスト資本主義社会のもう一つの主要階層たる知識労働者の置かれた地位は、まったく異なる。知識労働者も、組織があって初めて働くことができる。この点において彼らは従属的である。しかし彼らは、生産手段すなわち知識を所有する。この知識労働者が、今日あらゆる先進国において、労働人口の三分の一ないしはそれ以上を
- マルクスは、資本主義が社会にもたらす最大の変化は働く者の疎外であるとした。彼ら働く者は生産手段をもたなかった。ますます高価となっていく機械を資本家から貸し与えられて、初めて生産することができた。 知識労働者もまた生産の道具を必要とする。しかも、おそらく知識労働者が必要とする道具に対する資本投資は、いかなる肉体労働者の道具に対するよりも多額である。しかしそれらの資本投資は、彼ら知識労働者が所有する知識という生産手段が伴わないかぎり、生産的とはなりえない。これに加えて知識労働者に対する教育投資は、肉体労働者に対するものをはるかに
- 知識労働者たる従業員の財産としての知識なくしては、機械は生産的たりえない。肉体労働者は全面的に機械に依存した。しかし、知識労働者たる従業員と生産手段との関係は相互依存的である。一方を抜きにしては、いずれも機能でき
- 歴史上、働く者は監督される存在だった。彼らは、何を行うか、いかに行うか、いかなる速さで行うかを指示された。これに対し、知識労働者たる従業員は監督されえない存在である。むしろ彼らは、自らの専門について自分よりも詳しく知る者が存在するようでは、あらゆる意味で無益な存在と
- 従業員社会において、従業員は組織を必要とする。組織なくしては、彼らは生産することも仕事をすることもできない。しかし、彼らには移動の自由がある。しかも、彼らは、彼らの生産手段すなわち知識を身につけたまま移動
- 物的な生産手段を所有するものは組織である。しかし、組織と知識労働者は互いを必要とする。いずれも一方だけでは生産することができない。換言するならば、いずれも独立せず、いずれも従属しない。彼らは相互依存的で
- これからは、忠誠心を給与によって獲得することはできない。忠誠心は、知識労働者たる従業員に対し、業績と自己実現のための卓越した機会を提供することによってのみ獲得
- しかもポスト資本主義社会においては、低技術のサービス労働者さえ、もはやプロレタリアではない。彼ら従業員は集団として生産手段を所有している。彼らの中に豊かといえる者はほとんどいない。金持ちなどさらにいない。だが、彼らは年金基金や信託を通じて、集団として生産手段を所有
- 彼ら生産手段の所有者たる従業員のために株主議決権を行使する人たちもまた、年金基金という組織のために働く従業員である。あるいは、自治体の年金基金の管理を担当する公務員という名の従業員で
- すでにアメリカでは、彼ら年金基金が唯一の真の資本家である。すなわち、ポスト資本主義の知識社会では、資本家は従業員である。彼らは従業員として給与を受け、従業員として考える。自らを従業員と認識する。だが、彼らは資本家として行動
- 資本主義のもとでは従業員が資本に仕えていたが、ポスト資本主義のもとでは資本が従業員に
- 先進国の製造業の基盤として、国内における技術、設計、マーケティングの能力で十分か、それとも製造そのものの能力も必要かという問題をめぐって激しい議論がなされて
- Notes: 上部構造の話とかも出てくるのかな?
