バタイユ
バタイユは、美しいバラも花びらをむしった後は「下品な」子房が一つ残るだけである、ということを指摘する(Bataille[1970a:176=1974:41])。そればかりではなく、花は「不潔でねばつく根」をもたねば存在しえない。なぜなら「花」とは「下肥の悪臭から養分を汲み取って」いるからである(Bataille[1970b:176=1974:42])。バタイユはここでも「根」のような「下方[le bas]」のものに注目する。そして、その下方のものと結びついてのみ「花」は存在することができると考える。
バタイユは、人間を支えているのは「泥にひたされた」足であることに目を向ける。そして、実際には体内で血液は「上から下へ、そして下から上へと同量流れ」、これは、「不潔なものから理想的なものへの、そして、理想的なものから不潔なものへの往復運動」を意味している(Bataille[1970b:200-201=1974:72])。にもかかわらず、人間は上方へ向かって成長して行き、人間生活が一つの「上昇」だけであるかのように「執拗に空想」し、足を「低劣な器官」と見なし、それに対して「立腹」する。
いくら理想にひたろうとしたところで,その心の高揚は「足の親指の激痛によって制止される」とバタイユは続ける。
動物の中でも最も高貴でありながらも、彼の足には魚の目があるからだ。つまり彼には足があり、そしてその足は彼の意志とは無関係におぞましい生存を生きているのである
バタイユはさらに続ける。
人類は地上の泥から可能なかぎり遠ざかろうとするのだから、しかし、一方で、この上なく純粋に高揚したために自分自身の傲慢さが泥へと引きずり落とされるたびに、ひきつった笑いが彼の歓喜を絶頂へともたらすのだから、つねに多かれ少なかれ退廃的で屈辱に満ちた足の親指は、人間の不意の転落、つまりは死と心理的には類似していることが分るのである
ブルトン派サド解釈批判
バタイユはブルトン派を「サドの擁護者」と呼び、彼らがサドの「著作」と「人格」を「それに対抗させられているすべて」のものの「上位」においた、と述べ、さらに次のように言う。
彼らは,サドが人間の存在に与えようと思った電撃的で胸を詰まらせるような価値は,フィクションの外では理解されがたいのだと,そしてただポエジーだけが,実践への応用を免れていることで,サド侯爵がかくも淫蕩なやり方で引き起こそうとした電撃と胸詰まる思いを,ある程度まで自由に扱うことを許されていると,安易にも主張することであろう
そんなブルトンは下記のようにサドの価値を解釈すると述べる
この著者は興奮を掻き立てるための題目とはなっているが,それもこの興奮が排泄(有無を言わせぬ出)を容易にする限りにおいて出しかない。/D・A・F・ド・サドの生涯と作品は,したがって排泄を促すという卑俗な使用価値以外に使用価値を持たないらしい。そして排泄のうちで好まれるのは,たいていの場合,迅速な(そして激しい)快楽であり,人はさっさと排泄し,排泄物を見ようともしない
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バタイユ的サド解釈
性的な活動、異性を前にした態度、糞便、尿、死、死体〜を前にしての祭儀、さまざまのタブー、儀礼としての人肉食、神と見なされる動物を供儀に捧げること、生肉を食すること、特権的な笑い、啜り泣き(一般的には死を対象とする)、宗教的恍惚、糞便と神と死体に関する態度が同じであること、どうしようもない脱糞をしばしば伴う恐怖、化粧し高価な宝石や輝く装身具をまとうと女は輝かしくもまた淫蕩にもなるというありふれた出来事、賭事、止めることのできない浪費、そして金を突拍子もない用途に使うこと⋯こうしたことは、活動の対象(排泄物、性器、死体など)が、常に違和的物体(das gantz Anderes)と見なされているという意味で一つの共通する性格を示している。つまり、この対象は、肉体および精神を完全に多少とも暴力的な排出(あるいは射出)の状態におきたいという欲望の中に吸収されるものであるが、同じく、それはまた容赦ない破断の結果としても排出されるものであるという意味で、一つの共通する性格を示しているのである。違和体(異質なもの(heterogene)という概念のおかげで、排泄物(精液,経血,尿,糞便)と聖別され、神的で、黛嘆すべきと見なされてきたすべてが主観的には基本的に同一であることを明らかにできるだろう
