ディルタイ
ディルタイによると、「この論文は本誌の次号につづく論文の基礎をなし、それは十七世紀における人間の分析を叙述するはず」であった。が、この計画は実現されなかった。少なくともそういう題目では出ずに終わった。
1891-92『ルネサンスと宗教改革』
中世の形而上学=神学を構成する三つの動機
形而上学は、神学と結びついていたために、十四世紀にいたるまでヨーロッパ精神をいとも強く支配しつづけた。この形而上学=神学こそ、教会の支配組織の核心であった。それは十四世紀までは依然としてその力を減ぜずにいたけれども、この時はじめて価値内容、威力、活気が衰えだした。三つの動機が、この形而上学=神学のなかで集まって交響楽のような全体を形づくったのであって、こうした全体は、中世の数世紀をつうじていわばつねに新たな多声の交錯をなして鳴りひびいているのである。
われわれは以下でこうした三つの動機を明らかにしていく。
宗教的動機
すべての人間的な形而上学のなかにある宗教的動機は、あらゆる民族の比較的古い発展段階を支配している。(...)宗教的動機の核心は、人間の魂と生ける神-多神信仰であれ一神仰であれ-との、心情のうちでとらえられた関係である。したがって摂理信仰、ひとは神に頼りうるという確信、神との別離の苦しみ、神と和解したという喜悦感、神が霊魂を救いたまわんという元気づける希望、が核心なのである。この最後のものは、キリスト教にいたるまでの宗教のあらゆる段階において、宗教のいちばん強い関心事となっている。
ディルタイが「いちばん強い関心事」とするそれは救済である。その証明としてまさにあげられるは、救済にむけた道の果てに至る、体系の高次段階における類似性である。
いずこより来たりいずこに去るやも知らず、自然の力を制御したり未来を意のままにすることも叶わず、そのさい目前の災によりもむしろ畏れや希望によって動かされ、しかも同時により高い生活の意識を裡に秘めつつ、人間の魂は、現にそうだが、いくらか高い段階においてはいたるところで、宗教的態度の似たりよったりの特徴をあらわすものである。摂理言仰、祈薦、儀式、高貴な家柄という意識、神を言頼した献身のなかで安息をえようとするひたむきな努力、死滅といった感覚的仮象を物ともせずにより高い力を借頼して未来におく確にみちた望み、などである。いかに消沈したこころもその不安な生活をまもられ、いかに単純なこころも神のこころが己れにひらかれているのを知る。このような謙虚な頼の念は、父と子の象徴のうちに遺憾なくいいあらわされている。この測りがたいほどゆたかな関係のうちに、人間心情のあらゆる深さが含まれているからである。
この地点にはじめて救われるか否かという善悪の次元が導入されるのだ。人類は高い次元にある〈善い〉魂と、低き次元に位置する〈悪き〉魂に分類され、それは道徳という形式で現れる。「かように宗教的な心情状態が道徳意識ともつれ合っていたから、この心情状態から、良心、掟および生をふみ越える公正な秩序などの根拠が、神のうちに探知されなければならなかった」。そして生まれるは「神の掟、神の裁判官たる役目、つぎに掟にもとづいた宗教団体と神との契約、法律違反と処罰、贖罪と赦免」すなわち神法である。
こうして僧侶階級や聖職者によって指導された、法律をも神に関連させるこれらの諸民族において、さらに広範な宗教的概念があらわれる。つまり神の、神の裁判官たる役目、いわば法秩序にしたがって法律違反に結びついた刑罰、これらの刑罰を免れる手段、などの概念があらわれる。これらの概念の基礎は、僧侶階級の影響をうけたこれらの国家における、宗教、道徳、法の実際関係だった。バラモンは、他の宗教的な掟のもとでつくられた慣例や法慣習から、市民的生活関係といわず宗教的生活関係といわず、およそすべての生活関係をひとつの理想的図式に系統だてる法典をつくった。この法典は、最初の人間であるマヌという名をもち、何はともあれ啓示に由来するものとされた。アヴェスタ経は教義や儀式や全生活を、一種の僧侶による法典編集で律した。エジプト人の『死者の書』は、霊魂をしてみずからにこう語らせている。