- 先進国においても、知識の基盤さえあれば国内での製造は維持できる。しかし、機械に仕える旧来のブルーカラー労働者によって行われたのでは競争力は
- 製造は、機械を仕えさせる知識労働者によって行われて、初めて競争力をもつ。ある電炉メーカーでは、コンピュータがわずか九七人の技術者に仕えて
- しかし同時に、いくつかの先進国にとっても同じ種類の問題が出てくる。教育水準において、先進国的でなく、いまだに途上国的であるような少数派の人たちを多数抱える国の場合で
- 肉体労働力が資産ではなく負債となれば、今後の転換期において深刻な社会問題と政治対立を生ずることに
- Notes: これって「サービス労働者の尊厳に関わる問題」なんじゃないかな
- 先進国にとって、成功を約束する唯一の長期的視点に立つ政策は、製造業の基盤を肉体労働力から知識に転換することで
- 今日先進国において、年金基金を中心とする機関投資家が保有する資金量は、未曾有の額である。それら年金基金の保有する資金は、歴史上いかなる資本家が手にしていた資金をも矮小化して
- 一九世紀の生命保険は、実のところ死亡保険だったが、年金基金は老齢保険である。年金基金は、ほとんどの人が労働年齢をはるかに超えて長生きすることが当然となった社会では、不可欠の機関で
- アメリカでは一九九二年末現在、機関投資家が大企業の株式資本の過半を保有している。同じく機関投資家が、大企業のみならず中堅企業の固定負債のほぼこれに等しい割合を債権者として保有している。かつてアメリカにおいて、これほど金融支配力が集中したことはなかっ
- 年金基金資本主義は、かつての資本主義とは似ても似つかぬものとなる。また、いかなる社会主義者が描いた社会主義経済とも似つかぬものと
- 年金基金は奇妙な存在である。それは矛盾に満ちた現象である。年金基金は、膨大な資本と投資を支配する投資家である。しかし、年金基金を所有する従業員自身や年金基金を運営する年金管理者は、いわゆる資本家ではない。年金基金資本主義は、資本家なき資本主義で
- 法的には、年金基金が所有者である。だが、あくまでも法的には、である。年金基金は受託者にすぎない。所有者は最終の受益者である。すなわち、将来における年金受給者である。しかも年金管理者自身が、従業員たる財務アナリスト、ポートフォリオ・マネジャー、保険数理士である。所得の高い専門職ではあっても、資産家ではない。アメリカの大手年金基金たる連邦、州、市の公務員のための各種年金基金にいたっては、各々の政府から給与を受けている公務員によって管理運用されて
- 年金基金資本主義は、資本なき資本主義でもある。年金基金の資金は、いかなる資本の定義にも該当しない。用語だけの問題ではない。年金基金の資金は、実のところ繰り延べ賃金である。退職した人たちに対し、賃金に相当するものを支払うために積み立てられているにすぎ
- マルクスの定義、すなわち一九世紀から二〇世紀初頭にかけてほとんどの人によって認められていた定義によれば、資本はすべて賃金労働者からの収奪の蓄積である。ある社会主義の先達は、資産は盗物と宣した。だがいずれの定義も、賃金労働者が所有者でありつづけるという年金基金の資金については該当し
- アドルフ・バーリとガードナー・ミーンズの共著『近代株式会社と私有財産』は一九三三年に刊行された。この書は、大企業の法的所有者たる株主は、もはや企業を支配することができず、支配しようともしないと指摘した。かくして企業を支配する者は、所有権をもたない専門経営者となっ
- バーリとミーンズによれば、大企業の資金需要を賄う方法は株式の公開しかない。大企業は、いかなる資本の所有者およびその集団といえども、単一では賄いきれない資金を必要とするほどに成長した。大企業は、無数の人たちの投資によって資金を賄う。投資した者のうち、一人として企業を支配できるだけの所有権を得るにいたらず、経営に関心をもちうるだけの所有権を得るにいたら
- バーリとミーンズは、所有権が投資に変質したことを指摘し
- 株主の利益のみを目的とするマネジメントは、知識労働者を疎外する。しかるに今日、企業の命運は、彼ら知識労働者の意欲と献身によって決まる。投機家を儲けさせることに意欲をかきたてられる技術者はい
- 一九三〇年代の専門経営者は、短期長期双方の均衡ある成果、および企業活動に各様の関わりをもつ多様な利害関係者間における均衡ある利益の実現を図りつつ、マネジメントする者とされた。実は、この認識こそ正しいものだった。そして幸い、われわれは今日一九五〇年代当時には知られていなかったことを知るにいたっている。すなわちその方法で
- 投資家は常に、自ら所有する株式を売却することができる。しかし、大手の年金基金が所有する株式、さらには中規模の年金基金が所有する株式さえ、あまりに大きく簡単に売却することはできない。売却の相手は他の年金基金たらざるをえない。ということは、年金基金は企業をマネジメントすることもできなければ、立ち去ることもできなくなったということである。したがって年金基金が行うべきことは、企業が適切にマネジメントされるよう担保することで