一方に不浄で穢れたもの―糞便,尿,死,死体等―,他方に浄らかなもの―神―が上げられている。そして両者をバタイユは同じカテゴリーにおく。そのカテゴリーの名称が「異質」であるということ。→異質学という視点の生起である。 『宗教生活の原初形態』的に分析すすなら、聖と俗の分離は、非日常(則、異質)と日常(同質)な体験と捉えられる。則、穢れたものと浄らかなものは聖ということでもあるのではないか??この視点から捉えてみると集合的沸騰は双方に起こるといえよう。 つまり例えば集団的な食人は天啓をもたらすこともあるのではないか。
異質なものの革命作用
ヴェルヌイユは,ひとに排便させた。彼はその糞便を食べ。そして彼のものをひとが食べてくれるように望むのだった。彼が自分の糞を食べさせた女は嘔吐したが,彼は女が吐き出したものを飲み込んだ
排泄物のように徹底的に「異質なもの」が「同質なもの」に無理やり侵入する一つまり排泄物を口の中に入れられる一と、同質性はその安定性を失ってしまう一排泄物を口に入れられた女はそれを吐き出す一。ここでバタイユが見ているのは「異質性」の「同質性」を覆す力である。バタイユはサドの中にこの力を見ていた。そして、バタイユはこの力を革命を結びつける。
いくつかの衝動は,停滞状態にある社会(獲得作用の段階のうちにある)の利害と対立し、反対に社会革命(排泄の段階)を目的そのものとして引き起こすことがある
さらにこう続ける。
自然が持つ力–例えば暴力的な形態での死、流血、突然の破局とそれに続く恐怖に満ちた苦痛の叫び、不変と見えていたものが恐ろしくも破砕すること、生育してきたものが衰弱し、悪臭を放ちつつ腐敗すること−と深く共謀することなしには、そして、抗しがたく轟き奔出する自然をサド的なやり方で理解することなしには、革命家は存在しえない〜
バタイユのいかんともしがたいブルトンへのいらだちは、ブルトンが革命を夢想しながらも、サドの中に「異質が同質を覆す力」を見なかったからであると考えられるだろう。そしてまた、これまで見てきたように、この「カ」を「上方」に存在するイデアとして捉えていたからでもあるだろう。バタイユにとって,この「力」は「下方」からしか沸き上がってこないものであったはずである。
グノーシス観
グノーシスの二元論的宇宙観。則、「善=神的、精神的領域」「悪=物質的領域」と捉えられた上で、人間の内部にある神的領域と宇宙の神的領域が同一であることを認識することが救済であるという思想。 バタイユは物質と人間的観念および理性という二元論へと読み替え、そして前者に「低次のもの」という位置づけを与えるものと考える。こうして、バタイユはグノーシスの思想を低次の物質と高次の理性をめぐる弁証法的思想と考えることになる。 ヘーゲル解釈
ところでヘーゲル哲学は、ヘーゲルの時代の古典的哲学に劣らず、非常に古い形而上学的概念を出発点にしているように思われる。つまりそれは、形而上学が奇怪きわまる二元論的宇宙発生論と結び合わされ、まさにそれ故に奇妙に低俗なものとされていた時代に、とりわけグノーシス派の人々によって発展させられた概念から出発しているのである〜ヘーゲルの学説は何よりもまず並はずれた完璧至極の要約の体系であるから、グノーシス派の本質である低俗の要素がそこでも見出されるとしても、要約され去勢された状態にすぎないことは明らかである
絶対精神はまさに低次のものを高次のものに昇華させることであり、グノーシス的なのである。 ヘーゲルにおいてこうした要素がその思想において果たしている役割は、破壊的な役割のまま維持されている。たとえその破壊が、思想の構築に必要とされているものであるにしても、である。だからこそ、ヘーゲルの観念論に弁証法的唯物論が(思想がそれまで持っていた役割を物質に与えることによって諸価値を完全に転倒させながら)取って代わった時、そこでの物質が抽象的なものではなく、矛盾の源泉となったのである
それはヘーゲル哲学の破壊的要素を見出す。それはつまり『花言葉』における「花」と「根」。『足の親指』における「頭」と「足」。本稿における「理性」と「物質」。高次で上方で上昇を照らし、下方で支えるあらゆるものを軽視する思想に立腹する。これが振り子としてのバタイユ的弁証法(引用)の起源と言えるのではないか シュルイデオロギーの批判
