エラスムス
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悲惨にみちた人間一般とそれを救う痴愚
痴愚の女神はいう。 私が生まれたのは、福楽の島々で、勤労とか老衰、病気はなく、バッカスの娘の「陶酔」とパンの娘の「無知」の乳房から乳をのんだ。自惚れ、追従、忘却、怠惰、逸楽、軽躁無思慮、放蕩に加えて美食と深き眠りは私に仕えている連中で、私の世界支配の忠実な助け手だ、と。 彼女はまず、生命自体がいかに彼女によって生み出されたかを語る。結婚は無思慮の産物だ。快楽がなかったら人生はどうなるか。これは痴愚神の味つけなのだ。幼児が魅力あるのは、これまた痴愚の女神のおかげだ。老年期の人間も、私の助けなしには悲惨だ。私が老人を幼年期に連れ戻す。それに人間が知恵と縁を切って私といっしょに暮す気になれば、常に青春の快楽を味わえる。ただ痴愚のみが青春を保ち、忌まわしい老衰を退却せしめる。 天上の神々も同じこと。バッカスの神がいつまでも美しい頭髪の美青年であり、キューピッドがいつまでも子供であるのは私のおかげなのだ。人間の世界へ戻って考えてみる。私の手助けなしには、何の喜びにも幸福にも出会わない。ジュピターは人間に、理知よりはるかに多くの情欲を与えた。さらに、男に女というつれ合いを与えた。女が男に与えることのできる快楽も私のおかげだ。楽しい食事にも痴愚の味わいが必要だ。友情はどうか。友人の欠点となれ合い、思い違いをし、見ないでいたり、その一番どぎついところを長所と思うのは痴愚ではないか。これは結婚にもっともよくあてはまる。男女が家庭をいとなむ場合、媚びへつらい、冗談、弱さ、幻想、虚偽といった私の家来の働きがなければ、離婚やそれ以上の不幸がどれくらい起こっているかわからない。自分を憎んでいる人間はいったい他人を愛せるだろうか。
もしこの私を世のなかから追い払ったら、自分の同胞を一瞬でも我慢できる人は一人もいなくなりましょうし、銘々がお互いに嫌い合い憎み合いますよ
それが、つきあっていられるというのも、自惚れという人生の塩のおかげだ。 戦争では物を考えない、猪突猛進の太って脂ぎった人間が入用だ。勉強で疲れた賢人先生などは役に立たない。だいたい哲学者という手合いは、人生で何もできない。その証拠は絶世の賢人ソクラテスだ。公衆に話をしようとして、笑い倒されて黙ってしまった。プラトンも師匠を死刑から救うため弁護しようとして、群集の騒ぎに驚き、用意した言葉の半分もいえなかった。哲人皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝は不人気だった。プラトン、アリストテレス、ソクラテスの教えで治められた国家が一つでもあろうか。賢人達は、当選するため民衆に追従をいったり、銅像を建てられてちやほやされたり、人間へ神に対するような栄誉を与えたりなどということは狂気の沙汰だというが、こういう狂気の沙汰からこそ都市は生まれたのだし、国権も法制も宗教も議会も裁判も保たれる。 賢人は古代の書物のなかに逃げこんで、そこから学ぶのは血の気の薄い屁理屈だけ。愚者は、現実や危険に接して本当の分別をえる。ためらいとか危惧は精神の明るさを乱すが、痴愚の女神はうまくこういったものを追い払う。人生は悲惨だ。欣びは悩みを秘め、繁栄は不幸を、友情は憎悪を、薬は毒をかくしている。
人生は、銘々が仮面を被って、舞台監督〔choragus〕に舞台から引っこませられるまでは自分の役割を演じているお芝居以外の何物でしょうか?
