知的生産の技術
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1969年!?
知的生産という概念が生まれて発展していく歴史を垣間見ることができる
知的生産あるあるが面白い
クスっと笑ったのは久しぶり
ひらがなが多いのもまた笑いを誘う
可愛らしさが想起される
とことん味わいたいのでねっとり書いていくぜ……
序盤の経緯を寄り道しつつ
わたしは、こういう問題についての関心をかきたて、刺激を提供することができれば、それでよい
sta.iconも好みとしては一緒
これなら自分の好きに書きやすい
別の言い方
議論のタネをまいて、刺激剤を提供するだけである。
今日の学校において、よい成績をとるためには、ひじょうに特殊なテクニックを必要とする
ゆえに学校成績と頭の良さは直結しない?
僕は学歴コンプレックスみたいなのがあって、東大卒とかには頭上がらないのだが、気にしないでいいのかもしんない
学問をこころざすものなら当然こころえておかねばならぬような、きわめて基礎的な、研究のやりかた
専門バカといわれるような、視野のせまい、学問的生産力のとぼしい研究者になりやすい。
知的生産の技術を知らずに情報量(紙の山とか)が多すぎるのを防ぐため、研究対象をそもそも減らそうというやり方はまずい
技術がわかれば、そんなことせずに済む
技術というものは、原則として没個性的である。……かならず一定の水準に到達できる……客観的かつ普遍的で、公開可能なもの そこまで整備しきってはじめて技術になる、と
おもいきって、そういう話題を公開の場にひっぱりだして、おたがいに情報を交換するようにすれば、進歩もいちじるしいであろう
個人的で、意識されず、あるいは軽視されていた技術を公の場に引っ張り出す、というパラダイムシフト 知的活動よりも、肉体的活動による物資やエネルギーの直接的な生産のほうが、実際問題として重要……現代では、その事情がかわりつつある……知的生産が、いちじるしく生産的な意味を持ちつつある
この時代にここまで予見できたってすごすぎない?
他にも未来予測的な発言がちらほらあって高確率で当たってて「すげえ」と思っていた
まあ現代としてVUCAじゃないから、博識な人はそんなものだったのかもしれんが この人がつくったもの
かんたんにいえば、知的生産というのは、頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら――情報――を、ひとにわかるかたちで提出することなのだ。
一定の知識をもとでしたルティーン・ワーク以上のもの……多少ともつねにあらたなる創造の要素がある。知的生産とは、かんがえることによる生産である。
知的生産でないもの
麻雀や将棋
知的消費
高度の知的活動ではあるが、あたらしい情報を生産するわけではない
趣味としての読書
これも知的消費
知的生産を業務とする人の例
研究者はもちろんのこと、報道関係、出版、教育、設計、経営、一般事務の領域
知的生産の技術について
教養ではない
教養としてではなく、積極的な社会参加の仕かたとしてとらえようというところに、この「知的生産の技術」というかんがえかたの意味もあるのではないだろうか。
今や必須である
家庭の主婦さえもが、日常の生活のなかで、知的生産をたえずおこなわねばならないのである。それでなければ、家庭の経営も、子どもの教育もできないのである。
技術の例
資料をさがす。本をよむ。整理をする。ファイルをつくる。かんがえる。発想を定着させる。それを発展させる。記録をつける。報告をかく。これらの知的作業は……いまでは、だれでもが、そういう仕事をしなければならない機会を無数にもっている
生活の技術として、知的生産の技術をかんがえなければならない理由が、このへんにあるのである。
知的生産の技術論を発展させて、家政学の重要な一分野として確立させなければならないであろう 今どうなってる?
されてた
知的生産の技術が多かれ少なかれ使われて整備されたってことだろう
行動する
いろいろとかんがえてみること、そして、それを実行してみること
必要な二つのこと
自己変革と自己訓練
訓練、か
たとえばタスク管理も、タスク管理の技術を訓練して手に入れる、というイメージだろうか 僕は「慣れる」というニュアンスがあるが、弱いのかもしれない
「訓練」レベルのニュアンスがそもそも必要なのかもしれない
「カードをかく」という習慣が確立しない……すっかり習慣になるまでは、自分自身を訓練しなければ、うまくゆくものではない。
能率の問題ではない
むしろ、精神衛生の問題なのだ。つまり、人間を人間らしい状態につねにおいておくために、なにが必要化ということである。かんたんにいうと、人間から、いかにしていらつきをへらすか、というような問題なのだ プログラマーなどクリエイターが手段にこだわる理由
「時間」がほしいからではなく、生活の「秩序としずけさ」がほしいからである
知的作業の個人的「聖域性」
技術は公開するが、知的作業そのものは個人的であるとしている
僕の直感とも一致する
知的生産は、どこまでも個人においておこなわれるものである。
複数人で協調して知的生産する場合はどうする?