このような態度をバタイユは「鷲」と表現する。つまり、それは「ブルジョワ的知性」の持ち主であり、「優越的な権威を求める」。 なぜか。「ブルジョワ的知性」の持ち主はプロレタリアートではない。だとすれば、彼がマルクスにならい真摯に革命に走れば、彼は彼自身と敵対し、やがては自身を滅ぽすことになる。だからこそ彼らは
イカロス性
一方、この「鷲」は「イカロス」でもある。なぜなら、このものは「罪がある」という転移された劣等コンプレックスを持たざるをえず、そこから「激しく打ち倒されたいという無意識的で病理的な欲望」が生じるからである。 結果,「シュルレアリスムの一番目につく特性」が下記となる
イカロス的な挑発の反映を、悲壮かつ喜劇的で動機を欠いた文学へと変容させること
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バタイユのあり方
ブルジョワ文化の悪臭を放つどぶを掘り進む
人は、そうすることによってのみ下記を実現する。
地下の深みに、巨大で不吉でさえある洞窟が開かれるのを見る
人間と自然
人間はさほど植物と異なっているわけではない
植物は猥褻な外貌をした根を地の内部に向かって伸ばし、腐敗した有機的物質を取り入れ吸収しようと(する)
人間もまた、「断固たる道徳と矛盾しつつ」、「下方にあるものへと引っ張ってゆく衝動を受け」る。そして、それにより、「ついには、上方に向から精神に公然と敵対させられることになる」
社会と自然
続いて、バタイユはこの思考を社会レベルに適応する。
人間の魂の運動は、それが引き起こす大いなる混乱と飢え渇く下劣さを歴史的な転覆運動の中に導き入れつつ、ただプロレタリア階級の内部、桁外れの騒擾にゆだねられた群集の深みでのみ生起する
つまり、根底的な自然のアナロジーが革命であり、自然の領域と社会の領域を切り離さないのである。この論考の末尾部分でバタイユは次のようにも言っている。
大地は低次のものであり、この世はこの世であり、人間の擾乱は少なくとも卑俗で、その上たぶん告白しがたいものだ。〜ブルジョワ的な精神形態と対抗しつつ、革命的な精神の形態を条件づけるのは、大小の欲求の卑俗さ全体と、〜人間の醸成する騒擾、すなわちありとある人間〜の騒擾である
バタイユが言わんとしたのは、革命とは人間の擾乱とあらゆる欲求に由来するが、そのもっとも下層にあるのが低次の大地である、つまり自然であるということだろう。
生産と保存という過程に還流されていく部分
奢侈、葬儀、戦争、宗教行為、モニュメントの建立、賭博、娯楽、芸術、生殖を目的としないセックスなどがあげられる。このような生産と保存の過程から逸脱した消
バタイユの宗教研究にも現れた、ヘーゲル的なものと異なり、体系へと回収されていかない否定性とピッタリ対応している。
生産的消費が未来を前提にしているのに対して、非生産的消費の意味は現在の瞬間のうちに与えられている。
じっさい我々にとって聖社会学は、単に社会学の一部門をなすものではありません。その一部門とは例えば、宗教社会学のことで、たしかにこれと聖社会学は混同される危険があります。つまり聖社会学は,宗教の諸制度についての研究とみなされうるのです。しかしそれだけではなく、聖社会学はさらに社会のコミュニオン的運動の総体についての研究にもなりうるのです。例えば聖社会学は、権力と軍隊をとりわけその固有の対象とみなし、また人間のあらゆる活動学問、芸術、技術を考察します。ただしその活動が、「コミュニオン的」という言葉の積極的な意味において価値を持っている限りでのこと、つまりその活動が、一体性を創造する限りでのことなのです。今後続く私の発表では、人間の実存のなかでコミュニオン的である事態すべてにまさに特有の聖なる性格についてお話しする予定でおります。ただ、ここではまず次の点を強調しておくべきでしょう。すなわちこのように了解された以上、聖社会学は存在の問題についてはすでに解決済みとみなしているということです。もっと正確に申し上げますと、聖社会学はこの問題へのひとつの回答であるということなのです。要するに聖社会学は、社会を構成する諸個人以上のものとして,社会の本質を変える全体運動が実在すると認めているということです。 コミュニオン的=一体性の創造
