ボエティウス
一二世紀において彼の著作に関する多くの註解の冒頭に置かれた簡単な伝記では、彼の徳についての描写がなされている。
いかなる者も打ち砕くことのできない意志の強さ、血統の高貴さと言葉の誠実さがこの著者を飾り立て、生き方の厳しさと惨めな人々に対する思いやりと知恵の充満と徳の輝きが彼を照らし出し、隣人に対する親切な配慮と父のような愛情が彼を推奨している
ボエティウスは国王テオドリックの命により、パビアの流刑地にあって迫り来る死を目前にしていた。罪状は反逆罪であった。彼への処罰の原因は、歴史的には当時の王宮内での権力闘争、政争である。彼はそれに巻き込まれ、負けたのである。このような背景の下に、ボエティウスは自らの死期を覚悟しながら、最期の著作「哲学の慰め」を記した。
神-人間-野獣
本書は死期の迫るボエティウスが、「無実の自分がどうしてこんな目に遭わなければならないのか」という基本的な、現実への批判に充ちた書である。そこでは、彼は自らの悲運を嘆き、苦悩し、自らの政敵達が不当にも自分を死に追いやったにも拘らず、栄華を極めていることに激しい憤りと理不尽さを、余すことなく吐露する。ゆえに彼は「悪の問題」へと接近する。
しかしわたしの悲しみの原因そのもの、あるいはその最大の原因は、万有の善き指導者が存在している(exsistat)にも拘らず、全くもって悪が存在し得る(esse possint)か、損なわれずに見過ごされてしまっていることなのです。つまり悪徳が支配し、栄え、徳が報酬を欠くのみならず、犯罪者の足下に踏みつけられ、悪徳の代わりに罰せられているからです。全てを知り(scientis ommia)、全てを為し(potentis omnia)、善のみを欲する(bona tantummodo volentis)神の王国にあって、そのことが起こるとは、誰が驚いても、不平を言っても充分ではないのです。
ではこうした不条理にボエティウスは如何にして答えていくのか。その解釈に迫りたい。ボエティウスは第一に「悪人が無力であり、それゆえに全き意味では存在しない」という。悪人は存在しない。これを我々はいかに理解すれば良いのか。
存在するものは全て善いものであると思われる。それゆえ、善いものから離反するものは、このようにして存在すること(esse)の久如を招く。従って、悪人はかつてあったところのものであることの如を招く(desinant esse quod fuerant)。しかるに、人間の身体の残された形姿それ自身が、彼らが依然として人間であったことを示している。それゆえ、悪徳に向う人々は、人間的自然/本性(humanam naturam)をも失う。しかし敬虔さ(probitas)のみが、人間をそれ以上の状態に持ち上げるので、人間の状態から離反した人々を、不敬さ(improbitas)は、必然的に人間以下の状態に投げ落とす。-このようにして、敬虔さを捨て、人間であること(homo esse)の存在性の矢加を招くをものは、神的状態(divinam condicionem)に移ることができないで、野獣に転落する。
そしてボエティウスはこの「神的状態」に対し、「善人に対する報酬は(...)神々となることである」とまでする。換言するならば、ボエティウスは神-人間-野獣の図式で、人間の本性を整理し、善行は我々を神へと上昇させ、悪行は我々を野獣へと下降させる二つの運動と捉えたと言い換えることができよう。そしてこれもまた霊肉二元論で更なる理解へと進むことができる。ボエティウスは野獣へと堕ちた存在に対し、「人間の身体の残された形姿」という形容を用いる。これは肉体に宿る精神、魂、理性というものの欠如。空洞となった身体を意味する言葉であると理解できる。そしてその身体の空洞状態を野獣とするのであり、魂を受肉した存在にのみを人間とする。すなわち悪行とは「魂を破壊される」行為なのであり、「人間で在らぬ」野獣への失落を意味するのだ。