「おお、心よ、わが母の心よ、この世のわが生存の心よ、偉大なる神のみ前であれに不利なる証言をなすなかれ」。それから冥府の王にむかっていう。「わたくしはひとさまに虚偽の行ないは致しませんでしたし、やもめを虐げたり法廷で嘘をついたこともございません」。こうして死者は、深遠にしかも人間的に把握された法律的、道徳的、儀式的な掟をつぎつぎにとおり抜ける。これらの掟はこうして神から命じられた全体を形づくっているのである。そしてエホバの宗教からは、申命記の立法のなかで、法、道徳、儀式を包括する、エホバに由来するとされた立法が生じた。いまやこれらの制度から、法律上の象徴的表現が宗教的な表象や生活のなかにはいってくる。そこにもろもろの宗教的な概念象徴が生じ、それらが法律的=政治的生活関係を世界全体に投影する。
救済の是非が宗教を育み、それは法律的=政治的生活関係へと昇華される。ここで重要なのは宗教は神学へと発展を遂げることにある。なぜなら歴史が証明しているように、預言者の死が遠ざかるほど原理・原典を重んじる宗教には解釈の多様性が生まれる。それは信徒を神託=儀礼的なものから、知的=学識的なものセクトへと移行させるのである。こうしてあらゆる宗教は起源からその時間的距離に応じて「知的な過程およびそのなかで発揮される知識欲と結び合わされていた」。
こうして法律的な概念象徴とならんで、いまや形而上学的な、すなわち哲学的思惟の脈絡でつづく概念象徴があらわれる。それとても、宗教的過程の奥底から生じるものである。なぜならこの宗教的過程では、生き生きとした敬虔な態度は、この態度のうちにあらわれてくる考えを思想に定着することと離れがたく結びつけられており、これらの形而上学的な概念象徴も宗教的体験にとっては人間の本性中に存する心的な力そのもののもつれ合いと同じように抹殺しがたいものだから。宗教的体験にたいするかような形而上学的な概念象徴は、さしずめ、神への世界と霊魂との依存が世界の発生と保存にかんする教義のなかでいいあらわされる、その仕方にある。宗教が神学となる場合、宗教はこういう教義をつくる。(...)そのとき、神の由来、霊感、神的精神の告知にかんする概念的把握の数えきれない変化が、さまざまな国民の神学を分け、へだてる。この形而上学的な概念象徴へ、宗教的体験のあらゆる深い意味がそそがれた。とはいえ同時にこの形而上学的な概念象徴は、重箱のすみをほじくるような概念スコラ主義の舞台と化した。概念スコラ主義は、その性質上、再三非現実的なものを基礎として新しい非現実的なものを建てていったのである。
こうして中世にキリスト教は形而上学=神学へと深化された。そうした手続きがスコラ的な営為を同時に育てることを知らずして。
美的=科学的動機
形而上学の第二の動機は、ギリシア人によって、ヨーロッパ的思惟を規定する形態に発展させられた。この動機は、人間の美的=科学的態度のなかに横たわっている。ここで前に述べた事柄をざっと概略しるしてもよかろう。この美的=科学的態度のうちに生じる決定的概念とは、つぎのようなものだ。すなわち、宇宙、全現実界の思想的数学的な、かつ調和ある秩序、世界の根拠としての、また存在するものと人間の認識とを結ぶ紐帯としての至高の英知あるいは世界理性、建築技師もしくは世界建設者としての神、実体的形相、そして最後に世界の霊、星辰の霊や草木の霊、がこれである。すべてのこれらの概念がともに作用してひとつの主命題をなし、そのなかでギリシア精神の美的=科学的態度が形而上学的に投影された。
しかしディルタイはこれを、なぜ宗教的動機の数々に類推しえない独自の動機と位置づけるのか。それは以下で著されるように論理的、数学的に合目的性に因果を紐解く態度にあるといえよう。