聖域性壊さないようにするべきなんだろう
本書では言及を割愛している
レオナルド・ダ・ヴィンチ
手帳に何でもかんでも書き込んでいた
この天才には奇妙なくせがあった
当時は奇妙だったのか
現代で「奇妙なくせ」とみなされるが、未来には当たり前とみなされることってなんだろう
青年たちは、ダ=ヴィンチの偉大なる精神に魅せられて、それぞれにその偉大さに、一歩でもちかづこうとしたようである。……川喜田二郎君なども、そのときのグループのひとりだが……なんにんもの友人たちが、おなじ道を選んだ。わかき「天才たち」は、ポケットから大型の手帳をとりだして、しきりになにやらをかきつけた。
知的生産という言葉は、ダヴィンチのメモ習慣に触発されて生まれた?
一般化すると「天才のよくわからん行動を真似すると、その有効性が凡人にもわかってきて、技術として整備できるようになる」?
だとすると、今もどこかの天才のよくわからん行動が、将来の技術になりそうなヒントとして誰かを待ち続けている?
メモ(発見の手帳)
手帳にかくことがらの、内容と形式とを開発していった。
手帳に書いたのは発見
面白いと思った現象
自分の着想
心覚えのために、ちゃんとした文章で書く
車輪の再発明を防ぐ
まえに一ぺん「発見」したことをわすれてしまって、またおなじことを「発見」してしまうのだ。
発見は瞬間的なもの
宇宙線のような……目にみえない粒子のひとつが、わたしにあたって、脳を貫通すると……「発見」がうまれるのだ、というふうに
誰にでも起こっているが、瞬間的にきえてしまう
「捉える」ことが必要
発見には感動が伴っている
感動がさめやらぬうちに、文章にしてしまわなければ、永久にかけなくなってしまう
感動を乗せるためにフレーズではなく文章にせよ、と
必ず索引をつくる
アナログなノートの話
後で引きやすいように
二重発見も防止できる
索引に書いた「端的な名前」を俯瞰することで関連を見つけやすい、ってのもあるみたいだ
カードへ
「発見の手帳」は、もうつかっていない。いまでは、その機能をカードで代行させている
旅行のときなどは、カードよりは手帳のほうが便利
知的生産の技術としては、手帳とカードは一長一短であろう。
ノート
罫線の間隔は日本語向きじゃない?
せますぎる
ほそい英字をかいていたころのケイの間隔を、そのまま直輸入しているのではないか、とおもうのである。
ページの追加や順序の変更ができない
ルーズリーフへ
そこでかんがえさだれたのが、ルーズ・リーフ式のノートであろう。
とじこみリング部分のかさばりが気になるし邪魔
最初はノートとして使える
書いたら切り取り線から切り取る
穴もあいてるのでバインダーにファイリングできる
保存o、整理x
ノートの欠点は……ページが固定されていて、かいた内容の順序が変更できない、ということである。
ノートは、内容の保存には適していても、整理には不適当である。
カード
本質的にはノートと同じ
とじてないというだけで
書いたことの整理が大変
時系列に舐めていって同じ種類の記述を拾う
ぎっしりかきこんだ数十冊の野帳をまえにして、さて、これをどう処理しようかと思案した。
項目別にばらしてカードにしてしまう、という方法を思いつく
野帳の分量が多いと、野外調査からかえってからカードができるまでに数ヶ月を要したりした。人手も費用もかかり、また転写のときにどうしてもまちがいがおこるのを防げなかった
ジレンマ
カードを持ち込むと後で転記する手間はないが、野外で保たせるのは厳しい
野帳だと持たせられるが、あとで転記する手間が生じる
ノート式カード
カードが無かったキャンプにおいて自作フィラーノートが使われた
B6判
ラセンをはずしてページをばらしてしまえば、そのままカードとして使える
複製問題
研究用と自分用に二枚欲しい
だが同じカードを二枚つくるのは面倒
感圧紙で楽できる
野外調査の整理にだけつかっていたカード・システムを、知的生産の全領域に拡大して適用することに……「発見の手帳」も、もちろんこれに吸収されてしまった。
自分で設計したものを図書館用品専門店に注文してつくらせた
紙の厚さ、裏は白紙、サイズ、穴はない、など
ずいぶんと普及した
逆にわたしに、「カードはこれがよい」とすすめてくれるひともでてきた。
笑う
わたしのカードが製品として売られているのを発見した。その商品は、「京大型カード」という名がつけてあった。
