ワイリー・サイファー
『ルネサンス様式の四段階』の続編
1960『ロココからキュビズムへ』
https://scrapbox.io/files/66249dee63c53b0027281ee7.jpeg
序文-様式と様式化
まずサイファーは「1700年以後の美術を論ずるとなれば、様式スタイル概念がどうしても絡まってくるし、様式という言葉の意味について何らかの見解の一致を見る必要がある」としたうえで、その重要な参照点としてアーノルト・ハウザーの『様式とその変遷』を紹介する。
ハウザーの考えでは、様式という観念は美術史にとってあまりにも本質的であるから、それなしでは作品と作家アーティストのただの年表ないしはカタログしかつくれず、どのようにして芸術が変わり、またなぜ変わるのかという問題を立てることすらできない。(...)ハウザーのいうように、(...)様式の方向と形あるいは構造は多くの芸術家から得ているが、創造に手を貸しているその様式を当の芸術家たちが当然のように自覚しているかというと、まったくそうではないのである。(...)ハウザーは様式は存在するが、芸術家の制作する絵画が存在するという意味で存在することは決してない、という。(...)ルネサンス様式は「ルネサンスの巨匠たちの作品に表現されているもの以上であると同時に以下でもある。」様式は「音楽でいうと変奏曲だけが知られている主題のようなもの」であると、ハウザーは巧妙ないい方をしている。様式は、いかなる作家の作品も現実にそれを達成していない場合でも、存在する-少なくとも姿を見せる。したがって、自分が様式を創造しているという意識が芸術家の側にほぼないにもかかわらず、様式は現れる。
こうして無自覚的かつ不断に立ち顕れるゆえ、様式は「作品に表現されているもの以上であると同時に以下でもある」といったような「二重の性格を待つことになる」のだ。そしてだからこそ「美術史は、歴史がそうであるように、解釈から生じる。そして、解釈は最終的なもの-閉じた説明-であることは不可能だし、またそうあってはならない」として「様式は無条件に定義づけるよりも記述すべきものであるといいたい」と論ずるのだ。そうして不断に再記述され続けるのが様式を基礎づけている。そしてこうした様式がいかにして成されるのか、について次のように述べる。
様式というのは、自分たちの時代に特有の人間世界の経験的特質を直感することに最も成功した芸術家たちによってなされた、一般普遍的で支配的で真に同時代的な世界観の表現である(...)様式は様式の形成にかかわる技法以上のものである。なぜなら、様式は一つの時代の全意識を適切な、おそらくは、古典的な形で表現するものだからである。遠近法の単なる操作を超える表現だ。どの様式も、それを形成するさまざまな技法のすべてが溶け合って、統一性のある、何らかの形で調和した表現方向になったときに初めて成熟する。とはいっても、様式は過去の様式と無関係だというわけではない。むしろ逆で、主要な様式はどれもみな過去の様式に負っている。ルネサンスはローマ帝国時代の美術に、マニエリスムはルネサンスに、バロックはこれもまたルネサンスに、そしてキュビズムは、おそらく、既知のほとんどすべての様式に。
上記にあるように、様式は「その時代の意識のありようを沈黙のうちに求める純正なイメージ」なのである。こうした様式概念を前提に持つゆえ序盤の冒頭で次のようなエピグラムを用いるのだ。
「いつの時代にもその時代に共通の思考形式がある。この形式は、われわれが呼吸する空気のように、きわめて透明で、またきわめて支配的であり、かつ一見きわめて必然的なものに見えるので、われわれは努力の限りを尽くさないとそれに気付かない」。(アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド『思考の冒険』)「諸々のシステムは特定の時代の一般的な心的動態メンタルアティテュードに完全に負っている。いや、それを直接の源泉としている。(...)さらに、一つのシステムの変化はわずかな要素にかかわってくるだけでなく、全体に影響を与える。(...)形態は繰り返すが、システムは繰り返さない」。(エミール・カウフマン『理性の時代の建築』)「技法だけで新しい様式の出現を説明しても功を奏さない。なぜなら、芸術における新しい様式は世界に対する人間の新しい姿勢の出現を意味するからだ」。(ピエール・フランカステル『絵画と社会』)
続けてこの様式概念に「様式化」という概念を区別して対置する。
ロココ
アレクザンダー・ポープ論-脱神話化されたベンサム的虚構詩