未知なるもの、他なるものを、知へと、同一なものへと還元することなしに、それらと交流すること、言い換えればそれらとのあいだに共同体(コミュニオン)を打ち立てることはいかにして可能なのだろうか。これに答えることが極めて困難なのは、一般的に考えられているようなコミュニケーションが前提とするもの―メッセージ及びその送り手と受け手各々の同一性―が不可能な地点においてなされるコミュニケーションの可能性が問われているからである。この不可能なコミュニケーションをあえてコミュニカシオンと呼び続け、バタイユは生涯の問いとしてそれに徹底的に取り組んだ(引用) 多自然主義の概念の多様体を維持しながら...みたいな話に似てる 次のような考え方を一つの法則のように認めることを提案します。つまり,人間が相互に結合するのは,引き裂かれた裂け目や裂傷をとおしてでしかないということです。この考え方はそれ自体、ある種の論理的な力を持っています。諸要素が合成されて一つの全体を形成するとしましょう。これが容易になされるのは、諸要素のそれぞれが、自分の一体性が引き裂かれたために、コミュニオン的存在へ向けて、自分固有の存在を失っていくときなのです。様々な通過儀礼、供犠、祭儀はどれも、この個人間相互の喪失と交わりの瞬間を表出させています。
つまり両者の間に残される埋めがたい裂け目を通してこそ、非人称的で未知なるものに変質した客体及び主体自身に出会いうると考えるに至ったのだった。
一人の男と一人の女が愛によって結ばれるとき、彼らはともに、一個の結合体を、全面的に他に閉じた完結した存在を、形成します。しかし最初の衡が危険にさらされると、剥き出しのエロティックな追求が、当初はお互いだけを対象にしていた恋人たちの追求に付け加わる、あるいはこれに取って代わるということが起きてくるのです。自分を失いたいという欲求が、自分を見出したいという欲求を超えていくのです。このとき第三者が存在しても、それは、彼らの愛の始めのときのように究極の障害には必ずしもなりません。彼らは、抱擁のときに出会う共通の存在を超えて、荒々しいエネルギーの消費のなかで際限のない無化を追い求めだすのです。この消費のさなかでは、一人の新たな男にしろ女にしろ一個の新たな対象を所有することは、よりいっそう無化を進める消費への口実でしかなくなります。同様に、他の人よりいっそう宗教的な人々は、供犠のなされる共同体への狭い顧慮を持たなくなります。この人たちは、もはや共同体のために生きるのではなく、供犠のためにだけ生きるようになります。そうしてこの人々は、供犠の熱狂を伝染させて広めたいという欲望に徐々に駆られていきます。エロティシズムが難なくオルギアに横滑りするのと同様に、自己目的化した供犠は狭い共同体を超えて、宇宙的な価値を欲するようになります 「狭い共同体」とは有形の共同体、つまり組織や団体、党など形のある共同体のことである。バタイユはその意味での共同体に関心を持たなくなり,広大な宇宙の消費へ身を開いていく
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父親における抗議の側面
カフカは、彼の全作品に「父親の圏外への逃避の試み」という題をつけたいと思っていた。しかし、思いちがいをしてはならないが、カフカは決して本当に逃避したいと思っていたのではないのである。彼ののぞんでいたこととは、圏内で―排除された者として―生きることだった。もちろん彼は、心の底では、自分は追放されてしまっているということを充分に承知していた 幼童性の地平
カフカの性質のなかでとくに奇妙に思えるものは、父親が、自分のことを理解してくれ、自分の読書、のちには文学、の子供らしさを承認してくれ、自分が少年の頃から自分の存在の本質とも特殊性とも信じこんできたものを、唯一不壊のおとなの社会から外に放り出すことはしないでくれるようにと、心の底からのぞんでいたということである。彼の父親とは、彼にとっては、もっぱら有効な行動という価値にしか関心をもたない権威の人間だった
すなわちバタイユによるとカフカの父親への反動は、ある種の幼童性であるということ
(カフカは)これ(父親の価値観)とはきびしく対立する現在の欲望の優位性を固辞しながら、子供らしく生きようとする人間だった~彼(カフカ)は、夢想という小児性のなかにとどまることを欲したのだ~(カフカが欲した条件とは)自分がいまそれであるところの無責任な子供のままでいつづけることというのである
さらにそれは回帰ではなく、コドモゴコロのようなものを持ち続けること。作品においては下記にその要素を見出す
