プライバシー
主にised@glocom倫理研で議論の対象となる法的概念。私的領域、匿名性などとの関連が強い。 議論の出発は、倫理研第3回の共同討議(倫理研第3回: 共同討議 第2部(3):侵食される「私的領域」)において、「情報社会においては公と私の境界が曖昧になる」という性質が指摘されたところからである。そこから倫理研を貫くテーマとして、「いかに情報社会における私的領域(プライバシー)を確保するか」「公私の区別を再設定するか」という問題が、「情報社会の倫理」をめぐる大きなテーマとなった(倫理研第3回: 共同討議 第2部(4):情報社会における私的領域の確保――公共圏の確立にかわって)。 ■ そもそも:「放っておいてもらう権利」
そもそもプライバシーは、19世紀末、二人の法律家ウォーレンとブランダイスによって、「一人にしておいてもらう権利(the right to be let alone)」として論証されたものである。 英米法の定石的論証方法として、イギリスやアメリカの古くからの判例を発掘する作業から開始した。すると、当然のことながら、私生活や私信(私的な手紙)やそうした私的な領域への他者による干渉を排除することがコモン・ロー上の正義だとするような判例がいくつも見つかる。彼らは、これらの判例が、コモン・ローにおいてプライバシーと呼ばれる権利が認められてきた証拠だとした。この段階では、プライバシーは「一人にしておいてもらう権利」という純然たる私権であり、人と人との紛争を解決する法理である不法行為領域の話として理解されていた。 ここでのプライバシーは、「社会(公的領域 public)に対する個人の私的領域(private)」を限定的に保障するというものであった。 その後、このプライバシーという概念は、「転用に次ぐ転用によってとんでもない奇妙な状態に至る」という。欧米では、当初プライバシーという法的利益を認めようとされなかった。またプライバシーはその名前を与えられるまで、別個の法と権利として存在していた。米国などでは、「現在では『肖像権』として知られる、個人の肖像を無断で商業利用することを禁ずる法的利益として認められた」という具合にである。 そしてこのプライバシーは次第に「憲法で保障されている」という正当化を得る方向へ向かった。 政府による身体、住居、書類および所有物に対する不合理な捜査・押収を禁ずる修正第四条と、自分に不利な自白を強制されないとする修正第五条。こちらでは、個人の手紙の政府による押収の可否がプライバシーの議論と結びついた。 これはあくまで関連があるだけであって、プライバシーそのものを保障していたわけではない。しかし、最終的には「合衆国憲法はプライバシーを保障している」という主張がとおりはじめた。 このように、 「(1)プライバシーという概念の存在を認めたこと、(2) それが曖昧さを含んでいて法的対話の中で発展させなければならなかったこと、が組み合わさって、「プライバシー」というマジック・ワードを足がかりにいろんな法的利益が「プライバシー」に放り込まれていっ」たというのが、プライバシーの意味の転用と拡大の大まかな過程である。 ■ 情報社会におけるプラバシー:自己情報コントロール権? そして情報化が進む昨今では、プライバシーは新たな意味の転用を迫られることになる。ネットワークで大量の個人情報がやりとりされるとなると、ただ「放っておいてもらう」ことはできない。そこでデータベース上にある自分の個人情報の所在を把握したり、利用に制限を設けたり、削除を求めるという「自己情報コントロール権」として再定義されるようになる*1。 ただし、この「個人情報(の自己管理)=プライバシー」という等式には、さまざまな立場から疑念を呈する声もある。たとえば白田は、「私が『それは私のプライバシーだ!』と唱えるだけで、誰かが私について語ることを禁止してしまえる世界が実現するなら、それは私検閲の世界だ」「過剰なプライバシーの主張は、言論表現の自由によって維持される民主制度の基盤を危うくすると私は考える」という。 ではどうすればよいか。白田はこう述べている。欧州各国では、「『プライバシー / 個人情報保護』のカテゴリーに入る法は、一部の例外を除いて「データ保護法」と名づけられている。その内実は、行政機関や企業が保有するオンライン / オフラインの個人に関するデータあるいは書類の取り扱いとその責任について定めるもの」である、と。つまり、対政府に対する権利として「コントロール」を主張するのであれば、それはまだ有効な枠組みだった。 