本書の序文、「様式」論で述べたように「様式」は技法それ以上のものであり、「一般普遍的で支配的で真に同時代的な世界観の表現」な訳であるが、その意味で「ロココとは、まさしくその時代の意識の一面なのだ」としたうえで、「この意識を最もよく代表するのは、(...)ロココの唯一重要な詩人、アレグザンダー・ポープ」であるとする。第一に、サイファーによるとポープは科学による神話的詩人の終焉の時代に生まれたという。
われわれは長い間、詩人は何らかの神話を自由に利用できなければ、とても詩を書くことなどできないものだと考えてきた。また、科学がわれわれから神話、したがって生に対する詩的ヴィジョンを奪い、詩人の仕事を不可能といってよいほど困難なものにした、としばしば聞かされてきた。われわれは、科学が「人間から精神上の遺産を奪い」、人間がそれによって生きる「あの基本的寓話や象徴のかずかず」を奪ってきたとも語る。1・A・リチャーズの『科学と詩』(1926年)に関するェッセイは、いまではやや時代遅れだが、それにもかかわらず、われわれは、われわれの「数学的宇宙」が、「魔術的考え方」―すなわち、「さまざまな出来事を支配していながら、人間の行為により、また、ある程度までは人間の行為によって支配することもできる、霊や神々の世界に対する信仰」―を廃物にしてしまったという彼の見解を、受け入れてきたように思われる。リチャーズはさらに、詩やほかの芸術は、この魔術的考え方とともに生まれ―そして、「それとともに滅びるのかもしれない」―と説いていた。相対性原理に従う神なるものを、詩はどのように扱うことができるのか、とリチャーズは問いかけていた。かくて、われわれの詩的信念は、「茎を抜きとられたダリアの花壇のごときもの」となる。確かに、エルンスト・カッシーラーは、神話的世界観がリチャーズの推測以上に根絶しがたいものであることを確信させてくれた。だが、そのカッシーラーでさえ、「科学の新しい光のとでは、神話的直観は消えざるをえない」と認めている。われわれは必死になって、フロイトの象徴や、聖杯のロマンス、ユングの原型、スティーヴン・ディーダラスの伝説的冒険、あるいは「ケルトの薄明」の中に、神話を見出そうとしてきた。
則、啓蒙主義の勃興によって神話的詩人たちが危機に瀕していたのである。こうしたリチャーズの懸念に反してサイファーは次のように応答する。「単純な真実をいえば、彼らは詩を殺したりはしなかった。明らかに、彼はある種の詩を殺した-だが、詩そのものを殺したのではなかった」。科学は明らかに、神話的詩を殺した。だが同時に、脱神話化された新たな詩の「様式」が誕生したのだ!その代表的詩人がポープなのである。そこでサイファーはデカルトに始まり、ニュートン、ロック、カント、ライプニッツ、アダム・スミスまでを横断的に論じたうえで、上記啓蒙主義知識人に「共通する形式」として、ベンサム的「虚構」に着目する。サイファーによるとポープは「啓蒙主義のさまざまな虚構による詩人である」とするのだ。
啓蒙主義の種々の思考形式に「共通する形式」にあてはまる名前を捜そうとすれば、それは、啓蒙主義の最後の思想家のひとりであり、しかも、啓蒙主義における合理主義を最も手厳しく批判したひとりである、ジェレミー・ベンサムの言葉の中に見つかる。ベンサムは、それ虚構と呼んでいた。ベンサムの用語法によるなら、虚構とは「知覚可能な実体」ではなく、「それを語る際に用いられる論述の文法形式によって」つくり出された、精神と言語の発明品である。権利、義務、権力、特権、占有、所有権といったわれわれの観念も虚構である。それらの観念は、現実に「存在するとは考えられていない」からだ。それらは確言にすぎない。「とするならば、虚構の実体はその存在を―その、ありえないけれど不可欠の存在を―言語に、ただ言語のみに、負うていることになる」。われわれは、自然界の事物にそなわっていると考えるような現実性を、虚構にももたせようとは思わない。にもかかわらず、それらの虚構は、精神活動にとっては必要である。「したがって、われわれの精神の中に場所を占め、われわれの精神のなかに浮かぶことがらについては、われわれは虚構による以外、語ることも、ましてや思考することすらできないのである」。面というものや線というものも虚構なのだ、とベンサムは指摘するが、そのような虚構がなければ、幾何学も存在しえない。それらは「論述のためにでっち上げられた」ものであり、「それなくしては言語も、あるいは、いかなる形態にせよ、ともかく動物がもつ言語よりもすぐれた形態の言語も存在しえない、仕掛け」なのである。啓蒙主義の信念のありよう、その「諸観念の構造」について、これ以上の評言はない。