この原理は、宇宙をその理性において、その論理的、数学的、調和のある、内在的に合目的的な状態において認識することを可能にし、他方では、人間という理性的存在が合目的的に形づくる行動にたいして基礎と確実性とを保証する。数学を基礎づけ、宇宙における星辰の運行を天文学の理論にしたがわせ、それから社会の客観的な目的秩序をも把握するにいたった、あの偉大な勝利の道における理性の自は、この世界定式のなかに投影された。こうしてこの世界定式は、有神論的に考えられたにしろ汎神論的に考えられたにしろ、宗教的態度によって制約された世界解釈とならんであらわれる。両者は類似している。だが、なんという対立であろうか!かしこ〔宗教的態度によって制約された世界解釈〕ではいたるところ生気が曜動し、ここ〔形而上学的定式〕には論理的結合、原因と結果がある。この定式のなかでのみ美的=科学的態度がみずからを聞明し投射するのだが、こうした定式を中心とする体系は、地中海に散在していたギリシア人にあって、論題からそらせたり矛盾したりする命題と争いながら発展をとげた。ソクラテス、プラトン、アリストテレスおよびストア派において、この体系は世界史の偉大な勢力のひとつとなるのである。
歴史的、原理主義的な態度に示されるような解釈に基づく文献学的とも呼べるような宗教的論証と異なり、ディルタイが云うようにそれはまさに「客観的形而上学」、解釈と定式の差異である。
形而上学のこの自然的立場は、後世の経験科学でなしとげられた、現実の因果的諸要素への分析に先だつものである。力学の根本観念は、かような分析からアルキメデスやガリレイにおいてはじめて生じ、星辰界の秩序ならびに有機体の合目的性と形態の多様性は、さらに後世の段階においては、経験的に確認されたもろもろの力や法則からみちびき出せるようになる。
しかし近代に成就された「現実の自然力および自然法則に分解されないうちは」、それと異なる方法論をもって世界を理解せんと試みる。そこで彼らが頼るは「存在者と思性との概念中で与えられた関係から出発する」、「理性的な力(ノモス、ロゴス)」に基づく、あらゆる因果の解明であった。こうした経緯に基づいてアリストテレスは第一哲学を形而上学とし、数学と並び自然学を第二哲学とする。こうして形而上学とはギリシャのなかで万学の女王として華々しく顕現した。
ギリシア的思弁のこの構造性質を、私はなおプラトン=アリストテレスの理性学の眼目について説明しよう。この理性学の前提はいずこにおいても、暗黙であれ明白であれ、認識においてわれわれのうちにある精神的過程がわれわれの外の存在者をわがものにする、ということである。ギリシア精神にとって、すべての認識は一種の探知だ。認識および行為の両者は、ギリシア精神にとっては、主として知性がその外部にある何かと接触することである。つまり、認識とは、これに対立する存在を意識へとりいれることであり、行為とは意識を形づくることなのである。(...)かようにして人間理性と合理的な世界全体との親近性が、結局のところ、一切のわれわれの思性や行為の基礎となっているのである。この親近性は、プラトンが善のイデアにおいて、アリストテレスがヌースにおいて定式化した、両者の精神的な紐帯によって、保証されている。こうして、全ヨーロッパの形而上学の根本定理は理性学として成立する。
ヨーロッパの形而上学において「認識の説明根拠は、認識と現実の論理的性格との一致という原理におかれている」。わかりやすく整理するならば、この二項対立を前者に位置づけることが形而上学もとい哲学の始源であり、後者に位置づけるのが科学である。「こうしてもろもろの概念が、世界の論理的連関における論理的処置の産物として生じ、知識における諸概念のつながりが知覚を解釈するさいの標識となる」。これこそがディルタイが美的な動機と呼ぶものである(多分)。
しかるにディルタイにしてみれば認識の形而上学がデカルトに始まるというハイデガーの主張は間違いである。「存在するもの、ならびに真理についてのデカルトの解釈は、認識論あるいは認識の形而上学の可能性のための前提を初めて創りました。デカルトによって初めて実在論は、外界の実在性を証し且つ即自的に存在するものを救う状況に置かれています(...)デカルトが人間をスプエクトゥム(Subjectum)として解釈したために、かれは将来のすべての人間学の種類と方向のための、形而上学的前提を創っているのです。さまざまの人間学が出現したことは、デカルトの最高の勝利に他なりません」。それは哲学の起源、ギリシャによって原初より開幕されたものであり、ギリシャの勝利に他ならないのである。