わたしは、端的にいって、カフカの作品は、全体としてまったく子供らしいひとつの態度を表明していると言うことができると思う~『城』のK、『審判』のジョゼフ・Kほどに子供らしく、また黙々として突飛な人間がいるだろうか。この『ふたつの作品にあらわれるまったく同一な人物』である作者の分身は、おとなしいながらも押しがつよく、計算もなく動機もなく闘争をつづけ、しかも、常軌を逸した気まぐれと盲目的な頑迷さとのために、なにもかもだめにしてしまう人間なのである
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呪われた経済学
限定経済から普遍経済へ
制限された経済の視座から普遍経済のそれに移行することは、本当にひとつのコペルニクス的転回を実現している。つまり、思考と、それから道徳を転倒してしまうということなのである。最初から、およそ見積もることのできる富の一部が損失に、あるいは可能な利得なしに非生産的使用にゆだねられているならば、見かえりなく商品を譲るのは当然であり、不可避でさえあるのだ ポトラッチ論
ポトラッチを一方的に富の消尽と解釈するわけにはいかない。最近になってはじめて、私はこの困難を解決することができ、「普遍経済」の原理にかなり両義的なベースを与えることができた。それは、エネルギーの浪費は常に事物の反対であるが、事物の秩序のなかに入り込み、事物に変わって考慮される、ということである。
バタイユがここで事物の秩序と言っている通常の意味での経済循環からすると非生産的消費は異物である。だが、それはエネルギー循環というより広い観点からすれば、システムの維持になくてはならない要因ともなる。バタイユが事物の秩序にだけ注目することを限定経済とし、より広くエネルギー循環を考えることを普遍経済と呼ぶ理由がここにある。 システムの維持に非生産的消費が必要なのは富の過剰性に原因がある。そして、富が過剰なのは、我々に富をもたらすエネルギーが過剰だからである。
バタイユによれば、太陽からくるエネルギーが地球上の生物にとって必要以上のものであることが根本である。バタイユはこれを、太陽が我々にエネルギーの無償の贈与をしてくれているという事態として捉える。太陽の贈与の無償性は、ポトラッチにおける贈与の激しい無償性と相似的である。また、それは神の無償の愛という宗教性すら帯びている。 過剰なエネルギーは過剰な富を生み、それを処分しなければ、システムに溢れてシステムを破壊する(戦争)。だから、人類はシステムの維持のために非生産的消費、あるいは過剰性の消尽をしなければならない。だから、禁欲ではなく蕩尽こそが道徳的なはずである。キリスト教とブルジョア道徳によって、こうした本来の在り方が転倒してしまっただけなのだ。 /icons/hr.icon
nzht評論
ドゥルーズとの交差
『アンチ・オイディプス』の未開社会=負債経済の起源とも言えそう。つまり交換をしたい未開人同士ではなく、有り余る富の蕩尽が第一段階として生起する。それによって対象者と被対象者のヴァーチャルな負債が構成される。これらのパラダイムの生産的消費化とも言えるものが、「交換」概念でありバタイユのいう限定経済なのでは?? 老子との交差
これはまさにエネルギーを排他することによって、ユートピアを実現しようとする意味で、バタイユ的な危惧といっても差し支えないのではないか
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冒頭
文学とは潔白なものではなく、さらには、有罪なものだと、結局は自分をそのようなものだと認めなければならなかった。権利を持っているのは行動だけだ。文学とは、ついに再び見出された幼年期なのである (l'enfance enfin retrouvee)。だが、幼年時代が支配をするならば、それに真実があるだろうか? 行動の必然性を前にして際立つのは、カフカの誠実さであり、彼は己にいかなる権利も認めなかった。結局は、文学は自らの有罪を認めなければならなかったのだ /icons/白.icon
サルトル批判
サルトルが詩と道徳の基礎を問いに付す一問題を単純化した〜サルトルの不手際さが提起する問題