一段高いところから人生を眺め、その悲惨を目にして、自殺する人があるが、それは英知の友の会の連中だ。人間にその悲惨を忘れさせ、幸福を希望させ、時に快楽の蜜を味わわせながら、不幸を和らげてやるのが私だ。人間は人生に退屈しない。人生に執着する理由がなければないほど人生にしがみつく。 学業についても、人々が絶賛するのは、常識、痴愚にもっとも近いものだ。 あらゆる動物のうち、一番好ましい生活をしているのは、教育などなく蜜蜂のように、自然だけに導かれているものだ。
変身してピュタゴラスになった雄鶏を、私はいくら褒めても褒め足りないのです。この雄鶏は、あらゆるもの、つまり哲学者、男、女、王様、平民、魚、馬、蛙になり、海綿にすらなったと思いますが、つまり、一応あらゆるものになってみてから、こう判断したのです。人間というものは、生物のなかで一番悲惨だが、その理由は、どの生物もその本性の分限内で生活することを承諾しているのに、人間だけが、その分限を越えようと努力しているからだ、と。
結局もっとも幸福なのは、阿呆とかそういった名前で呼ばれている連中なのだ。王様もこういった連中を非常に高くかっている。道化師だけが、率直で真実なのだ。真実は元来王様たちから愛されない。しかし、阿呆は真実を王様たちに受け取らせ、公々然と王様たちを罵りながらこれを楽しませもするという驚くべきことをやってのける。賢人がいった場合に死刑になるところを、阿呆がこれを口にすると喜ばれる。狂気は最悪の不幸だと「ストア派の蛙ども」が、があがあ鳴き立てる。しかし、狂気には二種類ある。地獄の復讐の女神フウリエがその蛇を人間の心のなかに投げ込む狂気と、私から出る楽しい狂気だ。
すぐさま死んでしまわねばならない、こんなに小っぽけな生物が、何という混乱、何という悲劇を起すものか、とうていお信じにはなれますまい。何しろ、屢〻あることですが、一寸した戦争が起ったり、疫病に襲われたりしますと、一時に、数千人もの人間が消えてなくなってしまうのですからね!
こうしてエラスムスは失楽園の寓意的訴え、すなわち知性が悲劇を喚び醒ますことの系譜ともとれる批判をもって痴愚の必要性を唱えるのであった。
腐敗されたキリスト教批判
犯した罪に対して、根も葉もない御赦免が授けられることになったのでほくほくし、恰も水時計ででも測るように、煉獄にいる期間はどれくらいに減ったかと測ってみて、何世紀、何年、何月、何日、何時間と、その正確な計算表を作っている御連中については、何と申したらいいのでしょうか?
いわゆる免罪符(贖宥状)をさす。その効力を信じているものは大馬鹿ということである。
毎日毎日、詩篇中の七つの小節を誦えれば、必ず選ばれた人間としての福楽は味えると思っている人々よりも更に瘋癲な人間、いや更に幸福な人間が居りましょうかしら!
ここでは形骸化された信仰についての端的な批評がある。痴愚の女神はさらに、どの国も特別な聖人を自家用に使っているという。
歯の痛みをなおす為にも一人の聖人が入用ですし、産婦を苦痛から救い出すのにも別な聖人が必要です。失せ物を見出してくれる聖人、難破者に現れて、これを救ってくれる聖人、家畜の群を保護してくれる聖人、その他色々とあります。なぜなら、一つ一つ並らべ立てたら切りがありませんからね、ある聖人たちは、いくつもの力を兼ね具えていますが、特に主の御母聖母マリアがそうでして、普通一般の連中は、殆ど主キリスト以上の力が聖母マリアにあることにして居りますね。
ここでは、聖母マリア崇拝が最大の迷信として槍玉にあげられている。痴愚女神は、さらに、キリスト信徒の平生の生活がこの種の奇天烈なことでいっぱいだと皮肉る。生きているうちから自分の葬式のことを考え、蠟燭は何本たてることにするとか、黒外套の人は何人にするとか、まるで埋葬を華々しくしないと恥になるとでもいう具合だというのだ。 女神はついで自惚れの支配する領域について、貴族、美男子と思いこむ醜男、俳優、歌手など、また民族的自負心、いわばナショナリズムについてもとりあげる。イングランド人、スコットランド人、フランス人、イタリア人、ローマの人々、ヴェネツィアの人々、ギリシャ人、トルコ人、ユダヤ人、スペイン人、ゲルマン人、それぞれに自分の民族に満足しているというのも自惚れのおかげなのだという。これには追従という妹がいる。非常によく似ている。 追従にのるということは騙されることに他ならない。ところで騙されることは面白くないといわれるが、騙されない方が不幸だ。人間の精神は真実よりも噓によってはるかに容易にとらえられてしまうようにできている。 痴愚女神はカトリックの儀礼などについても批評する。
