正解がわからなくて悶々としてしまう
Q: 正解がわからなくて悶々としてしまう理由や仕組みが知りたい
具体的にどのような問題について「正解は?」と考えているのか明確にする必要がある。
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「正解」とは?
「正解」という言葉を自分が使ってるケースを調べてみる
A, B, Cのカードがあり、あなたは「AとBをくっつけて、Cは離すのがしっくりくるな」と思ったとしよう。そこに別の人Xさんが「BとCをくっつけて、Aを離すのがよい」と言ったとする。
あなたの配置が不正解だったのではない。あなたとXさんの主観が異なっているだけ。同じ物を観察していても、あなたとXさんは視点が異なっていて、見え方がちがうだけ。
nishio.icon同じ物を観察していても、視点が異なっていて、見え方がちがう
ある記号体系Aで表現されたものをその記号体形の中で変形するか、記号体系Bに移してから変形するか
正解に早くたどり着けるものがいい
正解のない問題に取り組むときは探索範囲が広い方が正解にたどり着ける可能性が高まって良い
nishio.icon「正解が未知である場合」の意味で「正解がない」と書いてる
メンターが知ってることを書いても害は少ないです。むしろあなたがよく理解している証拠になります。
一方であなたが「メンターは知ってるだろう」と思って書かなかったことをメンターが知らなかった場合、それは「あなたの提案をメンターがよく理解できない」という大きな損失になります。
どこが適切なバランスなのかは難しい、正解のない問題です。迷ったら書く方が安全です。
nishio.iconこれも「正解が未知」で、正解とは効用が最大になる点
何が特殊資料なのかは、みなさんの置かれた環境や解く問題によって異なります。あなたの身近な課題を解決したい場合、あなた自身が有用な情報源である可能性が高いです。私たちは正解が自分の外にあると思い込みがちです。しかし、これは正しくありません。自分の外ばかりを探検するのではなく、自分に目を向けることが必要です。あなた自身を重要なインタビュー対象だと考え、あなた自身が主観的にどう思っているのかを丁寧に聞く必要があります。
nishio.icon自分自身が重要なインタビュー対象
これはあなたの中のまだ言葉になってないものを言葉にすることを支援する手法です。正解をあなたの外に求めても、決して見つかりません。
学び方の文脈で言うと「正解の構造があって、それを手に入れるために学ぶんだ」という考え方から離れろ、ということになるのだろうか。
Wikipediaだと「唯一の正解」に向かう感がある
表現も客観的で説明的にするしかないし、エビデンスも要求される
主観も混ぜれるScrapboxだと「ぼくがかんがえたさいきょうの」もしやすい
ある問題に対して著者がどのような回答をするのか推測し、それが正解したなら、著者の思考をエミュレートできたといえるだろう
一次元的コンテンツは「次に何を読もうか」という意思決定が必要ない
意思決定に疲れた人にとって低コスト
「次に何を読むべきか」に正解があると思っている人は、選択肢が複数あると正解がわからなくて戸惑う
例えば、ある商品の値段が上がります。この現象と、凧揚げの凧が揚がるという現象。これ論理的には何の関係もないです。客観的な論理的な関連性というのは全くないんですけど。
この間に、あれ?これ似ているのではないかという、主観的な類似性を見出す事ができる。まず関係はないと。ないんだけど、あえて商品の値段があがるのと、凧上げのタコが揚がるのの間に主観的に関係を見出したとするとどうなるかと。例え話としてですね。これ主観なので、客観的な正解とかないので、あえて見出すとしたら何が言えるだろうと考えるわけです。
これ、主観的に自分だったら、凧が上がる時に何が起こっているだろうなとか考えるわけです。
凧が揚がる時には風が吹く。風の力で凧が揚がる。じゃあ、その風に相当する物はこちらでは何なんだ。商品の値段が上がる事に寄与する風というフワッと吹くものは一体何だろうといった時に、これは客の注目かなみたいな事を思うんです。じゃあ風が吹いて凧が揚がっている事を、皆さんイメージしていただいて、その時にどんな事が他に起こるだろうか。風が吹く前とか後とかにどんな事が起こるだろう。
例えばこれ本当に主観的なんで正解なんか何もないんですよ。皆さんどういう正解を出せばいいんだろうっていう気持ちになってしまうかもしれないですけど。これアナロジーって主観的なので、僕の子供の時の記憶だと思うですけど、風が強いせいで凧の糸が切れて飛んでいってしまった。みたいな事があったとする。風が強すぎてですね。
じゃあ凧挙げの凧の風が強すぎて凧が飛んでいってしまうという現象は、こちらの世界に戻したときに一体何を意味するんだろうかと。客の注目が強すぎて、商品の値段が・・・ちぎれて飛んでいくというのは、一体商品でいうとこの何なんだろうと。
「上がるか、上がらないか」という二者択一の問いにすると、論理的にはどちらかが正しくてどちらかが誤りなので、正しい方を選ぶことを重要だと思い込んでしまう。
しかし現実社会の問いでは、しばしば「どちらであっても大差ない」ことがある。この場合、正解がどちらであるか知ることに有用性がない。
「あなたが落としたのはこの金の斧ですか?それとも銀の斧ですか?」
金の斧か銀の斧かどちらかを選ばなければならないと思い込んだなら「誤った二者択一」
正解は「どちらでもない、鉄の斧だ」だった
みなさんは「学び方」という言葉で何を連想するでしょうか?教師がいて、生徒がいる情景?問題集があって、自分で解いて、答え合わせをするプロセス?大学の授業ではグループワークという演習が行われることがあります。これは生徒が複数人でグループを作り、その中で議論をして問題の答えを作る演習です。一人で問題集を解くのとはだいぶ違います。また、研究は世界でまだ誰も知らない答えを見つけるプロセスです。すでに「正解」が用意されている問題集とはだいぶ違います。
中学・高校での学びは、解くべき問題と正解とがすでに決まっています。一方、実社会での学びは、問題も正解もまだわかっていません。その状況で、一体どうやって学べばよいのでしょうか?
nishio: 勘違いがないように補足しておくと、これはテストではないので「想定解や模範解答があって、それを書けば合格」というタイプのものではない、全くない。 nishio: 提案書自体が一つの「プロダクト」だし、それに「正解」は存在しない。ではプロダクトの良し悪しが何によって決まるかというと「市場」に、そのプロダクトに反応してくれる「顧客」がいるかどうかによって決まる。顧客の価値観は多様であるので同じものを見ても人それぞれ反応が違う。 プログラミングは「自分が実現したいもの」を実現しようと思ったら、どんな本を読んでも正解なんて書いていないところを、とにかく作ってみて動かしてみて挙動を観察し修正することを繰り返して進んでいくしかない。
土曜講座でOBが話しますっていうと「僕が知っている正解をみんなに教えます」という物が多いかもしれないが今回は、僕が悩んでいる問題を共有し、僕なりの回答を説明し、それに対して皆さんがどう思うかアイデアを伺いに参りました、よろしくお願いします。
「誰かに正解を教えてもらいたい」という気持ち、よくわかります。...他人の行動は他人の目的に基づいています。他人の目的は自分の目的と一致するとは限りません。
正解がない
ケースバイケースだから
人によって異なるから
ある程度「こうかな?」と思うものはあるだろうけど、それが正解かどうか誰も知りえないわけです。灘2021質疑