ルネサンス
ペトラルカ論
ペトラルカ(...)の名声は、ヴェネツィア市参事会の意見によれば、有史以来キリスト教徒のもとで道徳哲学者および詩人が博した最大のものであった。ウェルギリウスの精神とキケロの雄弁とが、フィレンツェ人のある表現にしたがうと、彼において人間の手足をつけたように思われた。
ではその名声の本懐はどこにあるのか。ディルタイ曰くそれは「そのソネットで、愛の常套的な手練手管や冷やかすような比喩のなかにおいても生の感動的な動機」を著したことでもなく、「彼が長い忘却の塵のなかからその多くを救い出した彼の草稿のもとで、あるいはかつて「巨大なるひとびと」が活躍したローマの廃墟のもとで、己が先祖の思索や生活をみずからのうちで復活する術を心得た、そういう歴史的また美的な予見」でもなければ「彼がキケロやセネカやアウグスティヌスからとってきた、彼の道徳哲学の学問的な命題」でもないとする。これらはすべてその本懐が及ぼした副産物あるいは「構成要素」であるとし、「すべてのこれらの業績のどれも、彼に世界的名声をもたらさなかったであろう」とする。それではディルタイはなにをペトラルカの真価とするのか。
青年時代のゆたかな愛情、壮年時代の名誉欲、老年時代の世間にたいする倦怠、それどころか世界苦といった、年齢に伴う自然な感情の移り変わりをもったひとりの人間をしめしたこと-ほかでもないこの事が、彼の時代を魅了したのだ。
そうした境涯はペトラルカ自身が『二つの運命の治療法についての対話』にて、「〔人生の〕初めには盲目と忘却とが占めており、進むうちに疲れが生じ、終わりには悲哀が生じ、その〔時期に〕迷いが生じる」と、自覚的に評している。無垢にはじまり、絶望に終わる。それはまさにエデンの園にて無垢なる生をうけた我々が、知恵と成長によって失楽園するように。彼はこうしたペシミズムに諦念とも言える暫定的な解でもって、その人生の幕を下ろす。
人間が彼の生の衝動において、絶えざる死の意識を含んでいるこの生において、どうして魂の平和をうるだろうか(...) 。生きるということは、彼にはたたからことである。彼はイラクレイトスのひそみにならっていう。「万物は戦いによって生じる。そしていうところの変化とは闘争である。」彼は『二つの運命の治療法について』という著作のなかで、われわれを取りかこむ幸不幸の威カ-そして幸福でいるほうが彼には不幸に耐えるよりもむずかしいように思われる-を、しばしば饒舌すぎるほど、しかもいたるところで人生の苦悩、危険および人間ぎらいにたいする際限ない感受性をもって、描いている。「魂は、非常に異なる欲望、また非常に反する欲望によって、自らとたたかうであろう。それぞれ、己れひとり、ただ自らにのみ尋ね、自らにのみ答えるであろうが、心のさまざまな、たえず入れ替わる衝動によって、あるいはここへ、あるいはかしこへと駆りたてられる。いずこにも全きものはなく、いずこにも一なるものはなく、己れ自身に敵対し、汝を切りきざむ」。『魂の平和について』や道徳的書簡で彼がとくに利用したセネカに見いだした人生哲学の問題の解決を、彼はある主要特徴においてはアウグスティヌスと結びつけることができた。外部の影響や情念に隷属した状態から、魂は徳をとおして解放され、「魂の平和」に達しうるのである。とはいえストア派の教えは神の支持をとり入れることによって、弱められまた補われもした。こうした中途半端は、十五・六世紀じゅうの人間の道徳的自律の意識のこうした発展のただ中で、再三われわれに立ちむかうであろう。しかも理性と徳とは、心の安静という目的をこのような神の援助をもってしても完全にはもたらすことができない。なぜなら、かような神の援助には、なんといっても昔の言頼が失われていたからだ。(...)そして『世の蔑視について』は、アウグスティヌス主義に屈服することをもって終わりをつげる-「しかし私には欲望を抑える力がない」というひとつの留保をつけて。このペシミズムは道徳的なものにもおよび、これを彼は「倦怠」つまり世界苦と称しているが、それが彼の最後の言葉である。