ボードレールは、成熟した人間として、つまり、散文的な人間として行動することを断固として拒むのだが、彼の恥ずべき態度を自らのものとして担わないのであれば、それを非難するのも当然だろう。サルトルは正しい。ボードレールは子どものように、不届き者であることを選んだのだ。だが、彼を生憎だと決めつける前に、なされたのがどういった種類の選択なのかを問わねばならない。それは力不足の結果なのか?嘆かわしい間違いに過ぎないのか?反対に、力が有り余って起こったのか?おそらくは悲惨な仕方で、けれども、決然としたやり方で?このようにさえ問おう。こうした選択が、本質的に、詩の選択なのではないか? それが入間の選択なのではないか?これこそが私の本の意味なのだ。
バタイユは、成熟した大人が持つ行動の価値観からは唾棄すべき、ボードレールの児戯的反抗が、無力さの帰結ではなく、覚悟を持って選び取られた可能性を示唆した。
以降の論述は、覚悟をもってなぜ本選択を行ったのかを示した。
基礎づけ
いわく、「快楽」を味わうには、「我々の資源の非生産的な消費」が不可避であり、これが「消耗」に対応する。
他方、「労働」は「我々の資源の増大という効果を生む」。問題となっているのは、「現在私にこれだけの資源があるとして、それを消費すべきか、増大させるべきか」の選び取りであり、後者は「生産」という言葉でも表現される。
そして、この「労働」と「快楽」、「生産」と「消費」という対立が、「神」と「悪魔」の対立、「善」と「悪」の対立に結びつけられていくとバタイユは捉えた
table:悪夢から逃れるための手法論
労働 快楽
生産 消費
神 悪魔
善 悪
ボードレールの覚悟
バタイユからすると、これは個人の選択の問題ではなく、歴史の展開のなかで社会が迫られる選択の問題であって、その点を見落としているのが「サルトルの分析の欠陥」だとされる。
ボードレールは「労働することの拒否」を担ったのだが、それが可能になるのは、「労働の収益を最大限、生産手段の増大に割り当てる、飛躍的発展の渦中の資本主義社会」のなかでであって、それに対する所作としてなのである。かくして、ボードレールの態度は、一個人の態度としてではなく、社会状況における文学=詩そのもののありうべき態度として、以下のように解釈される。
文学的探求は、この段階になって、妥協の可能性に制限されることを止めたのだ。〜サルトルの分析が浮かび上がらせる助けとなるが、ボードレールは、ほかの人たちが反逆(rebellion)から引き出したもの を、自分の努力の空しさから引き出したのである。〜 ボードレールの拒否は、最も深刻な拒否だ。 というのも、対立する原理を肯定するものではいささかもないからである。〜こうして詩は、外部から与えられた要請から、意図の要請から離れて、ただ内面の要請だけに応じるものとなった〜。詩のこの成熟した(majeure)決意には、弱い個人の選択とは別のものが存在している
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「彼は約束の地を、その死の前夜にしか見ることができないように宿命づけられていたという事実は、とても信じることのできない事実である。この至上の予見には、おそらく、人間の生が、いかに不完全な一瞬でしかないものであるかという事を、思い知らせる以外の意味はないのだろう。それというのも、この種の生(約束の地の期待)は、たとえ無際限に持続することがあるとしても、その実現はただの一瞬でしかないからである。モーゼがカナンの地に入ることができなかったのも、彼の生があまりにも短かったからではなく、それこそ人間の生だからである。」と。これは単に、これこれの善がむなしいと言おうとするだけのものではなく、目的という目的は、すべて一様に意味のないものであるという事を言おうとするものである。すなわち、ひとつの目的とは、つねに、水の中の魚のように時間の流れのなかなに希望もなく投げ入れられている、宇宙の動きのなかの任意の一点でしかないのだ。それというのも、この場合、ほかならぬ人間の生が問題でだからである。
さらにバタイユの解釈は次のように続ける
