認知限界
認知限界とは、ハーバード・サイモンの主概念で、人間の認知能力・情報処理能力の限界のことを表す概念。 サイモンはこの概念を組織論の分野で展開した。なぜ人間は組織をつくるのか。まず人間はこの認知限界ゆえに、世界の複雑性を縮減する必要がある。そのための社会的装置が「組織」である。組織という階層構造を形成することで、意思決定の複雑さをいくつかのサブアセンブリに分解(≒モジュール化)することができる。それによって、個々人では実現できない高度な意思決定を行う、と論じた。 ■ ハーバード A. サイモン
ハーバード A. サイモン(1916-2001)は米国の経営学者、認知科学者、システム論者。ノーベル経済学賞を受賞。コンピュータサイエンスの考えを組織論に導入。個々の人間は情報処理能力の限界を持ち(認知限界)、組織とはその限定的な合理性を克服するために形成される、という説を唱えて、人工知能研究などなどにも関わる。また認知科学研究の第一人者でもあり、『システムの科学』(第3版 パーソナルメディア、1999年 asin:489362167X)では「人工物(Artifact)科学」という設計論を提唱した。 ハーバート・サイモン - Wikipedia
■ 限定合理性
限定合理性は、「認知限界」と同じくハーバード・サイモンの概念。主流派とされる新古典派経済学では、「合理的な主体」という意思決定主体を仮定する。しかしサイモンは「人間は合理的であろうと意図するけれども、その合理性には『限界』がある」という前提を導入する。人間は将来にわたる不確実性をすべて予測することはできない。情報を完全に集めることもできない。もし選択肢を数多く集めたとしても、どれが最適なのかを計算することはできない。よって、人々は合理的であろうとしても、完全に合理的な意思決定を行うことは不可能であるとした。この限定合理性を持つがゆえに、人間は組織や制度という人工物を設計し、それによって高度に合理的な意思決定を行うというのがサイモンの基本的な考えである。さらに経済学者のウィリアムソンは『市場と企業組織』(日本評論社、1980年 asin:4535572798)のなかで、「新古典派経済学では、なぜ市場だけではなく、組織が存在するのか説明できない」と問題を立てる。そこでこのサイモンの「限定合理性」の概念を受け継ぎ、組織(階層構造)によって「取引コスト」を低減させるから、という命題を導いた。→参考:國領研究室レジュメ「Williamson, O., “Market and Hierarchies”, New York: Free Press, 1975」 以下に引用する。
そもそも情報社会の問題とはなにか。こう考えればいいと思うんですね。 情報社会においては、大量の情報が蓄積し流通する。複製コストも拡散コストもゼロに近い。その結果、各個人のアクセスできる情報は莫大になる。ここまではいいですね。しかしその結果、ハーバード・サイモンのいうところの「認知限界」が訪れる。つまり、あまりに情報が莫大になると、人々はいったいどの情報を得るべきかが分からなくなってしまうわけです。 するとどうなるか。たとえば「繋がりの社会性」という情動的で短期的な現象は、認知限界の帰結だと思われます。誰が自分について言及しているのか、あるいは関心を持っているのかは、いままではごく数十人の知り合いの範囲だけを参照していればよかった。しかし、いまはモニターの向こうに何千人何万人という規模の人間が現れる。その圧倒的な数は、巨大な無関心として知覚されてしまう。それが繋がりの社会性を加速させているのではないか。 また一方、この認知限界にこそ情報社会のビジネスチャンスがある。そう経営学者の國領二郎氏は――明日のシンポジウムでディスカッションをするのですが――いいます*5。つまり、認知限界を軽減することが情報ビジネスの主力になるだろうというわけです。あなたはどのような財やサービスを求めているのか。どのウェブサイトにいくべきか。どこで情報を獲得すればいいのか。極端に増えた選択肢のなかから、最適な選択肢はなにかを提示することに、新しい情報ビジネスの方向性がある。つまり宮台真司/ルーマン風にいえば、「複雑性の縮減」を提供するサービスといってもいい。これを國領氏はプラットフォーム・ビジネスとも呼んでいます。 これは情報社会が引き起こす問題に対するソリューションのひとつといえます。情報が爆発的に増えたために、人と人の繋がり、あるいは人とモノの繋がりが不確実なものになる。この繋がりとは、別の言葉でいえば「選択」です。つまり、無数の対象のなかから「これがあなたが選択すべきものなのだ」という限定された選択肢を提供してくれるサービスこそが強くなっていく。つまりAmazonのレコメンデーションのように、「自分の代わりに判断するサービス」ということですね。情報社会においてはこのようなソリューションがなくてはならないものになる。 なぜか。情報があまりに莫大になり、各人の情報処理が限界を迎えてしまうと、消費活動もコミュニケーションも、あらゆる社会活動が止まってしまいます。それはまずい。そこでいままで人類社会は、世界の複雑性を縮減するために社会的システムをある程度単純にしてきた。しかし、いまや制度もサービスも、複雑かつ多様になってしまった。だから社会に参入する手前の段階で、さらに複雑性を縮減する必要が出てくる。つまり、どのようなサービスやコミュニティを選択するのか、その判断を支援するソリューションが必要になる。そして僕の代わりに判断をしてもらうためには、僕についての個人情報をサービスに提供しなくてはならない。これが「存在の匿名性」の脅かされる基本的構図ではないかと思うんですね。 表現の匿名性・存在の匿名性、あるいはmixiや無断リンクの話というのは、すべてばらばらの問題に見えます。しかし、こうした「情報過多による認知限界の到来」という軸を導入することで、ひとつなぎに整理できるわけです。 ここで意思決定や判断を肩代わりするレコメンデーション・サービスが「認知限界を軽減することが情報ビジネスの主力になる」といわれるという現象は、 またその未来像は、「EPIC2014」というFLASHムービーのなかでGooglezonというフィクションで描かれる。 東浩紀は『情報自由論第6回』(中央公論2002年12月号)のなかでまず、 積極的自由=自己の必然にしたがって選び取ることができる状態 というバーリンの自由論を踏まえる。そして高度消費・情報社会という現代社会においては、「消極的自由」ばかりが肥大・飽和し、積極的自由がむしろ麻痺・磨耗してしまうのではないか、と大澤真幸の議論を参照しつつ論じる。 そしてこの「積極的自由の機能不全」について、東はこう述べる。人々が「デイリー・ミー」的な情報フィルタリング技術に過剰に依存している/いくとすれば、それはこの積極的自由の麻痺状態から逃れ、選択・判断を肩代わりしてくれる存在として情報技術が欲望されているからではないか、と。