2ちゃんねる
1999年より、日本のネット社会を代表してきた巨大な匿名掲示板。ised@glocom倫理研の重要なテーマのひとつ。 以下、2ちゃんねるについて関連する議事録およびキーワードをリストする。 東:
ここまでの話を総合すると、日本のネットには「2ちゃんねるの時代」なるものがたしかにあったが、実はそれはかなり特殊な時期だったと。ところが、その時期にたまたまインターネットが急速に普及したもので、ネットといえば2ちゃんねるというイメージができてしまった。しかしその時期はすでに終わりつつあって、他方、2ちゃんねる的なものに対するリテラシーもかなり確保されはじめている。 歌田明弘「仮想報道」Vol.366「2ちゃんねるの時代は終わった」 高木さんが指摘されたのは、つぎのようなことです。
たとえば、Winnyとそれ以前によく使用されていたWinMXを比較してみます。P2Pネットワーク上に、コンテンツを持っていないがダウンロードだけはしたいというフリーライダー的存在の「くれくれ厨」と、大量のコンテンツと高速の回線を持っている「ネ申」の2タイプの人間がいるとしましょう。WinMXは基本的に一対一でユーザー同士がコンテンツを交換する仕組みなので、自分がリスクを犯すか、見返りを用意しない限り、いいものは手に入らない。しかしWinnyの場合は、その交渉の必要がない。夜寝る前にWinnyを立ち上げ、キーワードを入れて睡眠する。朝起きると、自動で落とされたものが溜まっているといった具合で、とにかくフリーライダーが生活しやすい、使いやすい装置として設計されている。そしてこの設計は、ほとんどがROMで匿名的存在という「2ちゃんねる的な精神」を、みごとに反映させたものであって、2ちゃんねるからWinnyの設計思想が出てきたのは必然である、という話をされていました。 ところで、ここで問題は――と高木さんはおっしゃったのですが――、Winnyの仕様においては、著作権侵害の違法コピーがハードディスク上に蓄積されているにも関わらず、本人としては単に起動してスイッチを入れているだけで、検索しなければそれが蓄積されているかどうかもわからないことです。つまり、実際には違法行為を犯していても、意識の上では違法行為を犯していないかのように思い込むことができる。つまり、自分が悪いことをやっていない気にさせる。逆に、だからこそ、ユーザーはどんどん増えていく。この「現実と意識の乖離」こそがWinnyの設計思想の肝だと高木さんは指摘されていて、これは非常に的確な分析だと思いました。このWinny論は、同時にいまの日本のネット社会についての一般的な議論になっていると思います。 というのも、いまの僕たちの社会は、とにかくみながフリーライダーになりたい、つまり脱社会的存在でありたいが、しかし社会全体はまわってもらいたい、という都合のいい欲望を抱えているわけです。そのご都合主義が露骨に表面化したのが2ちゃんねるなわけですが、Winnyは、まさにそういう精神でまわる箱庭をつくってしまったわけですね。だとすれば、おそらく、いま多くの人々がひそかに期待しているのは、リアル・ワールドまでもがWinny化していくことだと思うんです。 倫理研第3回: 共同討議 第1部(1):アイロニーとリベラリズム――80年代テレビ論という補助線 (北田さんは)最近では『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス、2005年 asin:4140910240)という話題の本を上梓されていますが、これは、2ちゃんねる論として書かれた小さな論文を拡張して、60年代の連合赤軍から80年代のメディア文化論をつなげて、現在の2ちゃんねるにいたる流れを記述されているところに特徴があります。そのなかで北田さんは、とくに80年代のアイロニカルなテレビ的感性に着目されているのですが、そこで発達した「お約束」的なネタを「笑いつつ笑わない」といった二重感覚が、90年代後半以降の2ちゃんねるに移植されたときにどう変化したのか、鋭い分析をされている。 倫理研第4回: 共同討議 第2部(1):日本社会と2ちゃんねる――「ネタ化」という文化的作法 加野瀬さんは「ブログにおいて受け手や書き手が成熟すれば、炎上は無くなる」とおっしゃっている。つまり自分が批判されたときにはスルーして流してしまうというような、ある種の大人の感覚を持つということですね。要するに「すべてをネタ的に扱え」、と。つまり、なにを書かれたとしてもネタなんだという感覚です。ということは、ネット上でユーザーが成熟するということは、2ちゃんねる的な嗤いの感覚を一般化し、総ネタ化してしまうこととイコールではないか。 さらにネタ化ということであれば、2ちゃんねるでブログや他のサイトを観察する行為を「ヲチ(ウォッチ)」と呼びますね。ここに表明されているのは、自分たちは誰かがやっているベタなネタ、つまりベタなコンテクストを高みから見下ろすんだという感覚です。こうしたネタ化というのが、おそらく2ちゃんねる的なコミュニケーションの感覚と呼べるものでしょう。 そこで加野瀬が指摘するのは、逆説的な指摘をする。一般には、匿名の2ちゃんねるよりも顕名のブログのほうが荒らしなどは起きないと思われているが、むしろ逆であって、ブログのアーキテクチャこそが、たとえば善意がスパイラル的に増幅することで、私人同士の小さなサイバーカスケードや炎上が頻発するようになるのではないか、という。 その原因は、2ちゃんねるではまとめサイトなどの存在が階層構造をつくることで(isedキーワード「ネット世論の階層モデル」参照)、いわば擬似的な公共性が担保されていた。ここで公共性というのはすなわち、「いまどの情報が話題なのか」といった、マスメディアが持つアジェンダ・セッティングあるいは文脈形成的な機能がひとつ。もうひとつに、2ちゃんねる独特のアイロニカルな作法(isedキーワード「ネタ的コミュニケーション」参照)によって、直接的な攻撃・炎上・サイバーカスケードへと発展することをむしろ抑制し、文脈を共有する機能である。