メタユートピア
ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア――国家の正当性とその限界』(嶋津格 訳、木鐸社、1995年) ノージックのこの著作は、リバタリアン的な「小さな国家(政府)」を正当化するもので、「他人の生命・自由・財産を侵害してはならない」という自然法の枠内で自由に善を追求する権利を持つ(そしてその権利を防衛する権利を持つ)という自然状態にある人々が、他人の自然権を侵害することなく「最小国家」を形成するにいたる過程を示し、そしてそれ以上の規模の国家は正当化しえないことを論証するもの。
こうした最小国家が並列存在するなかで、ノージックはメタな水準での自由主義を構想した。つまりノージックの考えるメタユートピアとは、多様なユートピアが並列して存在するようなものである。下層にはいかなる価値観に関係なく流動性を担保する価値中立的なインフラがあり、その上層に多様な価値観が散らばる複数のコミュニティが乗っているよう二層構造で捉えられている。 東浩紀は、このメタユートピアという概念を軸に、一般に対立すると考えられている「コミュニタリアン(共同体主義者)」と「リバタリアン(自由至上主義者)」は、むしろ情報社会においては共存関係にあると指摘する。(isedキーワード「ポストモダンの二層構造」参照のこと。) 鈴木さんが記したサイバーリバタリア二ズムとサイバーコミュニタリズムの関係は、図式ではたがいに対抗するものになってますが、むしろ共犯関係にあると考えたほうがいいと思うんです。そもそも、リバタリア二ズムは価値には無関心であるという立場。それに対して、コミュニタリアニズムはそれぞれ自分たちがよいと思ったコミュ二ティを選べばよいという立場。この両者は――政治思想史的にはあまり指摘されていないことだと思うんですが――完全に両立可能なわけです。