カッシーラー
192?『象徴形式の形而上学』
1932『啓蒙主義の哲学』
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ルソーのパスカル受容
ルソーはパスカルの人間告発を真剣に取り上げ、その問題の重大性を余すところなく感じとった十八世紀最初の思想家であった。ルソーはこの告発を和らげることなしに、そしてヴォルテールのようにそれを穿鑿ずきな厭人家の自虐気分と考えることなしに、この問題の核心へ肉迫する。パスカルが『パンセ』で描き出した人間の偉大さと悲惨の描写は、ルソーの最初の著作である懸賞論文『学問芸術論』および『人類不平等起源論』にて一言一句再現されている。パスカルと同じくルソーも、文明が人間にもたらした目もあやな錦繡を単なるまやかしの安ものとしてしか見なかった。やはりルソーも、これらの富はすべて人間自身の内面的貧困を蔽い隠すためのものに他ならない、と主張する。人間が俗世間や社会で多彩な活動をしたり気晴しのために動き廻るのも、偏えに彼が自分一人だけの存在に耐えられず、自分自身を直視するに忍びないからに他ならない。これらの休みなく目的なき活動は、すべてが静寂を怖れる心理に発している。実際に人間が仮に一瞬間でも自分自身の状態に立ち帰ってその状態を明瞭に意識するならば、彼は必ずや極端に救いなき絶望に陥るであろう。 現在の社会の経験的状態において個々人を近づけ結びつける力は何かという点においても、ルソーの判断はパスカルと軌を一にする。ここには本源的な道徳的品性も、真に純粋な全体性としての共同体への意志も、さらに一人の者を他の者と結びつけるはずの自然的共感の本能すらも残らずすべて欠如しているという現実を、ルソーは事あるごとに強調して止まなかった。この場面の社会的な結合はすべて単なる幻覚にもとづいているにすぎず、利己心と虚栄、そして他人を支配し他人を出し抜こうとする衝動が、人間社会を成り立たせている真の紐帯なのである。「至るところでちょっとした飾り言葉を口にしたり、見かけだけの幸福に手を出す行為があるだけのこと。だが誰一人現実の実態には気をとめない。ただ幻想のうちに現実があると皆が思い込んでいるだけで、彼らは利己心の虜となって人生を流れただようにすぎない。自ら生きるためではなく、他人の目に自分が生きていることを信じさせるがために」。このようにしてルソーは、パスカルの論証の基礎にある前提条件をすべて認める。彼はいかなる種類の弁疏や手加減をも考えることなく、パスカルと同じく人間の現在の状況が最も救い難き堕落であるとみなした。
また『エミール』を援用し次のようにする。
だがルソーは確かにパスカルの論証の出発点であったこれらの現象を承認したけれども、他方で彼はパスカルがその神秘主義と宗教的形而上学にもとづいて提起した説明根拠を受け入れることをきっぱりと拒否した。人間意志の本来的倒錯を主張するパスカルの仮説には、ルソーの感情と思考は反撥する。ルソーにとって堕罪の思想は、そのすべての効力と妥当性を失っていた。この点に関してはルソーも、ヴォルテールや百科全書派の思想家たちに劣らず正統派の体系を鋭く徹底的に攻撃した。彼を教会の教義に対する非妥協的な闘争とその最終的な決別へと導いた理由は、ここに存する。教会自身がルソーの著作に対する判決で直ちにはっきりと、この核心問題こそが真に決定的な問題であると強調している。パリの大司教クリストフ・ド・ボーモンは、ルソーの『エミール』を弾劾した布告で、人間の本性の最初の動因が常に潔白な善意であるというルソーの主張は、人間本性について聖書と教会が教える教義の内容すべてと真っ向から対立する、と強調している。  だが今やルソー自身も、これによって抜き差しならないジレンマに直面したように見える。もしも彼が人間の「堕落」という事実を承認し、それを機会あるごとに強調して人間の現状を暗黒な色彩に描き出すのならば、彼はもはやこの堕落の原因に頰被りしたり、「根本悪」の存在なる結論を回避することが不可能になろう。だがルソーはこの点で自然と「自然状態」についての彼の理論を導入することでこのジレンマを脱出する。われわれは人間について判断を下す際には必ず、自分たちが述べる事柄は自然人(homme naturel)について当てはまるものか、それとも文明人(homme artificiel)について当てはまるものかを最も厳密かつ細心に注意しなければならない。パスカルが人間本性に含まれる解き難い矛盾を説明して、形而上学的に見れば人間は二重の本性を有していると言うのに反し、他方ルソーは人間本性のこの二重性、この矛盾をあくまで経験的存在と経験的発展のなかに見出した。人間を社会という強制形態に引き込むことであらゆる種類の道徳的悪に塗れさせ、虚栄、傲慢、無限の支配欲などあらゆる悪徳を人間の心に植えつけ育てたものは、この発展の過程そのものに他ならない。ルソーの『エミール』は次の言葉で始まる。「万物の創造者の御手を離れたときはすべては善である。すべては人間の手中で堕落する」。こうして神の責任は取り除かれ、すべての悪に対する責任は人間に帰せられる。だがこの責任はあくまでも「現世」に属して「来世」には属さない故に、そしてそれはまた人間の経験的・歴史的存在に先立つものでなくこの現状から発現する故に、われわれは自らの救済と解放をこの地上でのみ求めなければならない。天上からの救い、超自然的な援助は決してわれわれを解放しはしない。われわれは自力で解放を実現して自らそれの責任を引き受けなければならない。
ルソーの倫理的・政治的理論は、責任の観念を従来試みられなかった方面へと移転する。その理論の真の歴史的意義と体系的価値は、それが「責任」能力の新しい主体を創出したことに存する。この主体は個々の人間ではなくて、人間社会である。自然の手から離れたばかりの個々の人間は、まだ善と悪の対立の埒外にある。彼は自己保存の自然的本能のままに従い、「自愛amour de soi」に支配される。だがこの自愛の精神は、ここではまだ他人の抑圧に快感と満足を感じる「利己心amour-propre」に変質してはいない。このような利己心を生み出す原因はもっぱら社会にある。人間が自然に対する、そして自分自身に対する専制者となるのはこの利己心の働きによる。利己心は自然人が知らなかった欲求と熱情を人間の内部に呼び起すのみでなく、同時にそれを際限なく野放図に満足させる新しい手段を人間に与える。他人の口の端にのぼりたいという競争や、他人よりも抽んでたいという情熱は、いずれもわれわれの自己疎外の絶えざる原因となる(26)。  だが一体この疎外作用はあらゆる社会の本性に根ざすものであろうか。権力や所有欲や虚栄などの動機をもはや必要とせず、義務的・必然的なものと内心から承認される法則にのみ全体が服従するという基盤に立つ、純正な、そして真に人間的な共同体は考えられないであろうか。これがルソーが『社会契約論』で提出して自ら答えようとした問題である。今までの社会の強制形態が崩壊してその代りに政治的・倫理的な共同体が、すなわちそこでは各成員がもはや他人の恣意には隷属せず、成員各人にとって自己のものと認められる一般意志のみに服従する共同体の新しい形式が出現する段階で、初めて人間解放の時は到来するにちがいない。だがわれわれはこの救済を外部に期待しても無駄である。神が救済をもたらすのではない。人間は彼自身の救済者に、そして倫理的意味において自分の創造者にならなければならない。今までの形態の社会は人類に非常に深い傷を負わせてきたが、変形と改革によってこの傷を癒すもの、そして癒さなければならないものも同じく社会なのである。
1944『人間』