- それでは、そのような社会構造を何と呼ぶべきか。一九七〇年代に初めてこの問題に取り組んだとき、私はこれを年金基金社会主義と呼んだ。しかし、いまや従業員資本主義と呼ぶほうが適切かもしれ
- 最低の生産性は政府職員のそれである。しかもあらゆる国において、サービス労働者の最大の雇用主が政府である。例えばアメリカでは、就業者人口の五分の一が、連邦、州、地方の政府機関において主として定型的な事務を行っている。イギリスでは、この割合が三〇%に
- 知識労働者は、自らの生産性や国民経済全体の生産性に関わりなく、多くの所得を得ることができるかもしれない。彼らは少数であって、しかも転職の自由度が高い。しかしその彼らでさえ、長期的には自らの生産性を向上させていかないかぎり、実質所得の低下という事態に直面
- 他方、膨大な数のサービス労働者が、比較的低い技能と教育しか必要としない仕事に携わっている。サービス労働者の生産性が低い経済では、その生産性を大幅に上回る賃金を支払うならば、結局は、インフレがすべての者の実質所得を引き下げる。そして間もなく、そのインフレが深刻な社会的緊張を
- 物をつくったり運んだりする労働においては、仕事は所与であり、その内容は一定である。フレデリック・W・テイラーは、砂をすくう作業を分析したとき、砂をすくうこと自体は所与とした。しかも、物をつくったり運んだりする仕事の多くは機械のペースで行われる。つまり、人間が機械に
- しかし、知識労働の仕事のすべて、およびサービス労働の仕事のほとんどは、機械のほうが仕事をする人間に仕える。仕事は所与ではない。決めていかなければならない。かつての作業分析や科学的管理法では、「この仕事から期待すべきものは何か」という問いは発せられなかった。しかし、知識労働者とサービス労働者が生産的な存在となるためには、この問いを発することが不可欠で
- 知識労働者とサービス労働者の生産性と肉体労働者の生産性には、もう一つ大きな違いがある。知識労働やサービス労働では、いかに仕事を組織するか、仕事とその流れに適した組織はいかなるものかを決定することが必要と
- 仕事のためのチームは三種類ある。仕事の生産性を高めるには、それら三種類のチームのうち、仕事と仕事の流れに最適なものを選択することが必要である。 第一のチームは、野球型チームあるいは病院の手術チームである。この種のチームでは、各メンバーが形としてチームをなしているが、全員が一体化して動くことは
- 野球やクリケットでは、選手のポジションは固定している。野手はそれぞれのポジションをしっかり守ればよい。互いに直接助け合うことはできない。野球では、昔から「バッター・ボックスでは孤独」といわれる。同様に、麻酔医が看護師や外科医を助けたり、その逆が行われることは
- 第二のチームは、サッカー型チームあるいはオーケストラのチームである。夜中の二時に心臓発作の病人のもとに駆けつける病院の救急チームである。 この種のチームでも、選手は固定したポジションをもつ。チューバ奏者がコントラバスの楽譜を演奏することはない。あくまでもチューバの楽譜だけを演奏する。病院の救急チームでも、救急救命士が心臓を刺激するために胸部切開を行うことはない。しかしこの種のチームでは、チームのメンバーはチームとして動く。それぞれの分担について相互に調整しつつ、仕事をして
- 第三のチームは、テニスのダブルス型チームである。少数編成のジャズ・バンドであり、四、五人の最高幹部からなるアメリカ企業のトップマネジメントである。 この種のチームは規模が小さく、七人ないし九人が最大である。チームのメンバーはポジションが固定しておらず、優先すべきポジションをもつにすぎない。彼らは互いの領域をカバーし、同時に強みと弱みを調整し合う。 後衛は前衛の強みと弱みに合わせてプレーする。ダブルス型チームでは、他のメンバーの強みと弱みに対応した調整を条件反射的に行うことができて、初めて機能する。すなわち、ボールが相手チームのラケットを離れるや、後衛が前衛の弱みであるバックサイドをカバーするために走ることができて、初めてチームとして機能
- これら三種のチームは併用できない。そもそも同一のチームが、同一の競技場において、同時に野球とサッカーを競技することはない。オーケストラは、ジャズ・バンドと同じやり方で演奏することはできない。しかも、これら三種のチームは純血である。混血では機能しない。他の種類のチームへの変身は困難であり、苦痛である。そのような変身は、古くからの大事な人間関係を壊す。しかるに、仕事の性格、道具、流れ、製品の変化が、チームそのものの変身を要求
- 機械を必要とせず、あるいは機械を必要としても機械に仕えさせている知識労働とサービス労働の場合、成果に貢献しない雑事は、すべて意識的に排除していくことが必要で
- 知識労働者とサービス労働者のあらゆる活動について、「本来の仕事か」「本来の仕事に必要か」「本来の仕事に役立つか」「本来の仕事がやりやすくなるか」を問わなければなら
- 仕事の改善は、仕事を行っている者のところから始めるべきことを知るにいたった。まず彼らに対し、「われわれが教えてもらえることはないか」「教えてもらえることは何か」「どのような道具が必要か」「どのような情報が必要か」と聞くことが必要である。すなわち生産性の向上については、働く者自らが責任を負い、マネジメントするよう求めることが必要で