多くの人々は、聖母マリアに、真昼間、お役にも立たぬような小さな蠟燭を献じます。しかし、聖母の美徳、貞潔、謙遜、聖なるものに対する愛情を真似ようと努める人々は少いものですね
このあたりになると、痴愚神よりむしろエラスムスの本音がでてしまっている。形骸化した崇拝に対する、これはもう直接的な批判だ、これに続く部分も同じだ。痴愚神はいう。
私は、私を崇拝する場合に全く不必要な彫像やら画像などを作れなどと要求するほど阿呆ではありませんよ。馬鹿者や無教養な信者連中が、神々の代りに、その絵姿を崇めるものです。
もしキリストの代理者たる法王様方が、キリストの聖貧、その忍苦、その賢明、その御苦難、その現世蔑視を模倣しようと努力された上に、「父」を意味している法王という名称なり、自分らに与えられている「至聖なる」という称号なりのことをお考えになったら、人間中で一番不幸な人間におなりになりはしないでしょうか? この高位を買い求める為に、あらゆる手段を用いた人間ならば、その次には、剣と毒薬と暴力とを使って、これを護らねばならなくなりはしますまいかしら?
この批判、さらにそれに続く次のような批判になると、もはや道化的な言葉などではない。きわめて痛烈な言葉といわざるをえない。
これらキリストに生きる至聖の師父たち、これらキリストの代理者たちは、悪魔の教唆によって聖ペテロの遺産を減したり削り取ろうとしたりする人々に対してくらい厳しい罰を下すことはありません。聖ペテロは福音書のなかで、「我らは一切を棄てて汝に従いたり」と言っているにも拘らず、法王様方は、この聖人の為と称して、領地や町や貢物や税などという財産を、正に一王国を作りあげているのです。これら一切を維持する為に、キリストに対する愛に熱狂した高僧連中は、剣と火とを以て抗争し、キリスト教徒の血を流させているのです。
キリスト的痴愚礼讃
『痴愚神礼賛』の終局部は、「痴愚」というものの、真の礼賛という、大きな逆転によって終わる。見事な展開というべきものか、と思う。実は狂気に二種類あったように、痴愚にも悪しき痴愚と聖なる痴愚と二つの種類があった。真の痴愚とは、信仰心のなかにひそむものであり、真の謙譲につながるものだ。エラスムスは、聖書に関する彼の蘊蓄をかたむけて、いかに信仰というものと、そのような痴愚とが深くかかわるかを説く。
キリスト御自身も、この痴愚狂気を援助する為に、自らは神の智慧の具現であったにも拘らず、人間の身となられて「人の形で現れ給うた」日に、或は罪業を贖う為に罪ある者となられた時に、痴愚狂気の片棒を担ぐことを諾われたことになりますね。キリストは、十字架の愚により、無智で粗野な使徒の助けを得て専ら罪業を贖おうとされたのです。キリストは、使徒たちが賢さから遠ざかるようにされて、一同に熱心に痴愚を勧められました。
ここでエラスムスのいう痴愚狂気は、いわゆる狂信と異なるものであることはいうまでもない。すでに記したように痴愚の女神は狂気に二種あって、呪われた狂気と楽しい狂気とを区別していたが、ここでいう痴愚狂気は、そうしたものとも異なる、聖なる狂気とでもいうべきもの、真に敬虔な人間における狂気だ。
プラトンも、恋する者の狂乱は、あらゆる狂乱中で最も幸福なものであると記した場合、同じようなことを夢想していたのだということをお考えになって下さい。事実、恋に熱狂した人間は、もはや自分のうちに生きては居りませず、自分の愛しているもののうちに心身を挙げて生きています。この相手のなかへ溶けこむ為に自分から出れば出るほど、当人は幸福を感じます。
