環境管理型権力
その際、対比された権力概念がある。ミッシェル・フーコー「監獄の誕生」(邦訳:新潮社、1977年 asin:4105067036)における、著名な「規律訓練(ディシプリン)」である。 フーコーは「パノプティコン」と呼ばれる監獄形式を規律訓練型権力のモデルとして説明する。その監獄に閉じ込められている者たちは、実際に監視している者がいるかどうかに限らず、自分が常に監視されているということを先取り的に内在化させるようになる。 こうした自己監視・自己反省によって自らの振る舞いを律していくように訓練されることを、フーコーは近代社会の秩序原理であると論じた。
たとえば赤信号で皆が止まるのは、「赤信号では止まらないといけない(もしバレたら罰金である)」といった価値観・規範がインプットされた主体による判断に基づくものだ。レッシグの4分類に従えば、これは規範(や市場)による規制である。 一方で環境管理は、そのような規範の内面化を必要としない権力のことを指す。たとえば、単に赤信号で自動的に車が止まるように交通システム(=アーキテクチャ)を設計するのが、環境管理型権力である。これは、行為者の内面に働きかけることなく、秩序を実現する権力のあり方として定義できる。東はこれを「動物管理」とも呼んでいる。 東浩紀・大澤真幸「自由を考える――9・11以降の現代思想」(NHKブックス、2003年)asin:4140019670 こうした内面に踏み込まない権力のロジックを「動物管理」と呼ぶとき、さらに類似するフーコーの権力概念に、「生権力(せいけんりょく)」と呼ばれるものがある。
これは近代権力が人民の「死」ではなく、「生」に直接介入するようになったことを指し示す概念である。すなわち「生命に対して積極的に働きかける権力、生命を経営・管理し、増大させ、増殖させ、生命に対して厳密な管理統制と全体的な調整とを及ぼそうと企てる権力」ということだ。たとえば近代国家が「統計 Statistics」という「State(国家)の学」を用いて、人々を「人口」という数字で把握・管理できるようになったことなどを指す。たとえば出生率や死亡率、寿命といった主として人口政策や社会政策に関わるものを想起すればよい。