ベンサムは、彼の時代における道徳上、政治上の規範は虚構の形式―彼はそれを「精神の装備品」と呼ぶ―をとることを理解している。それらは、ひとたび思いつかれれば、空気のようにとらえどころのない実体ではなく、現実の実体として語られる概念である。例えば、「権利という語は虚構の実体を指す名前だが、これは、論述のために―それなくしては人間の論述も進められないほど必要不可欠な、虚構によって―その存在をでっち上げられたものの一つである」。そして、人間の精神に装備されている観念には、「かなりの程度の一致」が見られる。ベンサムの認識によれば、権利という概念は、歴史の過程に客観的には存在していないけれども、それによって人間が、歴史のなかの自己の存在に秩序を与え、歴史に正義の原理をあてはめるための手段なのである。かくして啓蒙主義は、そのさまざまな虚構は精神の仕掛けという虚構であり、独特の信念形態なのだと承知しながら、さまざまな観念がつくる世界のなかで、非常に意識的に存続することができた。啓蒙主義は、感覚による情報に虚構をあてはめることによって、その情報に合理的意味を与えたのである。(...)啓蒙主義の本質的特性は、虚構や半虚構を組み立てる能力にあった。(...)肝腎なのは、ファイヒンガーが、「観念主義的な構築物は、現実と矛盾するばかりか、それ自体の中でも自己矛盾を起こすときに、語の厳密な意味において、本物の虚構となる」と語るとき、彼は啓蒙思想に共通する形式のことを述べているのだという点である。例えば、幾何学は本物の虚構に基礎を置いている。点とか、線、平面、円、球体という概念自体、すべて、「非現実的な」情況にもとづき、自己矛盾を起こすものでもあるからだ。すなわち、点という概念は論理的には不条理であり、われわれは、点や、線や、平面という概念から堅固な世界を組み立てることなど、とてもできないのである。にもかかわらず、たとえ、点や、線や、平面や、円という概念がけっして眼には見えなくても、これらの虚構は、円周率3.1416⋯⋯のように、合理的論述にとっては不可欠のものである。幾何学者はこれらの虚構を信じなければならないし、また、それらが自己矛盾を起こすものであることは承知しながらも、ある特別な意味においては実際に信じている。ポープの『人間論』にも、ロックの『市民政府論』やスミスの『国富論』、あるいはジェファーソンの「独立宣言」と同じように、「全体の秩序」、「普遍的善」、「自然」といった本物の虚構があふれている。この、虚構にもとづいた世界観をつくってしまうと、啓蒙主義は神話なしでも、つまり、「さまざまな出来事を支配していながら、人間の行為によって呼び出したり、また、ある程度までは人間の行為によって支配することもできる、霊や神々」に対する、あの魔術的考え方なしでも、やっていけることに気付いた。(...)虚構にもとづいた世界観の登場は、詩に新しい状況が生まれ、詩と精神との間に新しい関係が生まれたことを意味する。
「ポープは啓蒙主義の最も成功した詩人として、十八世紀特有の詩の課題に直面した。つまり、思考し、かつ信ずる存在たる人間の生活に革命を起こしていたニュートン流の合理主義を、芸術にも利用できるようにすることである」。ここでいう「一八正規特有の詩の課題」が神話的詩人の終焉であり、ポープは「合理主義」芸術転用-「論述の文法形式」に基づくベンサム的虚構術-によってその困難を見事、啓蒙主義的に乗り越えたのだ。だからこそ、彼は「啓蒙主義の最も成功した詩人」なのであり、「ポープにとっても、詩の世界はすなわち理性に王国なのだ」。こうした意味で第二章の冒頭にて次のように啓蒙主義を語るのである。則、啓蒙主義の脱神話化は、理性に基づく「文法形式」による「想像力」、という新たな詩のための道具を詩人に齎したのだ。
十八世紀における理性の活動といえば、この時代の想像力の活動とほぼ同じものなのだということが認識されないまま、十八世紀は普通、理性の時代と呼ばれている。啓蒙主義の想像力は、しばしば観念としてあらわれたのだ。十九世紀以来、想像力は普通、理性と対立させられて、感情の力や、造形性に富む表現、あるいは、はっきり述べることができないものの暗示を意味してきた。それが、観念の詩が消滅した原因の一つかもしれない。
こうした意味でポープは「詩的想像力のために利用できる当時流行の科学を、それも神話の助けを借りずに、最大限、活用しようとしていた」のであり、この「彼の勇気」のおかげで、理性に基づく虚構という非神話的詩作手法を編み出したのである。具体的なイメージを掴むためにも-神話の助けを借りずに-理性に基づく「文法形式」による虚構的「想像力」によって、導出された科学や啓蒙主義哲学者の理念を用いたポープの幾つかのプロジェクトを紹介したい。まずはニュートンの影響である。
