ペトラルカ
ペトラルカが敬愛する三賢者。
イントロダクション
本書はまず以下のような冒頭に始まる
いったい自分は、どのようにこの人生にはいりこんできたのか、どのように出ていくのであろうかと、最近、いつものことながら茫然と物思いに沈んでいたときのことである。心を病める人たちによくあるように悴して眠りこんでしまったわけではなく、不安のうちにはっきりとめざめているのに、どこからともなくひとりの婦人が訪れてきたようにおもわれた。彼女は年齢もさだかでなく、人間には理解しがたいほどの美しさにかがやいていたが、衣装や容貌から処女と知られた。わたしはただならぬ光に直面しておどろきうろたえた。彼女のひとみは太陽のように光をそそぎかけ、そのまぶしさに目もあげられずにいると、彼女は励ますように語りかけてきたのである。「おそれずともよいのです。はじめて目にする美しさにうろたえることはありません。わたしはあなたの過ちにあわれみをおぼえ、手遅れにならないうちに救いの手をさしのべようと、はるばるここに降り立ったのです。」
著者フランチェスコの前にあらわれたこの婦人は、天上から来た「真理そのもの」とされるが、出現の目的はフランチェスコの魂の救いである。しかし、この目的のために彼女自身が、かれとじかに対話するわけではない。彼女は「ひとりの高齢の人物」「教父アウグスティヌス」を従えていて、この人物にフランチェスコと対話させるのである。彼女はフランチェスコを前にしてアウグスティヌスに語りかける。 「だれよりも親愛なわがアウグスティヌスよ。あなたに傾倒しているこの人を識っているはずです。そしてまた、この人がどれほど危険な慢性の病気にさいなまれているかも見通しでしょう。しかもこの病気は、病人自身が自分の病気をおよそ認識していないだけに、いっそう致命的です!ですからいま、この激死の人の生をたすけてやらねばなりません。この慈愛の仕事をりっぱにやりとげられる人は、あなたをおいてほかにいません。...こういうわけですから、みずからも体験した人間的苦悩の最良の医師よ、どうかこの人に救助の手をさしのべてやってください。...そして、できることなら、こんなにひどい悴をやわらげてやってください」。これに答えてアウグスティヌスは、「あなたはわたしの導き手であり助言者です。主人であり師です。そのあなたが現にここにおいでになるのに、どうしてまたこのわたしに、語れとお命じなさるのでしょうか」。すると彼女は、「死すべき人間の耳には、人間の声がふさわしいでしょう。人間の声のほうが、この人にはもっと耐えやすいでしょう。とはいえわたしは、ずっとそばにおりましょう。そうすればこの人は、あなたから聞くことすべてを、このわたし自身のことばとして受けとめぬわけにはまいりますまい」。 こうして「真理の女神」が沈黙のうちに見守るなかで、アウグスティヌスとフランチェスコの長い対話が三日にわたってかわされることになる。その対話内容を書きとどめたのが『わが秘密』全三巻ということになる。以上からもわかるように、この書の導入部はあきらかにボエティウスの『哲学の慰め』に示唆をえている。『哲学の慰め』においても、ひとり物思いにふけっていたボエティウスのそばに「とても威厳のある容貌をした婦人」があらわれる。彼女は「哲学」の擬人化であり、著者と長い対話をかわすことになる。彼女が著者を訪れたのも、かれを心の「病人」とみて、その病気をいやすためにほかならない。『わが秘密』において、「真理」が擬人化され、神々しい処女として著者のもとに立ちあらわれる点も、病める著者へのあわれみから救いのために著者を対話へといざなう点も、あきらかに「哲学の慰め』に示唆をえている。ちなみに『哲学の慰め』はペトラルカの愛読書のひとつ、しかも若いころからの愛読書であった。
しかし「わが秘密』には、『哲学の慰め』とは決定的に異なる点もある。「哲学の慰め」においては、擬人化された「哲学」がじかに著者と対話するが、「わが秘密』では「真理の女神」は直接の対話者とはならず、いわば自分の代理として「人間」アウグスティヌスに著者と対話させるのである。たしかに対話者アウグスティヌスは著者フランチェスコにとって、すでにこの世に亡く、いまは天上に存在する祝福された霊魂である。にもかかわらずアウグスティヌスは、フランチェスコの前に一個の人間として立ちあらわれ、人間としてフランチェスコにかかわり、語りかけてくる。ここではアウグスティヌスは、フランチェスコとおなじく「人間」とみなされている。彼は聖人としてでなく、人間としてフランチェスコとの対話を命じられたのだ。フランチェスコの「対話」は、擬人化された「真理」との対話ではなく、「真理」の前でなされる人間アウグスティヌスとの対話であり、人間どうしの対話である。そして「人間的苦悩の最良の医師」である人間が人間に対して治療を施すのである。しかしそれはなぜアウグスティヌスでなければならなかったのか。本書には次のような言及がある。 「きみが今このような混迷におちいっているのをみても、べつにおどろきはしない。じつは、わたし自身もかつて、新しい生の道をもとめて思案に暮れていたとき、こうした混迷の淵に投げこまれたことがある。わたしは髪の毛をかきむしり、ひたいをたたき、ゆびをねじり、はては両手を組みあわせて膝をかかえこみ、つらいつらい溜息で空と大気をみたし、あふれでる悲嘆の涙であたりの大地をくまなく濡らした。にもかかわらず、わたしはやはり、もとのままのわたしであった。だが、ついに深い省察によって、わたしのみじめさのすべてがあきらかに見えてきた。こうして、心底から欲すると、わたしはすぐに成功した。そしてさいわいにも驚くほどすみやかに、べつのアウグスティヌスに生まれ変わっていった。そのいきさつは、きみもたしか、わたしの『告白』によって知っているはずだが」(...)「あなたとわたしとのあいだにはたいへんな隔たりがあって、安全な港に到達した者と難船者、幸福な人と不幸な人とほどの違いがみられますが、にもかかわらずわたしは自分の嵐のうちに、あなたがかつて波間に翻弄されたその軌跡のようなものを認めるのです。ですから、あなたの『告白』を読むたびに、希望と危惧という二つの相反する感情にゆさぶられ、ひとごとではなく自分自身の遍歴の物語を読んでいる思いがして、ときどき嬉し涙をながすのです」 すなわち、医師として選定されたアウグスティヌス。その理由はなによりも著者ペトラルカにある。『告白』を愛読した彼は、その書のうちに生に苦悩し、病める魂を抱え、葛藤したのちに、それを乗り越え、癒し、救済されるアウグスティヌスを、そしてキケロに始まり、キリストに終わる救済の旅路をみたのであった。だからこそアウグスティヌスとは同じ人間として、病めるペトラルカが望む人生の遍歴を既に歩んでいるのであり、それゆえにアウグスティヌスただひとりしか医師に適う者はいないのである。 こうしてペトラルカはある種の反転を成した。なぜならばキケロが唱え、アウグスティヌスが継承した魂の医者は本書にて原初へと回帰する。アウグスティヌスはキケロの肉体の病と魂の病、そして「魂の治療」というモチーフを継承し、魂の医者を哲学者から神へと転化させた。すなわちそれは人間から超越的存在への上昇にある。しかし、ペトラルカは再びその立場を人間へと押しもどす。神-天使-キリスト-聖人という図式を用いて、超越的存在としての魂の医者という像を拡張することは恐らくできたはずだ。しかし彼は聖人アウグスティヌスを採用しなかった。こうして再び魂の医者は我々の手中へとかえりざく。
Invecta comtra medicum
詩神の助力をえて(...)病める魂を救うことを学び知った
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