宗教改革
エラスムス
十六世紀のヴォルテールともいうべきエラスムスは、一代をつうじてひとびとを支配し、反数会運動の音頭をとった。呱々の声をあげたときから、彼は不幸と僧侶の圧迫とに見まわれた。やがて彼は僧院で彼らを余すところなく知り、彼らを憎悪することを覚えた。彼は旭日のように立ちのぼるヒューマニズムの学問にむかい、前進するにつれて間もなく自分は著述家に生まれついていると感じた。詩といわず散文といわず、対話や論文や書簡といわず、彼はありとあらゆる形式を駆使したが、どこでも軽接で、つまりはひとりの即興詩人だったのだ。とはいえ彼の著作はどこでも、時代が必要としたものの感情にみたされていた。(...)およそ時代が矛盾をもったものならすべて、彼において似た響きを発した。力強い男性的な世代の、官能にかんするみだらな冗談への愛好、学問の興隆にたいする喜び、教会にたいして抱く全く不覊独立な精神の憎悪、しかも時代の神学的問題への真摯な沈潜、などがそれである。彼は、すっかりちがった表情と顔つきとの百面相をそなえた魔神のようだった。そしてまさしくそのために、同時代人の目が、問いつつ、疑いつつ、しかも魅惑されて彼から離れなかった。宗教的寛容を擁護することによって、彼ははかりしれない功績を立てた。(...)ところでしかしこの十六世紀のヴォルテールにとっても、時代の大問題である真のキリスト教が彼の批判的作業の中心となった。彼は純正な福音を把握しようとし(...)すべての博識な手段を駆使して、彼はいまや「キリストの哲学」にまで前進しようとした。
そこで主張されるは魂すなわち精神の-肉体に対する-高次な位置づけである。肉体は魂の牢獄であるとしたプラトンより、西洋哲学ひいては文化は肉体、そして物質を下位に位置づけてきた。エラスムスが為すのはそのキリスト化であるゆえに、ディルタイは「キリストの哲学」とそれを呼称するのだろう。そして高次へと、精神へと向かう道として、彼はキリストの教えを辿るのだ。
彼は『エンキリディオン』のなかでいっている。霊魂は自己が天界に起源することを忘れずにいて現世の物質性とたたかう、と。そしてその場合、霊魂にはいまや肩仰から援助がくるのであって、この仰の本体は、まさに、霊魂がキリストを目標として仰ぐことにある。「肩じたまえ、キリストは実際は空ろの声にはあらず。愛、純札、忍耐、純潔、要するにこれこそかれが教えしすべてのものに他ならぬことを」。そしてこの単純な「キリストの哲学」は、彼にはキケロ、セネカ、プラトンの哲学と一致する。彼らも、神の霊感に感化されて書いたのである。キケロは神性によって魂を吹きこまれた。かようにしてすでにエラスムスは、もっとも高貴なローマ人やギリシア人には啓示もしくは霊感があらわれているという説を主張する。
では神性、霊感、そして魂という前ルネサンス思想のタペストリーを織るエラスムスになぜ、理性の守護者であり、原点にして頂点たる啓蒙の信徒ヴォルテールの名を冠するのか。それは彼の思想形態が「ヒューマニズム的啓蒙主義」の地平線上に設置された「神学的合理主義」であることに存在すると、ディルタイは云う。
エラスムスが神学的合理主義の創始者である。神学的合理主義を、私は信仰内容にたいする悟性の優越した反省というふうに解する。そしてこうした反省によって信仰内容は、神、キリスト、人間の関係、自由意志と神の影響との関係、すなわち全く相互に没交渉な独立した存在の関係、に分解される。さらにこれに一般にエラスムスによって彼の懐疑主義と称されている、悟性の限界についての強い意識が加わる。この神学的合理主義は、とくにロレンツォ・ヴァラやルィース・ビーバスに代表されたようなヒューマニズム的啓蒙主義から発展したものである。そしてその最初の古典的著作は、エラスムスの著書『自由意志論』であるが、彼はこれをかなり躊躇したのち、一五二四年に公刊した。本書はルターの信仰論の主要点を論じたものだ。それの論駁書『奴隷意志論』は、一五二五年十二月にでた。するとふたたびエラスムスは論駁書においてこれに応酬したが、(...)ルターは、このヴォルテール的天才における多芸多才、千変万化する人物にたいし、公平に評価することができなかった。(...)エラスムスにかんするルターの意見は的をはずれていて、そのもっとも曖烈なのは『卓上語録』にあるものである。「エラスムスはあらゆる宗教の敵であり、キリストの特別の敵であり敵対者、エピクロスとルキアノスとの完全な模写で似姿だ」。
