ピカソ
1937?
芸術家をなんとお思いか。画家なら目、音楽家なら耳、詩人であれば心に抒情、ボクサーなら筋肉のほかになにももたない愚か者とでもお思いか。それはとんでもないかんちがい。芸術家はそれだけでなく政治的な存在でもあり、世の中の悲しみ、情熱、あるいは歓びにもつねに関心を抱き、ただその印象にそって自らをかたちづくっている。他人に興味をもたずにすませるはずもない。日々これほど広く深く接する暮らしそのものから、始めた無関心を装って、自らを切り離すことなどできるはずもない。いや、絵はアパートを飾るために描かれるのではない。絵は戦争の道具です。
1937/6《ゲルニカ》
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牛に関する解釈
雄牛はファシズムというのではないが、野獣性と暗さを表わしている。《ゲルニカ》は象徴的であり、寓意的である、それが私が馬や雄牛を用いた理由である。
こうしたピカソの言明に厳密なハーバード・リードは牛の寓話的意味を次のように理解する。「槍で内臓を突刺されて悲鳴をあげる馬、男や女の身悶える姿、それらは怒り狂った雄牛の通過を物語っているが、その牛はと見れば、情慾と痴愚の力をみなぎらせながら、意気揚々と背景部で振返っている。一方窓からは、あらゆる古典的な純粋さをもって、悲劇的な相貌に描かれた真理が、この殺数の場面にランプを差出している。(...)幻滅の、絶望の,破壊のモニュメントであり、いわば抗告のモニュメントである」。
しかしなから、例えば雄牛の表わす意味にしても,もしピカン自身の説明にこだわらないことにすれば、地中海文明の伝統において、象徴として二通りの意味を持っているので、一方的に邪悪な力の象徴と決定することはできないものである、すなわち、ペルシャにおいては太陽神ミトラスに制圧された牛であり、クレタ島では恐るべきミノタウロスである一方、農業国では力と豊饒のイメージとして野獣中の王であり、スペインの間牛においても、ヒーローの闘牛士の敵であると同時に、対等のパートナーとして尊敬されてもいるのである、しかも《ゲルニカ》に描かれた雄牛が、ハーバート・リードの言うように「情慾と痴愚の力をみなぎらせている」というより、どちらかといえば教然としているようにも見えるために、ピカンの説明にとらわれずに、登場者の象徴的意味を解釈しようとする試みも多くなされているのである。例えばD.H. カーンワイラーは「雄牛だけが教然として直立し、不屈のスペイン人民の力を象徴している」と考えているし、またルドルフ・アルンハイムは「もし雄牛が敵を表わしているなら、この光景は破壊と苦悩のみが支配し、単なる嘆きであるにすぎない。それではレジスタンスというより、単なる感傷であって、共産主義の理論では否定される類の芸術であるから、共産主義に共感するピカンの意図するところとは考えられない。したがって《ゲルニカ》の雄牛は、不撓不屈なスペイン人民の精神の希望の象徴でなければならない」と結論している、ピカンと同じスペイン人であるジュアン・ラレアによれば、雄牛はイベリア半島のトーテムであって《ゲルニカ》においてはスペイン人民の象徴であり、子供を抱いた母親によって表わされたスペインの首都マドリッドを、ファシストの破壊から守っているのである。
1937/8
スペインの戦争は民衆と自由に対する反動の戦いである。芸術家としての私の生涯は反動と芸術の死に対する絶えざる戦い以外の何ものでもなかった。たとえ一瞬でも私が反動と死に与すると誰が考えることができよう。
1937 the Weeping Woman serie
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