特許保護しないとこうなるのか……
カードの大きさなど
京大型カードはB6判
ちいさいカードでは、どうしても「おぼえがき」になってしまって、本格的なノートのかわりにはつかえない
カードの持ち運び
表紙
プラスチックのかたい板
カードより数ミリずつ大きくしておく
カードの端が傷まない
sta.iconこういう細かい工夫が光るよね
(これ以上は割愛するが、工夫した点とその理由や背景が結構詳しく書いてある)
sta.icon知的生産欲求が刺激される
地道に不便を工夫で解消していく感じだ
そういうもん
銀の弾丸はない
小さくて地味な工夫の積み重ねで、ある程度汎用化できるってだけ
カードはメモではない
他人が読んでもわかるように、しっかりと、完全な文章でかく
1カード1トピック
一枚のカードにはひとつのことを書く。この原則は、きわめてたいせつである
何をトピックとするか(単位のみとめかた)
経験によって会得しなければ仕かたのないこと
思い切って小さく分けた方がいい
初心者は思い切って小さくする、手を抜く、シンプルにする、みたいな
ケチらない
ちゃんと活用する
活用するとは、カードを操作して知的生産の作業をすること
むしろ操作できるのがカードの特徴
蓄積と貯蔵だけなら、ノートでじゅうぶんだ。
関連もカード化する
カードとカードの間に思いがけない関連があることを発見する
これもカード化する
カードは分類しない
むしろ主体的な関心のありかたによって区分するほうがよい。
未整理のカードがいくら増えても構わない
著者は「創造を生み出す源泉」になると言っている
くる
カードをシャッフルする、という意味での「くる」
くりかえしくることがたいせつなのだ
カードのフォーマットは統一して、一つにする
続ける
長年つづけてやらなければ効果は少ない。いわば蓄積効果の問題
sta.iconScrapboxもそうだと思っている
早速僕も有限性の恐怖で震えているが、耐えて続けてみようと思う
今688page with 2ヶ月
6000ページくらいにはしたいかなw
二年はかかりそう
きりぬき
スクラップブック
分類と整理を許さないのがダメ
でも売れてるのは不思議
あれは永遠に初心者むきの材料として売れているのかもしれない。
ばらの台紙に張る
A4判に切り抜きを貼る
台紙一枚に記事一つ
大小関係なく
著者曰く大成功
つくるのはしんどいが
ハトロン紙を切って台紙をつくる
切り抜いた記事を貼る
子どもたちにアルバイトで対処
この台紙をどう保管するか
棚に入れる
分類項目が固定されてしまうのが微妙
オープンファイル
フォルダにはさみこんで、これを本棚のような棚に立てる
分類項目がフォルダという小さくて増やしやすい単位になっている
たとえると
スクラップブックはノート
棚に台紙はルーズリーフ
オープンファイルに台紙はカード
sta.iconいわゆるカテゴリの概念、までだよね
デジタルにより誕生したもの
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sta.iconこれ参考に新しい概念つくりてえなってのはある
忘れるために書く
記憶するかわりに記録する
きれいさっぱり忘れているもの、というつもりで書く
記憶をたよりに知的作業をすすめようとするひとを、わたしはあんまり信用しない。
写真
資料写真と家庭写真
家庭写真
資料ではなく思い出
日記みたいなもん
分類しなくていい
時系列に保存する程度
もっぱら妻の管轄で、わたしは口だしをしない
規格化
知的生産の作業で使う「カード」単位の形式を決めること
自製も辞さない
著者は専門店に注文してつくらせるほどの行動をしている
フォルダーそのものは、ただの紙だから、かさばらない……いれる書類の大きさや形には、まったく無関係である……すべての雑多な書類が、すべて同一形式のフォルダーによって規格化され
今でこそパソコンのフォルダのように当たり前の概念だが
アナログという物的制約しかなかった世界で、この見方に到達したのがすごいよな
垂直式ファイリングシステムの初は、1893年のシカゴ万博に出品されたらしい
道具のユニークさにはこだわらない
それによってつくりだされる知的生産物が個性的・創造的であればよいのである。