痴愚礼賛はもはや反語ではなく、正面からの礼賛になっている。ここにおいて、仮面劇は終わりをつげ、真実の魂の劇が始まったのだ。痴愚神もここらあたりで舵を笑いのほうにもどす必要を感じたらしい。「しかし、ずいぶん前から、私は我を忘れて居りましたし、『埒を越えて』しまいましたね」といって、自分が性急だったり、しゃべりすぎたとしたら、自分が女であるから、と思ってくれ、しかし、ギリシャの格言で「狂人は屢〻真実を語る」というのがあると弁明してから別れをつげる。
では、さようなら! 痴愚女神の奥儀を究められた偉名赫々たる皆様方、どうか御喝采を。末長く御繁昌を。さて、お祝い酒でも聞こし召しませ
結末のこの言葉はvivite, bibite(よき生を、よき酒を)の語呂合わせという。痴愚神はいかにも道化者らしく道化の言葉でこれを締めくくった。
主題
エピクロスの教理を愛するキリスト教徒ヘドニウスは、スプダエウスに世論との相違を訴える。そして「キリスト教徒以上にエピクロス派である人たちはいないのです」と結論づけようと試みる。それが本対話篇の主題に他ならない。スプダエウスは次のようにエピクロスへの欺瞞を露わにする。
万人の意見によると、すべての教説のなかでこれ以上に弾劾されているものはないのです。(...)すべての人はこれは畜生のいう言葉であって、人間のものではない、と叫んでいます。
対しヘドニウスは確固とした態度で次のように応答する。
わたしにはエピクロス派の人々の教説以外に気にいるものはありません。(...)人々は名称に関して思い違いをしているのです。ですからもしわたしたちが真実について語るなら、敬虔な生活を送っているキリスト教徒以上にエピクロス派である人たちはいないのです。
節度をもった健全な精神の快楽
そこで説明されるは「快楽は真なるものから生まれていないなら、それは真の快楽ではない」ことであるわけだが、第一にスプダエウスは快楽を二分する。それは動物的=生物的快楽と人間的=精神的快楽である。
「道楽で飼い、贅沢なものを食べさせてもらい、柔らかな寝床にねて、いつも気ままに遊んでいる子犬」に憧れるかとヘドニウスは問う。スプダエウスはこれを否定するが、それはつまり動物的快楽の否定であり、すなわち「すぐれた快楽が精神から泉のように流れてくるのを認め」たとする。これはすなわち身体的快楽に対する精神的快楽の上位化の命題に他ならない。
そこでヘドニウスはスプダエウスに向けて「酔っ払いや愚かな人や狂人たちが笑ったり踊ったりしている」ような存在を挙げ、「彼らが快適に生活しているか」と問う。それに対しスプダエウスは「そんな快適さは敵どもに与えられたらよいのに」と返す。ヘドニウスがそれはなぜかと再び問うとスプダエウスは「健全な精神」がそこにないからだとするのだ。賢人とは「快楽の妄想や影にあざむかれて、精神の真の快楽をなおざりに」するはずがない。ゆえにヘドニウスは次のように結論づける。
真の敬虔にしっかりとどまっている人たちは多くの快楽が欠けていることは確かです。(...)彼らは金持ちにならないし、名誉を得ておりませんし、宴会も舞踏も唱歌もないし、香水のにおいも放たないし、笑いもないし、遊びもしません。(...)したがって敬虔に生きている人、すなわち真の善を享受している人だけが、真に快適に生きているのです。
そうして「正く生きている人にまさって快適に生きている人はいない」と結論づける。すなわちヘドニウス曰く
よって「快楽も真なるものから生まれていないなら、それは真の快楽ではありません」として、動物的な「肉体の快楽」は真なる快楽でないと退けるのである。まさにこれこそエピクロスの教理そのものである。エピクロスは精神的な快楽を称揚し、同時に求めすぎるとそれが破綻してしまうことを訴えた。
スプダエウスはヘドニウスの導きのもと「酔っ払いや愚かな人や狂人たちが笑ったり踊ったりしている」ような、彼らよりも「無味乾燥であっても冷静に書物に没頭することを選びたい」とする。