積極的自由
アイザイア・バーリンは論文「二つの自由概念」のなかで(『自由論』(みすず書房、1971年)、積極的自由/消極的自由という有名な対概念を提示している。 消極的自由とは、一般に「~からの自由」などとも呼ばれ、ある行為主体が強制を受けていない状態にあることを意味する。一方の積極的自由とは、「強制を受けていない」というだけではなく、主体が自らの従うべき格率を自ら設定しうること、自律的な自己決定能力を持つこと(~への自由、~へ向けての自由)を意味する。バーリンは1959年講演において、冷戦体制を背景に、消極的自由を擁護し、積極的自由を称揚することの危険性を訴えた。なぜなら積極的自由が、全体主義者や共産主義者による「正しき道」への国民たちへの命令を正当化すると恐れたからである。 東浩紀はこれを情報社会論に当てはめる。『情報自由論第6回』(中央公論2002年12月号)では、まず 積極的自由=自己の必然にしたがって選び取ることができる状態 という確認を行ったうえで、「現代社会においては『消極的自由』ばかりが肥大・飽和し、積極的自由がむしろ麻痺・磨耗してしまう」と大澤真幸の論考を参照しつつ論じている。 そしてこの「積極的自由の機能不全」について、東はこう述べる。人々が「デイリー・ミー」的な情報フィルタリング技術に過剰に依存している/いくとすれば、それはこの積極的自由の麻痺状態から逃れ、選択・判断を肩代わりしてくれる存在として情報技術が欲望されているからではないか、と。 また北田暁大は大屋雄裕の論文「情報化社会における自由の命運」(『思想』9月号)の議論を次のように紹介している。(北田暁大「政治の空間学2リベラリズムについて(2)」(『10+1』37号、NTT出版、2004年))。すなわち、バーリン的な自由概念(消極的自由と積極的自由)は、レッシグのいうアーキテクチャ的な規制が全面化する社会においては失効してしまう、と。アーキテクチャ的規制においては消極的自由が侵害されたという不自由感を与えることなくコントロールを行うことが可能であるし、積極的自由の論理は「自律」に価値を置くあまりに、行為者の私的格率と普遍化された命法のギャップを意識させないアーキテクチャ的管理をむしろ招いてしまうからである。