手段だけユニークであることにこだわっても意味ねえよと
結果出さず自己満足で終わってしまう
整理と整頓
みた目はともかく、必要なものが必要なときにすぐとりだせるようになっている、ということだと思う。
整理は、機能の秩序の問題であり、整頓は、形式の秩序の問題である。
整頓は誰でもできるが、整理は本人じゃないとできない
文書の整理
垂直式ファイリングシステム
本質的にはオープンファイルと同じ
要するにふたつおりのフォルダーのなかに書類をはさみこんで、それをカードのように、たててならべるということである
分類項目をどうするか
徹底的に細かくする
細かくないと役に立たない
けっきょくは固有名詞が単位になってしまう。それでよいのである。
sta.iconだよなぁ、直感と一致する
空間
分けることが大事
広さではなく機能の分化
四種類
仕事場
事務所
資料庫
材料置き場
仕事場
執筆や読書をする場所
事務所でもなく、資料庫でもない……わたしの、ほんとうの聖域であり、密室である。
資料庫から資料を持ち出して、仕事場で知的生産の作業をする
終わったら事務所に行って、残りの作業を
材料置き場
著者は「カードをつくるための材料」や「原稿用紙」をストックする場所、という意味合いで使っている
sta.icon
今はデジタルだから材料置き場は要らないかしら
都内住みの平社員には無理な話だ
書斎、リビング、集中部屋の3つが要るってことだからな……
ツール
重要なのは何を使うかではなくどう使うか
問題は、機械のつかいかたである。全体としての、知的生産の技術の体系がしっかりできていなければ、機械は眠ってしまうだけである。
タイプライターや録音機などの機械が登場し始めた時代の話だから、なお説得力がある
著者も「あわてて買いこんだ機械で……ねむらせてしまった」と述べているが
今の時代、ツールはどんどん登場しているからぜひ意識したい
読書
読書大国なのに能率的・合理的な読書技術の開発がしょぼい
sta.icon前半パートでもそうだが日本は「知的活動の技術化」にとことん弱い印象を持つ
読み方
著者の思想を正確に理解する場合
全部読むしかない
読んだと見た
読んだ……はじめからおわりまで全部読んだ本にだけ許す
見た……読んでない本はこっち
あたりまえのことだが、「みた」だけの本については、批評をつつしむ。
なるべく一気に読む
著者が構築した世界に自分を没入させることに他ならない
とびとびだと没入しづらい
著者の読み方
読んだあと
ノートをつける
内容はなんでもいい
ただし著者が書かないこと
著者にとっての大事なこと
本みたら分かるもん
文脈もセットであるべきだが、それは本に既に存在する
ここを切り取ろうとすることは、結局本を複製することにほかならない
著者の例
印ついてるところを拾い、本当に値打ちがあるものだけノートに
なにをノートに取るかは様々
この表現面白い、と思った部分
その本が伝えたいサマリー
その本を理解するために重要なヒント
1ネタ1カードで
ネタは一冊から3~30枚ほど
積読の使い方
「読んだ本」を積んでおく
つまり「読み返してノートにまとめるものたち」を積む
できれば寝かせる
本の見方が冷静になる
ただし読まないで積んでおくものも多いらしい
sta.icon個人的に疑問だと思っていること
読書カード(確認記録)
いつなにを読んだかを記録する
「読んだ」本だけ記録する
効用
(所有する本の中で)「読んだ」本がたしかにわかる
自分の知的活動力の現実が可視化される
あまり幻想的な評価をしないために、ひじょうに役だつ。
年末には……ふりかえってみるのだが、そのあまりの貧弱さに、われながらあきれてしまう
(著者の場合はご多分に漏れず)カードで
読後感そのほか、内容に関することは……いっさいかかない。
著者の場合
1年に100枚いかない
平均して週2冊までゆかない
多い月で10冊、少ない月で3冊
わたしはけっして、読書ずきではない
読まないで済むならその方がいいタチ
必要に迫られてある程度は読む
読むことには努力はらっている
sta.icon直観的に僕もそんな気がしている
「読む」を前提として、週1~2冊というライン
精読に1~5hかかる
二回目、読みながらまとめるのにも同じくらいかかる
sta.icon同じ読み方してる人が他にもいてちょっと安心した
引用について