しかしインターネットのように情報管理主体が遍在する時代においては、個人情報=プライバシーという等式をすべてにあてはめることは、限界も大きい。神聖なる憲法で保障された権利を守るべし、という考えを私企業にもあてはめることは、「個人情報を取り扱うシステムのセキュリティ維持に、禁止的に高額な費用が要求されることになるだろう」からである。そこで白田は、あくまで「『データ保護』の問題は、データの取り扱いにかかるシステム・セキュリティの文脈で理解すべきだ」というのである。 つまり情報化における個人情報保護の問題は、「システム運用・セキュリティ」の問題であって、「究極的には人格の尊厳を保護法益とするプライバシーとは間接的な関係しかない」という提案を行っている(「ただし、機微な情報については、その漏洩が直ちにプライバシー侵害に直結しうることに気をつけなくてはならない」という留保のもとで)。 ■ 「デジタルデータ化されないで、放っておいてもらう権利」
また自己情報コントロール権=プライバシーという考え方について、夏井高人氏は「デジタルデータ化されないで放っておいてもらう権利」という概念を提示している。 「個人情報保護法の意義と限界」(ビジネス法務2003年9月号(中央経済社)22頁)
鈴木「プライバシーの権利」に関しては従来から「自己情報コントロール権」として捉えるべきであるという説がありますが,これはプライバシーに係る情報は本人に帰属するという考え方によるものですね。 夏井自己情報コントロール権という考え方は,その情報の権利主体がいることを前提として,ある種の財産権的な捉え方をしない限り成立しません。しかし,現実には特定の個人情報とその情報主体とが一致していないことがしばしばあるので,その意味では,その両者を一致させることを前提とする自己情報コントロール権というスキームは最初から破綻していることになると思います。少なくとも民間部門の一般法としての個人情報保護法においては採ることが難しい考え方ですね。
私は,以前から「デジタルデータ化されないで放っといてもらう権利」というものを提唱しています。本人に断りなく勝手にデジタル化されることを禁じる場合もあるという考え方なのですが,自己情報コントロール権的な考え方よりも,情報へのアクセスのブロックになり,かつ,情報の帰属主体が本人であるということに囚われずに理論構成できるという点でいいのではないかと思っています。
匿名であることの権利、言い換えればネットワークから切断する権利を提案しています。これは、具体的には、ユーザーがその見返りとして提供されるサービスやアクセス権を欲していないのであれば、個人情報の提供は求めるべきではない
ここでいう匿名性は、通常の言葉で使われる「発言する際に名前を隠すこと(表現の匿名性)」とは異なる。むしろ、「消費行動などにおいて、個人情報を提供しないこと」という意味である。これを東は「ひとがただ存在しているだけのとき、そこで名前が奪われ知られるのを防ぐために必要な匿名性」すなわち「存在の匿名性」として定義している。 しかし、プライバシーの問題はそうではない。「明らかにダメとはいえないけれども、問題があるといえる技術」については、なかなかその状況を修正することは困難だからだ。つまり存在の匿名性の領域における問題は、技術的な棲み分けでは解決しがたい。 そしてこの問題はさらに困難なものとして立ち上がる。東浩紀は、「認知限界」という問題をここに付け加える。なぜなら人間には認知限界(情報処理能力の限界)があり、情報が増えすぎると合理的な判断ができなくなる。ゆえに、人々は判断を肩代わりする「デイリー・ミー」のような情報システムに依存するようになる。そのとき、かの情報システムに個人情報(プライバシー)を売り渡して、自分の選択をデータマイニングによって代理してもらう必要が出てくるからだ。そうでもしないと、人々は「サイバーカスケード」に陥ることになる。それでは社会秩序は維持できない。それを防ぐには、情報認知限界の問題があるかぎり、存在の匿名性は擁護できないということを意味する。 ■ 辻大介の議論: “right to be let alone” としてのプライバシー――責任のインフレを回避するために なぜ放っておいてもらう権利というものが、特に近代社会で必要とされるようになったのか。私はこう考えます。それは「責任を問われる“行為(act)”の領域」と「責任を問われない“振る舞い(behavior)”の領域」を分節する必要が出てきたからではないか。そしてこの必要性それ自体、私たちが認知限界を持つ存在であるところに由来しているのではないだろうか、と。 