ポープは啓蒙主義の最も成功した詩人として、一八世紀特有の詩の課題に直面した。つまり、思考し、かつ信ずる存在たる人間の生活に革命を起こしていたニュートン流の合理主義を、芸術にも利用できるようにすることである。(...)啓蒙主義の特殊な意識は、ホワイトヘッドも指摘していたとおり、十七世紀の数学者たちが組み立てた思考体系に根拠を置いていた。それは非常に抽象的な思考体系であり、一方においては厳密に位置を定められた物体を提示し、また他方においては、それら簡潔に位置を定められた物体を包み込むべき、時間・空間という概念の枠組みを組み立てるのに成功した精神を提示する。ニュートンはこのような世界の秩序をうち立てた第一人者であったし、彼の体系は、数学的知性という神を中心とする、理神論と呼ばれる宗教的態度を鼓吹した。(...)ポープは同じような状況のもとで、ニュートンの(...)神を扱うのに成功した。
ロココ様式論
われわれは、この様式の厳密に歴史的な記述である、フィスク・キンボール著『ロココの創造』の定義を念頭に置くのがいちばんいいだろう。正確にいうならば、ロココはルイ15世時代のフランスのものである。
「ルイ15世」のものであることは容易に理解できるだろう。それはリベルティナージュの意味の変遷からみても明らかである。ミシェル・ドゥロンは『享楽と放蕩の時代』にて、「1715年、老王ルイ14世の死去に伴い、言葉と思想の変化が加速する。厳格さと、知的、宗教的規範を逸脱するもの全てに対する抑圧とを特徴とする政治は終わり、オルレアン公フィリップの摂政時代が始まったことが風俗習慣の急激な自由化のきっかけとなった。この摂政時代は新世紀への導入部となり、一八世紀に考え方と様式の範を示した。不信心も放蕩も隠さないオルレアン公にならって、放蕩は表立ってくる(...)摂政オルレアン公フィリップの行動、次いで宮廷に公認の愛人たちを置くようにしたルイ15世の行動は位の高い貴族たちによって模倣され、その後社会により広く浸透していく」とあるようにロココの名指す放蕩と自由はルイ15世時代のものでしかないのだ。そしてこれは建築様式ではないとサイファーは断言する。
たとえ建築に現れたとしても、これは建築様式というよりは、装飾芸術における一つの展開である。「芸術史においてはユニークといったもよいが、この運動本来の領野は装飾の分野、つまり、家庭的なものであれしゅうきょうてきなものであれ、インテリアと、飾り物、それももっぱら表面の飾り物という分野にあった」。この表面の飾り物はバロックから生まれたものではないし、東洋風の奇想にもかかわらず、直接、支那趣味に由来するものでもない。むしろそれは、ベランのような装飾家や、ヴァトーのような画家たちの考案したアラベスク模様を、ピエール・ル・ポートルやオプノールといった設計家たちが、建築に応用したものである。(...)ロココは何よりもまず、飾りつけの一様式である―基本的には、何かを例示するのではなく、装飾的なものだという点に注意しなければならない。この区別は、十九世紀後半のネオ・ロココたる装飾的アール・ヌーヴォーを考慮にいれるとき、重要である。ロココは装飾モティーフそれ自体を目的としたのである。
ネオ・ロココとしてのアール・ヌーヴォー
例示ではなく「ロココは装飾モティーフそれ自体を目的としたのである」とサイファーは論じたが、アール・ヌーヴォーも「本質的には、ロココのように、装飾美術内部の運動である。実際、ネオ・ロココの出現と考えるのが一番よいだろう」。また、オーウェン・ジョーンズの『装飾入門』を引用し次のようにいう。
ジョーンズは、装飾美術はすべて建築から生まれ出るべきものであり、「形態の美は漸進的な波動をなして次から次へ増殖していく線によって創り出される」と述べている。おそらくジョーンズの言葉はわれわれに鍵を与えてくれるだろう―アール・ヌーヴォーは「モティーフの重要性への回帰」であり、曲線的装飾、クジャクシダと呼ばれる「自然を思わせる」植物的線を基盤にした魅力的なデザインの解放である。(...)アール・ヌーヴォーは植物的でもあり幾何学的でもある高度に様式化された線への回帰によって装飾におけるいっさいのがらくたを一掃した。このようにして新しい装飾モティーフは、ロココにおけるように、やすやすと建築構造に組み込まれたのである。