- 知識はその絶えざる変化のゆえに、知識労働者に対し継続学習を要求する。サービス労働者に対しても、たとえそれが純粋に事務的なものであっても、継続的な自己改善努力としての継続学習を要求
- 実は、メンテナンスのような肉体的な仕事であれ、請求事務のような事務的な仕事であれ、アウトソーシングが最も必要とされる組織が政府機関である。今日、政府機関の生産性は最低である。しかも政府機関に働く者のほとんどが、そのような支援的な仕事に携わって
- すなわち、大企業、政府機関、大病院、マンモス大学は、必ずしも大量の労働者を雇用する存在ではなく
- これまでの組織では、部下の行うことは上司が知っていた。上司自身、数年前には部下と同じ仕事をしていた。しかし知識組織では、上司は部下の仕事を知らないものとみなさなければならない。通常、上司は部下と同じ仕事を経験してい
- しかるに知識組織においては、専門家の貢献について評価するだけの知識をもっている者さえほとんどい
- 過去一〇年から一五年の間において大きな成功を収めた社会政策は、すべて政府、特に地方自治体が企業やNPOに事業をアウトソーシングしたもので
- 今日アメリカでは、ヘッドスタートプロジェクトや若年犯罪者更生プログラムなど、多くの社会的プログラムがアウトソーシングされて
- アメリカでは、政府の研究開発費の七〇%が国防に使われている。日本では、これが五%に満た
- いる。アメリカの国防研究は、若い科学者や技術者の中でも優秀な者を惹きつけている。その結果アメリカ経済は、その最も必要とする滋養、すなわち知識の枯渇状態にある。アメリカでは、優秀な技術者がスマート爆弾のために働いている。その間同じく日本の優秀な技術者は、ファックス機器や自動車の高性能化のために働いて
- NPOによる社会サービスは、きわめて大きな成果をあげている。したがって、ポスト資本主義時代における社会と政治は、新たな社会セクターを必要として
- これからは社会的なニーズが二つの分野で高まる。一つは、伝統的に慈善としてとらえられてきた救済サービスの分野である。貧しい人、障害のある人、寄る辺なき人、害を受けた人を助けることである。もう一つは、コミュニティと人に働きかける社会サービスの分野で
- 歴史の転換期には、救済サービスを必要とする人の数は必ず増大する。地球上のいたるところに難民がいる。戦争と社会的激動の当事者、人種、民族、政治、宗教による迫害の犠牲者、政府の専制あるいは無能による被害者が、大量に存在
- 一つには、あらゆる先進国において高年者が急速に増加するからである。一つには、保健に関わる研究や教育、治療や入院のための施設が求められ、多様化し複雑化していくからである。一つには、成人の継続学習がますます必要になっていくからである。一つには、片親の家庭が増加するからである。こうして社会セクター、特に社会サービスのための社会セクターが、先進国における成長セクターと
- 政府はアウトソーシングへと進む。ちょうど企業が支援的な仕事、事務的な仕事、保守管理の仕事をアウトソーシングするように、政府もその業務の実行を、外部の社会セクターにアウトソーシングしなければなら
- 社会サービスのアウトソーシングには、もう一つ理由がある。サービス労働者の生産性の向上というニーズである。政府はサービス労働者にとって最大の雇用主である。ところが、政府におけるサービス労働の生産性は最低の水準にある。しかも政府職員であるかぎり、生産性の向上は不可能である。政府機関は官僚主義たらざるをえない。生産性よりも規則や規制を優先せざるをえ
- 今後、これら社会セクターに属するコミュニティのNPOの成長が、政府の方向転換を可能にするための重要な一歩となる。 NPOは、意義ある市民性の回復の核でも
- その必要を満たすものが社会セクターである。そこでは個人が貢献し、責任をもつ。ボランティアとして世の中をよくすることができる。これは、すでにアメリカにおいて現実となって
- アメリカには、社会セクターで活動するNPOが一〇〇万近くある。その活動はGNPの一割に相当する。費用の四分の一は寄付により、四分の一は医療補助などの政府支出により、残りは私立大学の授業料や美術館の売店の売上げなど、提供する社会サービスへの対価によって
- NPOはアメリカ最大の雇用主である。成人の二人に一人、九〇〇〇万人が週に三時間以上、教会、病院、赤十字、ボーイスカウトやガールスカウト、救世軍やアルコール中毒更生会などのリハビリ活動、家庭内暴力からの駆け込み寺、黒人児童のための教育施設でボランティアとして働いている。 やがてアメリカでは、ボランティアの数は一億二〇〇〇万人に増加し、その平均労働時間は週当たり平均五時間と
- 社会セクターにおける市民性は、ポスト資本主義社会における社会と政治の病いを治す万能薬ではない。しかしそれは、病いに立ち向かうための前提条件である。市民性の証しとしての市民の責任を回復し、コミュニティの 徴 である市民の誇りを回復するもので
- 資本主義経済においては、銀行の預金金利と貸出金利の差は必然的に拡大し、その結果として、銀行と銀行家だけが利益をあげ、支配的存在に