メモをとるのも「わたしの文脈」においてであって、著者のそれではないから、著者の思想を引用するにはつごうがわるいのである。
何かを言わないために読む
読書は「すでに書いてあること」を確認する行為
書いてあることはその本に任せればいい
引用ベースの本は、いわば劣化コピーでしかない
知的生産が薄い
ここにかいた「読書法」だって、じつは、大部分はどこにでもかいてあることで、わたしがしらないだけかもしれない。それをおもうと、まったく身のすくむおもいである。ああ、はずかしい。
sta.iconどこにも書いてないことの方が珍しい気がしないでもない
例外はマイナージャンルを攻めること
読書、レベルのメジャージャンルでは無理だろうなぁ
人生、とかになるともっと無理
哲学もあるし
手書きとタイプライター
国内にタイピング手段が普及する前の話
日本語は言語体系がえぐい(というか正字法がない)から確立できないという問題に言及している コンピューター界隈でも日本語にはずいぶんと苦しんでいる……
なのでローマ字で書く、ひらがなやカタカナで書く、といったタイプライターが登場している
わかちがき
こんな ふう に ちぎって かく
ちぎりかた しだい で よみかた が ずいぶん と かわって くる
「あたらしい文字」
英語みたいに文字数少ない、あたらしい言語体系をつくろうとした人達がいたらしい
sta.icon羨ましい。僕もなにかにただただ狂気的に熱中していたい……
手紙
国内
sta.icon興味深くてメモしてる
技術にこだわる僕がこの先のし上がる(食べていく)ためのヒントが欲しい
手紙の形式が整っていない
世界有数の郵便文化なのに……
ふしぎな文化といわなければなるまい。
普通教育でおしえるほどには、形式が確立していないのである。
元々厳格な型があったが、ヨコ書きが渡ってきてから形式が崩れてきて、そのまま開発されず混乱を迎えた……ということらしい
形式をおもんじすぎた過去への反発もあって、とくに戦後はこの傾向がつよくなった
そうこうしているうちに電話来たしね
内容至上になってしまい「優れた内容」書けない人がしんどいから
こんどは各人の石印において、いきいきした名文をかかなければならなくなったのだ……われわれは手紙において、真情を吐露しなければいけないことになってしまった
sta.iconピンと来ない……
要するにフリーフォーマット至上主義になってなんか弊害起きたってことよな
なにが起きた?
普段人とやり取りしないからかピンと来ませんねぇ……w
日記
自分のために書くもの
しかし技法や形式は重要
これらなしに意味のある日記を書き続けられるほど私たちは優秀じゃない
未来の自分は他人なので、他人が読んでもわかるように書けないといけない
本質は時系列の経験の記録
経験が内的か外的化は問題ではない
文学的な日記もあれば、科学的な日記もあり、実務的な日記もある。
できるだけ客観的に、簡潔に書く
経験や出来事がメイン
思想や感情も書いても良いが、簡潔に
表さんは着想もゴリゴリ書いているようだが
少なくともだらだらととりとめのない感想や所感を書いたりはしない
僕とかねsta.icon*4
あのときはどうであったか、と事実をたしかめるためにみる
書き方
二段構えにする
記述すべき内容、事件、経験
それについて詳しい記述
見出しをつけておくと、あとで検索しやすい
日記をカードで書くとしたら
京大型カード
一日一カードにおさめる
詳しく書きたいネタは、別にカードつくる
見出しは「年月日」
記録
記憶しようという努力はあきらめて、なるだけこまめに記録をとる……知的生産にたずさわるものの、基本的な心得であろう。
日常生活そのものが、じつは野外研究の場と考えればよい
常にメモ手段を持ち歩き、日記をつける(メモをする)
野帳に記録していけばよい、としている
記録だから整理はあとでいい
sta.iconはガラケーが野帳がわりか
うん、やはりスマホでリッチなアプリでメモする必要はない
原稿
厄介
知的生産の諸技術のなかでも、いちばんやっかいな部分について……文章の技術についての話である。
社会的な文章
公表されてたくさんのひとによまれることを前提にしている
原稿というのは、それを印刷物にするためにかくものである。
配布手段側の制約に最初から配慮せよということ
デジタルな今はtrue?
