アクセス・コントロール
ある情報をアクセス可能かどうかを制限するための仕組みのこと。たとえばパスワードなどをかけることもそのひとつだが、mixiの日記閲覧制限機能が有名。 現在、もっとも有名な例はmixiですね。mixiでは三段階のアクセス制限を設けていて、自分が登録している友達、その友達の友達まで、mixi全体となっています。また「足跡」という機能があって、誰が自分の日記を読んだのかが把握できるようになっています。また、はてなダイアリーにもプライベートモードという機能が存在し、特定のユーザーにのみ閲覧を制限できます。ただしフォームから直接IDを入力しなくてはいけないため、インターフェイスの面では洗練されていません。また先進的なブログサービスとしては、「DI:DO」があります。たとえば記事単位でアクセス制限を行う、ひみつ日記機能があり、DI:DOの内部だけでなく、Type Keyのアカウントを持っているユーザーを対象にできます。さらに閲覧者をグループ分けすることもできる。たとえば会社の同僚と高校時代の同級生といった具合ですね。 このアクセス・コントロールによって、従来では検索エンジンや荒らしや個人情報の悪用などを恐れるがゆえに、ネット上では晒すことのできなかったような情報を、信頼できる友人の範囲で公開・共有しあうことができる。たとえば、顔画像もSNS上では平気で晒すことができるというように。また、SNSでは個人情報をサイト内で公開するために匿名性が薄く、荒らしや誹謗中傷などの悪さをしにくい環境となっている。こうしたSNS的アーキテクチャがもたらす「匿名性の排除」「信頼の醸成」が、ネットの情報流通を円滑なものにすると考えられているのである。 また倫理研第4回で加野瀬未友は、ブログで小さな炎上やサイバーカスケードが頻発してしまうのは、ブログのコメント欄などが、誰でも閲覧可能で、簡単に検索エンジンにひっかかってしまう公的空間にすべて晒されてしまっているためであると指摘。その解決案として、アクセス・コントロールによって、ブログを公的空間から私的空間にかくまう(保護・隔離する)ことを提案した。 ブログというのは、インターネットにアクセスできれば誰にでも見られますし、検索エンジンにもひっかかるという意味で「公的領域」です。公的領域である以上、誰にも見られる前提で文章を書かなくてはいけませんし、だからこそ、近所の話題といったプライベートな話題は微妙に書きづらくなってしまう。また公的領域としてのインターネットは、閲覧を基本的に制限することはできませんし、誰にリンクされるのかもわからない。そこで、自分の予想しないところからリンクをはられて、自分の想定しない範囲に情報が広まる可能性があります。たとえば自分の身内の2,3人で、なにか裏話的なことを話しているつもりでも、いつの間にか広まってしまい、慌ててその書き込みを消す、ということもしばしばです。
その書いた人間の意図がわかれば、リンクする側も事前に配慮することが可能ですが、そのような意思表示が毎回可能なわけではありません。そこで、読める人間を制限できるアクセス・コントロールがいいのではないかと考えるわけです。すなわち、前回の結論にもなった、インターネットの私的領域を確保するということです。 倫理研第4回: 共同討議 第2部(2): アクセスコントロールによる私的領域の確保は処方箋となるか 白田さんが訝しむように、チラシの裏的なものを書いて見せたい、という特殊なコミュニケーション欲求を持っている人々が現実には数多く存在します。彼らがいったいなにを期待して書いているのかを考えてみると、よく私が見かけるのは「こんな個人のどうでもいいことに反応してくれる人がいてくれた」と喜んでいる感情なんですね。つまり、よくわからない通りすがりの人が、自分なんかに興味を持ってくれるということを求めているわけです。となると、この期待は決してアクセス・コントロールの世界では実現できないんですよ。アクセス・コントロールとは、よくわからない通りすがりの人を排除するものですから、この手の欲望を満たすことができない。 (中略)
アクセス・コントロールを求める人というのは、そもそも公/私の区別ができ、「私はプライベートの人にしか公開しません」と判断可能な人であって、しかもそれは、そういう私的領域を曝してもいい友達がいる人に限られる(笑)。しかし、それはすでに強い人なのではないか。弱い人はむしろアクセス・コントロールを求めないはずではないか。なぜなら、彼らはインターネット上で誰も友人がおらず、なんとかして注目されたいはずだから。そのためには、公/私の区別なんてどうでもいいと思っているはずだから。少なくとも、北田さんが「繋がりの社会性」と呼んだように、そのような欲望はいまのネットに満ちている。だとすれば、弱い人はアクセス・コントロールを行って私的領域に閉じこもり、強い人はネットの荒波に打って出ればいい、という構図は成立しない。 これはたいへん説得力があります。弱い人はアクセス・コントロールして閉じる、強い人たちは公的な空間で開かれる。僕たちはこの二分法を暗黙に前提としてきたけど、実はそもそも、その二分法が成立していないから問題が起きているのではないか。20世紀末の日本で、2ちゃんねる的なメンタリティ、繋がりの社会性だけが特化した新しい公共性とでも呼べるものがどうしてあれだけの力を持ったのか、というのが、僕たちの議論の軸だと思いますが、それを支えていたのが、まさに、「弱いからこそ開かれたい」という欲望だったんだと思うんです。