そんなアール・ヌーヴォーは「短命な装飾美術」だった。だがしかし「アール・ヌーヴォーの重要性は、しかし、その短い歴史とははるかに不都合なほど大きい。理由は、モティーフを解放したというだけでなく、それよりも重大なことだが、装飾と建築との関係を有機的なものに戻したことにある」。そこでアール・ヌーヴォーを論じるべく建築と芸術の有機的な前ルネサンス的様式を紹介する。
美術が建築から解放されると―どんなにその成果が輝かしいものであっても―きまって機能的な価値を失う傾向があるという意味で、建築は基本的な芸術である。建築は人間の条件ゆえに、ただそれだけの理由で芸術の根本である。存在感が最大の芸術だ―なぜなら、建築物はわれわれを四方から取り囲み絵画も彫刻も持ちえない空間を持っているからだ。建築には「実存的な」増殖がある―なぜなら、われわれは壁に閉ざされた空間の中を現実に歩くからだ。寺院や宮殿に入ることは〈現存在〉の意味を知ることである。先史時代から壁は、洞窟であろうと寺院であろうと、あるいは宮殿であろうと墓であろうと、絵画の自然な支え手であった。フレスコ画がまさしくその技法によってある種の記念碑的性格を持っているのは、そして、ビザソティンのイコンがその規模がどんなに小さかろうと宗教美術の風格を持っているのはこのせいだろうか―独立した、壁の断片だからだろうか。(...)絵画はルネサンスのかなり終わりまで壁に留まっていた。彫刻と絵画は、建築物の補助として壁や建築構造と一体となっていたギリシア、ビザンティン、ロマネスクそして中世の各時代にその主要な様式を達成した。ステンドグラスは建築に使うのにふさわしい絵画にすぎない。油彩の発明とともに絵画の性格が変わった。フレスコその他の壁画では不可能な親密性とこまやかさが油彩で可能になった。その結果、油絵具によってイーゼル画が始まり、あらゆる種類の実験が可能になってからのルネサンス期に、芸術家の個性が意味を持つようになった。油彩のイーゼル画は修正が可能だった。取りはずすことも動かすことも別の場所へ移動することも可能だった。壁に宿命づけられた絵画の世界を超脱した。油絵とともにアトリエが誕生した―着想と創造のプライヴァシー、所有のプライヴァシーが。絵画はマーケットで取引きしたり蒐集家や美術館が集めたりする対象と化し、生活との最も強いつながりをいくらか失うことになった。建築空間から追い出されてから、絵画は性格そのものを変えた。
こうして「イーゼル画」によっておこった絵画の性格転換は、「近代絵画に再び壁へ向かわせた理由でもあろう」という。そうして「グローメル、リュルサ、サン=サーンス、マティスとそれにピカソといった近代の多くの画家たちはタペストリーに立ち戻った」。この意味でサイファーは「装飾芸術」としてのロココを評価している。サイファーが「ロココが建築の一つの相として存在したことと、装飾性を率直に打ち出していたこと」と言うのは暗に芸術としての矮小さを述べているのではなく、起源的な芸術としての「装飾芸術」という本来性を指しているのだ。アール・ヌーヴォーもロココを追う。
それというのも、アール・ヌーヴォーが様式ではなく、建築への回帰を可能にする装飾形態だからである。ホイッスラーの《孔雀の間》にも見られる新ロココの装飾である。
印象主義
印象派は、象徴主義者と同様に、まず第一にサロンに反旗を翻した反アカデミー派の画家である。そして印象主義は象徴主義と同じく、主観的な解釈に向かうのである。
そんな「印象主義は広範囲にわたる実験の連続である」。そのためその方途は広大にある。そのアウトラインをサイファーは次のように綴る。
印象主義には、実は二通りの方法があったことロジャー・フライは指摘している。すなわちドガのように、斜方向の視角法を開拓した印象主義と、モネのように大気の効果を研究した印象主義の二通りがあったのである。印象派は、この二通りの視覚方法を妥協させようと非常に多くの折衷案を考え出した。それらの和解策は矛盾に満ちたものではあったが、とても重宝なものだった。このためドガの思いもよらぬ視角から、最終的にロートレックの芸術や、事物を抽象的に歪めるファン・ゴッホの表現主義的な絵画技法が生まれた。他方、モネの大気の描写からは、結局点描主義と分割主義が生まれ、これらがタシスムや新造形主義絵画への橋渡しの役を担うことになった。さらに印象主義は、自然に戻ろうとする意志をラファェル前派と分かち合い、クールベの初期自然主義とセザンヌの中に見られる自然への古典的回帰を結び付けている。また印象主義が一種の自然主義である範囲において、世界を微細な物質に還元し、スーラの振れ動く「無数のタッチの群」を思わせる分子の中に事物を解体していた当時の科学の一側面でもあった。