繋がりの社会性
一般的にコミュニケーションは、送り手の意図やメッセージが受け手に伝達・交換されるというイメージ――「小包(こづつみ)モデル・導管モデル」などと呼ばれる――で捉えられる。しかしたとえば「何気ない(意図のない)『くしゃみ』や『あくび』が、受け手にとっては大変な侮辱として受け止められる」というような事態が存在するように、ルーマンのコミュニケーション・モデルにおいては、たとえ送り手の意図が受け手に誤解されたとしても、Aの発言がBの行為(理解)へと接続される連続体それ自体を、コミュニケーションと呼ぶのである。別様に、社会学者橋元良明の言葉を借りて「コミュニケーション内容をコミュニケートして対話を進行させているのではなく、(中略)コミュニケーションする事実をコミュニケーションしている」と『意味への抗い』で表現している。
ここでふたつの社会性が抽出できる。一般的な送り手の意図に着目すれば、「社会性」とはコミュニケーションとは送り手と受け手の間にある誤解の可能性を減らすためのルールやコンセンサスということになり、これを「秩序の社会性」と呼ぶ。一方、ともかくコミュニケーションが連続することが重視されるとき、これを北田は「繋がりの社会性」と呼ぶ。そこでコミュニケーションのフックになるのは、コミュニケーションの意味内容やメッセージではなく、感情的な盛り上がりや、形式的な作法といったコンテクストである。 そして北田は90年代以降の若者コミュニケーションは前者から後者に構造変容しつつあると分析する。たとえば『広告都市・東京』における渋谷の都市分析を通じて、70年代から80年代にかけては西武資本・DCブランド的な消費の文化をこう分析する。すなわち渋谷という都市を外部なき舞台装置にしたてあげ、(自分のファッションや立居振る舞いが)「見られているかもしれない不安」という圧力――フーコーが『監獄の誕生』で近代の権力の象徴としたパノプティコンのように――を与えることで、「渋谷にふさわしくあるための」消費行動=アイデンティティ形成を促していたのである、と。
しかし90年代以降においては、渋谷は雑然としたコンビニ的でデータベース的な情報の集積地としての性格を強め、都市はもはやザッピング的に「ケータイによって切り刻まれ、送信されるために存在している」。たとえばコンサマトリー(自己充足的)な、ただ繋がりあっていることを確認するためだけのケータイメールが四六時中かけめぐるさまを見てもいい。そこで駆動されているのは、「見られていない・繋がっていないかもしれない不安」とでもいうべきものではないかと指摘するのである。
北田暁大「〈意味〉への抗い メディエーションの文化政治学」(せりか書房、2004年) 北田暁大「広告都市・東京――その誕生と死」(廣済堂出版、2002年) ■ ケータイ利用調査との関連
倫理研第1回: 共同討議 第3部(1)にて、倫理研委員の辻大介が、若者のケータイ利用に対する調査との連関を以下のように指摘している。 実際いくつかの調査では、そうした孤独恐怖の高さ、あるいは孤独耐性の低さと、ケータイ――とくにメール――の利用頻度との間には高い相関がみられるという分析結果が見受けられるのです
以下を参照のこと。
リクルートワークス研究所 - 「通話派」と「メール派」の違いとは 辻大介・関西大学社会学部助教授 辻大介「若者の友人・親子関係とコミュニケーションに関する調査研究 概要報告書」(2003年) 設計研第3回で東浩紀は、「mixi」や「電車男」、「アフィリエイト」などの事例を出しながら、こうした現代消費/情報社会における特徴を「繋がりの社会性」的な欲望、という視点から説明し、こうした欲望はなぜ生み出されたのか、その初期設定が不透明であることを批判している。 ised@glocom - ised議事録 - 9. 設計研第3回: 共同討議 第2部(2) 「「繋がりの社会性」の全面化――消費社会の末期的段階としての情報社会」 たとえば、最近『電車男』がヒットしました。しかし、これがいい小説だと思っている人は誰もいない(笑)。これは構造的にそうなっている。つまり、いまでは、「ヒットしているものがいい」という信頼の構図が崩れてしまっている。いままでは、いいものが売れ、人が欲望するものが売れてきた。しかし、いまや、売れているものが売れるし、それをだれもが知っているという末期的な状況になってしまった。
この原因は、消費社会の論理が「繋がりの社会性」へと変化してしまったことにあります。鈴木さんが好む「ネタ」という言葉がそうですが、もはや内容はどうでもいい。誰かがそれについて言及しているから、自分も言及する。言及する、言及する、と繋がっていくプロセスだけがある。 そして今度は資本がそこについていく。たとえば、2ちゃんねるは繋がりのゲームでもいい。しかし、いまや繋がりの社会性はお金に変換され始めている。Google AdSenseやAmazonのアフィリエイトがそうです。基本的にみんなネットワークで繋がっているだけですが、一度ネタというシードがそこに投入されると、売れる商品に対して集中的にリンクが張られる。そのほうが仲介料も入る。そしてその商品はますますリンクされ、アフィリエイトのユーザーもGoogleもAmazonも儲かる。こういう状態は消費社会のシステムとして末期的なんじゃないか。この問題意識が、「消費者ははたして賢いのかと」いう問いとつながっているわけです。 ised@glocom - ised議事録 - 10. 設計研第3回: 共同討議 第2部(3) 僕が言いたいのは、欲望のシステムの話です。こうした末期的な事態を「再帰的な構造」といえば聞こえはいいんですが、それだけではないだろうと。
繰り返しになりますが、「いいものだから人は欲望する」という次の段階に、「他人が欲望しているから自分も欲望する」という段階がある。ここまではいい。しかし、人間はそんなにメタ構造には耐えられない。「他人を欲望する、他人を欲望する他人を欲望する、その他人を欲望する他人を……」という無限のメタ化が始まれば、そこにはもうシニカルさは存在せず、隣がなにか書いているから、とりあえず自分もリンク張っておくか、という動物的な反応にならざるをえない。