では肝心の自由意志論とはなんたる主張のものか。エラスムスは第一に「人間の自由を主張あるいは前提する聖書の章句」を紹介し、第二に「祝福に達する過程における神の専らなる活動をあらわしている他の章句との矛盾を検討する。最後に、この矛盾を解決して、自由と神のはたらきとの協同を確立しようと企てる」、それこそが本書の試みである。
エラスムスは意志の自由を「それによって人間が永遠の救いにみちびくものにむかい、もしくはこれから離反することができる、人間の意志の力」と定義する。「ところで第一に、聖書には人間の自由意志を全く明瞭に確定していると思われる、多くの章句があることは否定できない」。全く明白な福音書の個々の草句とならんで、彼がとくに強調するのは、もし自由意志になんらの力もゆるされないとすれば、キリストの指図は一般に生命と効力を失うということである。(...)エラスムスはこうした事をすっかり納得のゆくように説明し、これをくり返しきびしく教えこむ。すなわち、応報、刑罰、功績、審判というような概念、ならびに良心の存在、聖書的意識にもあらわれている指図、威嚇、約束の存在は、ことごとく意志の自由をその条件としている。それどころか彼は、神佑加護とか功績とか祈祷といった特別に宗教的な概念でさえ、人間の自由を要求することを炯眼にもしめす。そして聖籠の選びが、選ばれた者に憐みふかい実をしめすその同じ神を、除外された者には無慈悲な専制君主にするということを、彼以後のなんぴとも彼ほど雄弁に立証した者はいない。人間が律法を守ることができないことを証明するために律法を与える神は、違反者を処罰することができるように法律を制定したあのシラクサの専制君主よりも、さらに専制君主的である。福音書が与え、キリスト教徒の良心のうちでくり返し経験される古代キリスト教の概念連関は、意志の自由を必ず前提として要求するという証明が、エラスムスによって、圧倒的な力をもってルターにたいしてなされた。
「しかし他方で、彼があからさまに承認する自由意志に反対するパウロの章句の証明力を、少なくとも減らすことは彼に困難になる」。では「いかにしてこの事実」すなわち自由意志が「神の全能という事実と一致させられるか」。
再生という「不可分なわざへの協同」がここに起こる。しかも恩籠が主原因であって、人間の自由は副原因にすぎない、というふうにして。この事はまずつぎのように説明される。すなわち、火には燃焼する力が内在するが、しかもこの力は同時にその主原因として、神をもち、神がみずからのはたらきをとおして火のなかで燃焼力を保つと。しかしそれは例外なくむしろ神の援助に、また神と自由意志との機械的外的な協同に帰着する。父がまだ歩けない子にりんごをみせる。これをとろうとする子は、父の手で前につれてゆかれる。
ルター
人類には、進歩する学問の連続性が存するばかりでなく、宗教的=道徳的発展の連続性というものも存する。人間が進歩しつつある自己の生活経験の連関の中で十分に生を楽しむように、人類自身もまたしかりである。しかも道徳生活における大きな変化は、つねに宗教生活の大きな変化と結びついている。歴史は、従来どこにおいても、宗教なき道徳という理想が真実であることを証明していない。(...)ルターにあってもそうだった。彼はカトリシズムを改革しようと欲した。つまり福音を革新しようと欲した。こんにち最古のキリスト教を知っているわれわれからすれば、彼や彼の同輩の人間についての道徳的概念は、最古のキリスト教をも越えてさらに宗教的=道徳的発展の進路上で、決定的な一歩を進めるものである。伝統の制約と重荷を負った彼の理念財から、この新しいものをより出して述べることが課題である。