ところで、これほど共産主義の立場と正反対なものがあるだろうか。共産主義とは、行動、とりわけ世界を変革する行動だと言えよう。つまり、その立場においては、時間のなかに、すなわち、きたるべき時間のなかに位置付けられている変革された世界という目的に、実存と、目指されたひとつの目的においてしか意味をもたない現在時の行動性と、変革されるべきこの世界とが、従属させられているのである。〜すべて人類〔人間性〕とは、ひとつの目的という抗いがたい力に、現在時を従属させようとする傾向を持っている〜モーセが嘲笑のまととされたのは、まさしく彼が目的に到達する直前に死ぬように予定されていた人間だったからだということ〜目的は時間の手に委ねられているのに、時間は制限されたものでしかない〜だからこそ〜目的をただのおとりにしてのみ固持しようとしたのである。
則、ある任意の一点(おとり)=一瞬に向けた被投的投企は、その目的に実存と現在時の行動と世界を従属させようとする。これが「人間の生」である。 だが、「目的は時間の手に委ねられているのに、時間は制限されたものでしかない」のである。からして無意味だと唱えたのだ。そしてその象徴がモーゼであるということ。
共産主義の反対物
共産主義という理性にもとづく、一体系の厳密さにまで高められた有効な行動こそ、すべての問題の解決なのだが、しかし、この有効な行動性も、現在時がそれにつづく時と結びつけられていないような、純然たる至高の態度を相手にする時は、これを実利の面で、絶対的に断罪することも、また許容することもできないだろう。 純然たる至高の態度とはカフカのことであり、その具体的な乖離を下記のように続ける。
この困難さは、とくに、理性だけを尊重して、無益で奢侈に流れる生と、子供らしさとの領分である非合理的な諸価値には、一眼を忍んだ私的な利害〔興味〕しか認めようとしない一つの党派には、大きすぎる事だろう。
多元性では片付かない、ノマド的なカフカの態度は洗練された共産主義とは大いに相反するという事であり、下記で締める。
おとなのまじめさにまで成長しきっていない子供たちには許されるものだが、しかしもしひとりのおとなが、子供らしさに、ひとり立ちできる意味を付与して、なんとか至高の価値を手に入れようと文学に専念することにでもなれば、彼はたちまち共産主義社会からその居場所を失ってしまうことになるだろう。〜おとなのカフカの、子供らしい、なんとも説明のしようのない気質など、とても弁護されるものではないだろう。それというのも、共産主義とは、その原理からして、カフカの意味の反対物であり、またそれの完璧な否定だからである。
然れど、協調性
彼は、自分を否定するひとつの権威に対して、深々とおじぎをする。〜つまり彼は、愛しながら、死に絶えながら、愛と死との沈黙をさしむけながら、相手におじぎをするのだが、相手はなんとしても彼を譲歩させることはできないのである。それというのも、それというのも、彼がそれであるところのものとは、その至高のかたちにおいて、愛と死との思いを宿しているのにもかかわらず、なんとしても譲歩しようとはしない虚無だからである。
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連続性と非連続性
労働から生起する禁止
楽園からの追放、即ち連続性から非連続に導いた非動物化の契機、つまり禁断の果実が労働であるということ。
人間は道具をつくり、これを生活手段に供するために利用し、次いで、おそらくかなり急速に、余分な贅沢品としても利用するようになったということが知られている。一言で言えば、人間は労働によって動物と区別されるようになったのである。それと同時に、禁止の名のもとに知られている束縛をみずからに課した。これらの禁止は本質的に―そして確実に―死者に対する態度にもとづくものだった。それらはまた同時にあるいは同じ頃に―性行動にも関係していたと思われる。~労働はまた意識への道であり、この道を通って人間は動物性から脱したのである。対象の明晰判明な意識が私たちにあたえられたのも、労働によってであり、知識はつねに技術の伴侶たる地位にとどまっているのだ。
性欲の禁止
性的充溢は逆に、私たちを意識から遠ざける。それは私たちの識別能力を減退させるのだ。また、自由に溢れ出る性欲は、不断の労働が性的渇望を弱めるように、労働の能力を弱める。だから、労働に緊密に結びついた意識と性生活とのあいだには、どうしても両立させがたい不一致があるのだ。人間が労働と意識によって限定されている限り、性的な過剰は単に抑制しなければならないばかりか、また否認したり、時には自分の内部のそれを呪ったりしなければならないほどのものだった。
死の禁止