より具体的に説明するために、北田さんの『責任と正義』という本のなかから、「責任のインフレ問題」*2という問題を借りてきたいと思います(北田[2003:p.14-31,62-4])。まず、あるひとつの動作を記述するときには、因果系列をたどることで幾通りもの記述が可能です。たとえば、私が人差し指を動かす。そのことによって(by)部屋の明かりをつける。これは一般に、「辻は部屋の明かりをつける」と記述できます。そして部屋の明かりをつけたことによって、寝ていた妻を驚かせてしまうとしましょう。そうするとこの動作は、「辻は寝ていた妻を驚かせる」という行為として記述できる。さて、この悲鳴が、複雑系でいうところのバタフライ効果のようなものによって、北米でカトリーナ台風を引き起こしたとしたらどうか。台風はニューオリンズに上陸して甚大な被害をもたらしたわけですが、その因果系列をたどっていくと、「辻はニューオリンズの人々を死に至らしめた」という記述が可能になってしまう。これは分析哲学の行為論の分野で「アコーディオン効果」といわれているものです。かといって、私がアメリカの法廷で「お前がニューオリンズの人々を殺したのではないか」と裁かれてはたまりません。仮に指を動かすことで本当に暴雨風が起きていたとしても、限定された合理性の持ち主の私にとって、これは予見可能な範囲を完全に超えています。これが責任のインフレにあたるものです。
そしてこの責任のインフレを回避するための社会的な仕組みというあたり点に、放っておいてもらえる権利としてのプライバシーの萌芽があるのではないか。つまり「辻が指を動かすことによって暴風雨を引き起こした」というのは、仮に因果関係の記述としては適切だとしても、これは責任を問われるような“行為”ではなく、「責任追及を免れる=放っておいてもらえる」“振る舞い”として記述される必要があるのです。 さらに辻は、社会システムにおける「人格」という概念(あるいは制度)の導入された根拠に着目する。
社会の複雑性が増大するにともない、動作の結果の予見も困難になっていきます。複雑な社会とは、つまり個人が複数の制度的な役割を担わねばならない社会のことです。たとえば私は大学教員としての役割を担わなくてはならないし、日本国民としての役割も担わなくてはならない。あるいは、インフォーマルな家族という制度のなかでは、夫や親という多数の役割をも担わなくてはならない。そうなりますと、役割どうしがコンフリクトを起こすことが十分考えられるわけです。親としての適切な振る舞い、たとえば人々の前で子供を叱り飛ばすことが、実は関大関西大学の教員としては不適切な振る舞いになるかもしれない。それを観ている人々に、「関西大学の先生っていうのはヒステリックだなぁ」と思わせてしまうかもしれないからです。このように、同時にいくつもの制度的役割を担うとすると、心理的、あるいは認知的負荷がかかってしまうことになります。
これをすべてうまくこなそうとするのは、限定された合理性の持ち主にとっては限界があるわけです。そこでその認知的負担を軽減するために、個人に密着した「人格」という制度が特権化したのではないか。そう稲葉振一郎さんは示唆されています(稲葉[1999:p.9])*3。そうなりますと、人格に関わる制度のなかにプライバシー権が入っているわけですから、「放っておいてもらえる権利としてのプライバシー」も同じく複雑性縮減の装置として考え直せないだろうか、と思うのです。 たとえば先の例を続けましょう。大学側が私たち教員に対して、大学にとって不利益をもたらさないかどうか、あらゆる言動や行動というのを記録して報告することを義務付けたとする。当然、教員側はこれを許容しませんしないでしょう。私を含め多くの人がプライバシーの侵害だと叫びたくなりますなるはずです。ここで、なぜこの措置が不適切なのかということはを個別の状況に応じて理屈立てて論じる必要はなくて、「プライバシーの侵害だろう」という感覚が必然的に自然に生じているくるのがポイントだと思うんですね。複雑なところを無理に処理する必要がなく、感覚によって一気に問題を縮減することこそが、プライバシーの機能ではないか。つまりプライバシー(が侵害されているという感覚)が果たしている機能とは、第一に、動作(motion)がもたらす予見不可能な結果の責任を負わされるのを回避すること。第二に、他の制度的な役割が適切に行えなくなるのを回避すること。この二点が考えられるのではないでしょうか。 ■ 参考資料
【日弁連】 自己情報コントロール権を情報主権として確立するための宣言
「個人情報保護法の意義と限界」(ビジネス法務2003年9月号(中央経済社)22頁)