ポストモダンの二層構造
東浩紀のised@glocomでの中心的なコンセプト。価値中立的なインフラ/アーキテクチャ(市場)の層と、価値志向的なコミュニティ(共同体)の層に大きく分けられることを示す。 近代社会、つまり国民国家は、インフラとイデオロギーの統合をその秩序形成原理とした。経済的な資源配分については、大きな国家のもとに再配分を行うのが善とされてきた。しかしポストモダン社会においてはそのような「大きな物語」は崩壊する。そして必要最低限の共通サービス(セキュリティ)の上に、消費者たちは自由に多様なコミュニティ・サービスを選択する、という二層構造を理念型とするようになる。中央集権的権力はそこでは機能せず、法・経済・政治などを統合してきた国家システムは弱体化する(→倫理研第1回の鈴木謙介講演を参考のこと)。
この二層構造は、さまざまな議論に現れる。
たとえば本来矛盾するはずの立場であるコミュニタリアン(共同体主義者)とリバタリアン(自由至上主義者(=市場))が共存可能となる(「メタユートピア」)。この共存が可能なのか。それは情報技術が、「地理的・物理的制約を乗り越えることを可能とし、身体から価値観やコミュニケーションだけを切り離すことができるから」である。 また権力論で見てもよい。上層のコミュニティは「規律訓練」。これは人間的、内面的、価値観的な側面に作用する権力である。一方の下層のインフラ・アーキテクチャの層は「環境管理」によって秩序立てられている。これは身体的、動物的な側面に働きかける。というようにである。 『情報自由論』の主題は、情報社会あるいはポストモダン社会は人を自由にするのか、それとも人を管理する方向に向かうのかという問いですが、それに対する僕の答えは「自由にもするし、管理も強化する」ということなんですね。これは一見いいかげんな答えのようですが、その背景にあるのは、ポストモダン社会では社会が二つの領域に分けられるという考えです。そして、情報技術は、その一方の領域で自由を強化するとともに、他方の領域では管理を強化するのですね。それがポストモダンの「二層構造」というわけです。 ちなみに、2003年に京都大学助教授の大澤真幸氏と共著で出版した『自由を考える』(NHK出版、2003年 asin:4140019670)では、僕は、近代社会からポストモダン社会への移行に従って、権力は規律訓練型権力から環境管理型権力に移行するという表現をしています。しかし、いまではちょっと考えを変えています。重要なのは、前者から後者への移行ではなくて、両者のバランスが変わったことだ、というのがいまの考えです。 こういうことです。「規律訓練 discipline」型の権力とは、価値観やイデオロギーといった内面的な部分を通じ、ある特定の行動を主体的に選択する個人を作り上げていく権力です。近代国民国家における「臣民化」の過程などと言われるのは、まさにこのタイプの権力の典型です。他方、「環境管理」型の権力とは、そのような内面を必要とせず、ある特定の行動以外が不可能になってしまうように社会環境を整えることで、人間を身体的かつ無意識に――『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001年 asin:4061495755)の表現を使えば「動物的」に――コントロールする権力です。この2つのタイプは、社会秩序を維持するために、いつの時代にも並存して使われていたと思われます。 実際、規律訓練の概念を提示したフーコーも、近代社会では規律訓練と「生権力 bio-pouvoir」が対になって作動していると考えていました。生権力とは、僕がいう環境管理型権力に近いものです。では、近代社会とポストモダン社会の差異はどこにあるのか。僕はそれは、前者では規律訓練と環境管理の両者が調和してひとつの目的=大きな物語に奉仕していたのに対し、後者では両者の作動域が分けられ、規律訓練の目的と環境管理型の目的が解離してしまっていることにある、と考えています。 あらためて図を見てください。上の層は人間の主体的管理=規律訓練の作動域を、下の層は人間の身体的管理=環境管理の作動域を示しています。 時間がないので詳細な説明は差し控えますが、ポイントはこういうことです。