死者は生き残った者にとって危険のである。もしも彼らが死者を埋葬しなければならないとすれば、それは死者を保護するためというよりも、この「伝染」から彼ら自身が避難するためなのである。しばしば「伝染」の観念は屍体の腐敗と結びっき、人々はそこに恐ろしい攻撃的な力を見ている。生物学的に腐敗と呼ばれる無秩序は、新しい屍体と同様、運命の似姿であり、それ自身のかに不吉性質を含んでいるのだ。私たちは今では伝染性の魔術を信じない、しかし私たちのうちの誰が、蛆がいっぱい湧いた屍体を見ても蒼くならないと言い得るだろうか。古代の人々は骨の乾燥することに、死の瞬間に導入された暴力の不吉性質が鎮められたことの証拠を見ている。多くの場合、死そのものが暴力に関与し、暴力の無秩序に協力しているように生存者には見えるのであって、最後に白くなったその骨が暴力の鎮圧を表すのである。
埋葬によって死者に近寄ることを禁止し区画化する。非連続へと向かう非動物的行為によって構築された利益を破壊するやもしれない(下記でそれを暴力という)、連続性への誘いを隠蔽し留める作用をもつ。
暴力
連続性のあまねく手
基礎的には、連続から非連続へ、あるいは非連続から連続への過程がある。私たちは非連続の存在であり、理解できない運命の中で孤独に死んで行く個体であるが、しかし失われた連続性への郷愁ノスタルジーをもっているのだ。私たちは、偶然の個体性、死ぬべき個体性に釘づけにされているという、私たち人間の置かれている立場に耐えられないのである。この死ぬべき個体の持続に不安にみちた望みをいだくと同時に、私たちは、私たちすべてをふたたび存在に結びつける、最初の連続性への強迫観念オブセッションをも有している。 楽園すなわち連続性へ導いてくれる逆エデンの実こそ暴力である。
労働と理性の世界は人間生活の基礎であるが、労働は私たちを完全に夢中にさせることはなく、かりに理性がそれを命ずるとしても、私たちの服従は決して無際限ではない。人間はその活動によって合理的世界を築きあげたが、依然として暴力の基盤を自分のなかに保っている。自然そのものが暴力的ので、私たちがどんなに理性的になったとしても、暴力はふたたび私たちを支配することができるのだ。
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禁止と違反
2項の緊張関係
出口裕弘によると《違反は禁止を取り除くが、廃棄はしない》が正しいらしい
さらに以下のように続ける
禁止は必ずしも放棄を意味するのではなく、違反という形での実行を意味するのである。狩猟も性的活動も、実際には禁ずることのできいものである。生命が必要とする活動を禁ずることはでいが、しかし禁止は、これに宗教的な違反の意味をあたえることができる。禁止はこれに制限を設け、その形を規則化するのだ。また禁止は、こうした活動によって罪人となった者に、贖罪の機会をあたえることができる。殺したということによって、狩猟者や戦士は神聖になったのである。世俗社会に帰るためには、彼らはこの穢れを洗い落し、身を清める必要があった。贖罪の儀式には、狩猟者や戦士を清めるという目的があったのだ。古代の社会は、これらの儀式を習慣的なものにしていた。
エロティシズムの非動物性
彼岸の越境はそのまま動物性への回帰を意味しない。
禁止の違反は動物的な暴力ではない。戦争は、理性のある存在によって(必要とあらば暴力のために知恵を働かせて)行使された暴力だ。少なくとも禁止は、それを越えて初めて殺人が可能となるよう敷居なのである。戦争もまた、集団的に、この敷居を乗り越えて初めて可能となる。もしこのいわゆる違反が、禁止に対する無知とは違って、こうした限定された性格をもたなかったとしたら、違反は暴力への復帰、暴力という動物性への復帰になってしまうだろう。そんなことは実際に全くあり得ない。組織された違反は禁止とともに、社会生活を決定する一つの全体を形成しているのである。違反が頻繁に―そして規則的に―行われるということは、ただちに禁止の神聖不可侵の力強さが傷つけられるということではない。心臓の膨張運動が収縮運動を補足するように、あるいは爆発がそれに先立つ圧縮によって誘発されるように、違反はつねに期待された禁止の補足物なのである。
即ち暴力(違反)による連続性への歩みは、禁止自体の想定された行為である。そこに世俗社会への贖罪儀式が規定づけられ、それらを遂行することによって社会秩序を強固とするということである。(法の象徴化的な)