こうした「宗教的=道徳的発展の連続性」とその地平におけるプロテスタンティズムの偉大さ、それをさし示す好例こそ、ウェーバーであると言える。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でいわれるように、近代資本主義の精神のための分水嶺がここにあるのであり、その分析を新たな観点にて行うことをディルタイは試みるのである。
ルターは一身に反対のあらゆる動機を集めていた。時代のもろもろの要求を感じとり、その生き生きとした思想をまとめる非凡な天分が彼にはきわだっていた。しかも同時に彼は、その宗教的天才のうちに孤独な、かたよった力をもっていた。そうした力が同時代人を、彼らの知らないより高い威力をもって、しばらくの間あるいはずっと自分のほうに引きつけたのだ。彼は生まれつき行動者支配者にできていた。彼の人格には、なにやら独裁的なもの絶対的なものが存した。ゲオルク公にたいして悪魔の使徒とよんだルターの誹謗、イギリス王のプロテスタンティズム論駁書を柳眉を逆立てた娼婦の罵詈雑言に比較し、王を道化役とよんだルターの誹謗、また至聖の主すなわち教皇の「晩餐にかんする教書」について書いたものにうかがわれる荒々しい気質は、大脚不敵な人間の権力感情の表示である。彼は、かつて攻撃されたメランヒトンをこう慰めている。いったい悪魔は君を絞め殺す以上に何ができるというのだ、と。(...)教皇使節カエタヌスにすでにこの青年を見たとき気味わるい感じを抱かせた、ルターの悪魔のような目は、こうしたドイツの世界の現実をすべて見抜いた。そして彼の勇敢なエネルギー、現実にたいする理解、そうした現実の支配は、たえず彼に意識されていた見えない世界との連関にもとづいた。われわれがストアもしくはルター、カントもしくはカーライルに同感するならば、ここに英雄的行動の唯一の基礎があるので、ヴォルテールのような人物が無数にいたら、ただ賢者を粗募な力に屈服させるのが落ちであろう。あられる創造的能力と天才的な豊かな心情にもかかわらず、彼には単純なこころが与えられていた。彼の信仰には、意志的人間に特有なもの、つまり人格から人格へ伝わるものがある。この単純でしかも豊かな資性から、彼は教会のがらくたの軽減をなしとげ、人間の全体性を侵攻において把握し、国民をローマからもぎ離した。そして宗教的=道徳的過程にかんする彼の把握の頑固な偏狭さがますます明らかとなったときですらなお、彼は国民の大多数には依然としてわかりやすい近しい人物だった。彼は彼の時代のひとびとを支配した。それというのも、彼らは増大した自己をルターのうちにみとめうると信じたからだ。個人的信仰心をローマの僧侶支配から、生死を賭けたたたかいにおいて解放した人間として、彼は彼の時代のもっともすぐれたひとびとを引きつけた。(...)ツヴィングリにおいてもルターにおいても、道徳的判断のエネルギー、人間がかれの良心によって神とつながっているという確かな意識、神の前で義とされてこの世で神の道具としてはたらいてよいという喜ばしい確信が、かつてないほど深くいいあらあされたことは、疑問の余地がない。教会の偉大な伝統と一致したこの信仰内容こそ、宗教改革者に、教皇庁の機構と規律を脱して教会を組織するように活動する雄々しい力を与えたのである。
ではその理論的革新性の正体とはどこにあるのか。ディルタイ曰く「ルター(...)において近代の観念論がはじまる」。
ギリシア的キリスト教は、直観的な思惟の具象性の域にとどまっていた。その叡知的な超越的な宇宙は、直観的に与えられた宇宙の原型だった。その超越性は、どこにおいても直観的思惟をふみ越えてはいない。それは、三位一体、永遠の産出および神的な力の世界の、超感覚的な光景のなかに存した。ローマ的キリスト教は統治的だった。ローマ精神は宗教的過程を、新しい宗教的帝国に結びついたものとしてしか考えることができなかった。より高い生命は、神から、この神の国によって規制された秩序と規律をとおってのみ、キリスト教徒へ流れ下った。
ツヴィングリ