要するに何らかの配布手段(が規定するフォーマット)に落とせってことよな
epub
markdown
著者は印刷や本の概略を知っている必要があると言っている
同感
この点を知らずに我流の形式でつくって公表しようとする人が多い
社内とか
スライドやチャットでやたら長文入れる
Markdownの文法を守らず、プレーンテキストでゴリ押しレイアウトする(・で箇条書きしてるとか)
発信者の義務だよなぁ
しかし勉強も必要だしかんたんではない
原稿に対する意識の差
つい最近までは、ごく少数のエリートだけがかくものだった……かいたものが印刷になるなどということは、なにかどえらいことのようにおもっているのだ。
ある
これはある
印刷に限らず、事業部数百人全員に見える場所(Wikiやチャット)に書ける人、驚くほど少ない
バリバリ書くの、観測範囲では100人に1人とかもレベル
会社全体やインターネットになったらなおのこと
原稿用紙はクソ
わかちがきが最適、という前提だが
字数計算やページ数計算が非常に煩雑になる
明治初年のフォーマットそのまま使ってるってどういうこと
無理矢理合わせるしかない
手の動きが遅くなる
はかばかしくできあがらない。
sta.icon今はタイピングだが、この「文字を当てはめる先」側の制約にひきずられるのは気をつけないといけない
Wordが書きづらいのもこれ
文章書けない人達
文章アレルギー
こまったことだが、みんな、かくことがきらいなのである。
どうしたら救えるか
それはわたしにもわからない
わたし自身がそういうタイプにちかいのである……(ページ飛ぶが)……それでも、くるしみながらも、すこしずつでも文章をかきつづけることができているのは、やはり、友人たちからおそわった、文章のかきかたの技術についての知識と経験のおかげだとおもう。
文章をかくということ
段階二つ
1 考えをまとめる段階
2 実際に文章に書き表す段階
前者が大事
書く内容がないと書けない
基本的にたぐりだすものではなく、組み立てていくもの
文章にするときに、努力して論理的なかたちに組みなおすのである。
つまりはプログラミングなんだよね
関数名組み合わせて処理つくるように
組み方
こざね法
これを川喜田氏が洗練したのがKJ法
というかこざね法は「KJ法のB型による文章化」
ソロバンによる計算法は、けっきょくは暗算なのだが、頭のなかのうごきを、頭のそとでシミュレートしてみせる
sta.iconそうなんだ
凡人のため
天成の文章家には、こんな技術はまったく不必要であろう。これは、凡人のための文章術である。
やはりあるんだよなぁ、才能
国語教育
ほぼ文学作品が使われている + 先生も文学への指向性が高い
偏ってる
文学を否定してるわけじゃない
好きな人が学べばいい
現代はビジネス文章を書く機会が多い
文章の問題は、むしろ、情報工学の問題としてかんがえたほうがよいのではないか
わかる
プログラミングみたいに論理の世界で書きたいよね
学べば誰でも組み立てられるようになる
才能や感覚による創作ではなく、論理と技術に基づいた構築
現行ルールの体系の基礎の破壊
著者は「くわだてるようなことになってしまった」と控えめに書いているが、僕は絶対必要だと思う
常に疑えじゃないが、前提となっている基礎のせいで最適解に至れないケースが多い
基礎を変えると、かえって整合性合わせるのにしんどいから、壊す
プログラミングでも格言としてある
アウトライナーでもTak.さんとかが言ってた気がする
一からつくりなおすのは「自分がつくってる作品」だけじゃない
自分や組織が適用しているやり方そのものも対象であるべき
知的生産者は、知的生産の技術の生産者でもあるべきなのだ。 ――吉良野すた
そらで考える
直観的透察がよくきいて、思想の脈絡がはるかにうまくつく
たのしい
数学もこれ
紙と鉛筆をはなれて、ねながらそらで数式をくみたててあつかうことをおぼえてからは、うそのように数学がよくわかるようになった