一方で私たちの社会は、国際的なレベルでも国内的なレベルでも、単一の価値観による支配を拒絶し、多様性の共存を善とみなすようになっています。裏返せば、私たちの社会は、ひとつの大きなコミュニティから、たがいの関心が関連しない無数の小さなコミュニティの集合へと急速に変容しつつある。キャス・サンスティーンが指摘したように、インターネットはその状態をますます加速しています。これは言い換えれば、規律訓練の層=コミュニティの層では、私たちの社会は分裂を志向しているということです。また、ポストモダン社会が自由の拡大をもたらすように見えるのは、この部分では確かに管理は弱まっているからです。 ところが、他方では、私たちの社会は「接続」や「統合」を志向しているようにも見える。経済のグローバル化がそうですが、9.11以降の世界的なセキュリティ強化も注目すべき要素です。インターネットは国境を越えてコミュニケーションの網の目を張り巡らせ、世界中のヒトとモノの動きが刻一刻と巨大なデータベースのなかに記録される。細かいところに目を向けても、ハワード・ラインゴールドが注目した「スマートモブズ」の誕生や、ブログやソーシャル・ネットワーク・サービスの普及など、ひととひとを繋ぐサービスは急速に拡大している。ICタグやGPSの普及も同じ流れに支えられています。つまりは、環境管理の層=アーキテクチャの層では、私たちの社会は統合を志向しているわけです。ポストモダン社会が「監視社会」だと言われるのは、この層での動きに注目してのことです。私たちの社会は、確かに、以前よりもはるかに高密度に監視され、また同時に他人を監視するような社会になってきている。 そして、僕がこの図を示すことで言いたいのは、分裂を志向すると同時に統合を推し進め、自由を拡大すると同時に管理を強化し、ひととひとが切り離されると同時に繋がっていく、このような矛盾する特徴は、決して短期的な混乱によるものではなく、むしろポストモダン社会の本質を表しているということなんですね。それをひとことで表現したのが「二層構造」です。
あと付け加えますと、この図のもうひとつのポイントは、右上に赤く描かれ、インフラに繋がっていない「フリーライダー」あるいは「テロリスト」の存在です。これは、アーキテクチャにタダ乗りし、アーキテクチャを蝕む「脱社会的」な成員の存在と、それに対するポストモダン社会の厳しい対応を示しています。ポストモダン社会は多様な価値観の共生を善としていますが、そのかわりに、共生の基盤であるアーキテクチャを蝕むものに対しては断固たる態度で臨みます。テロのことを考えれば分かりやすいと思いますが、実際には、この集団の範囲は拡大する傾向にある。たとえばいまの日本では、僕が第1回で「ウィニート」と呼んだ若者たち――あの言葉は結局流行ってませんが(笑)――などは、このような危険集団と見なされ始めています。ポストモダン社会は、その構造上、多様性の裏側に必ず排除の動きを抱えているので、排除の対象が不必要に拡大しないように監視――またもや監視ですが――する必要がある。 そして、このような二層構造は、ポストモダン化によって社会的に要請されたものであると同時に、情報化によって技術的にもサポートされています。従来の研究では、ポストモダン社会論と情報社会論は――サイバースペース論やヴァーチャル・リアリティ論のような印象論的なものを除いて――あまり接点をもってきませんでした。しかし、この両者は実は本質的に親和性が高い。なぜかというと、白田さんの今日の講演でも強調されていたとおり、情報技術は、地理的・物理的制約を乗り越えることを可能とし、身体から価値観やコミュニケーションだけを切り離すことができるからです。言い換えれば、インフラの層からコミュニケーションの層を切り離すことができる。そこに、情報技術の社会的利用の本質があるように思います。 リアルとヴァーチャルの切り離しについての議論は、いままでは幻想的な話に行き着きがちでした。しかし、その切断がもっている社会的意味を、規律訓練と環境管理の乖離といして捉え直すことで、従来のサイバースペース論もまた違った視点で読み返すことができるのではないかと思います。いずれにせよ、私たちの世界は、主体と身体、規律訓練と環境管理、ヴァーチャルとリアルを切り離しつつ、前者の自由と後者の管理をともに強化していく方向に進んでいると言えるでしょう。 ■ 参考