暇と退屈の倫理学
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ちょうど今読んでる暇と退屈の倫理学がそういうことを体系的に説明しようとしているみたいblu3mo.icon なのでおすすめですblu3mo.icon
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第二形式(退屈をまぎらわす場)を楽しむことが重要
そのためには訓練が要る
いわゆる教養ってやつだな
もっと訓練をすれば紛らわせる選択肢が増えるというわけか
第二形式には余裕があり、余裕があると思考ができる
自分が何にとりさらわれるのかを、楽しみながら探していく
+1sta.icon
もうやってる
何なら書くという「思考を進めやすい」営為も知っている
第一(仕事の奴隷)と第三(使命の奴隷)にはなるな
一見すると羨むシチュであるが、本質は奴隷であり人間的でない
が、それでも本人が幸せならいんじゃねと、未だに羨む自分がいる
消費には引き続き抗いたいと思った
仙人的な生き方をしている俺だが、これで良いsta.icon*2
自分で開拓している俺は既にとりさらわれを模索していると言えようsta.icon
体力を「浪費」している
これで良いsta.icon*2
そうは言うても「まともに生きられるようになるための」努力は結構要る
これができないと第二形式を享受することすらできなくなる
ブラック労働者として搾取されて第一形式に振り回されることしかできなくなる
努力は怠っちゃいけないsta.icon
でもその過程で消費にまどわされてもいけない
結局、余裕を持って思考しながら、自分を見失わないように&奴隷化しないように生きながらえていくしかないsta.icon
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今の俺のままで基本的には良い
ただし
1: 第二形式の手札が少ないので拡充した方が良さそうだ
たぶん運動面ももう少し取り戻した方がいい
2: 何者は目指さなくていい
1: 「こうしなければ」「ああしなければ」と思い煩う必要はないということ
安易に興奮や奴隷に飛びつかない
diary
10%
現代では需要は供給側によってつくられている
趣味とは元々は感性を意味していた(が、いつの間にか活動に変わった&カタログから選ばされるようになった)
パスカル
ウサギ狩りはウサギが欲しいのではない
毎日ギャンブルする人も同じsta.icon
気晴らしには熱中が必要、熱中しないと茶番に気づく(自分を騙せない)から
熱中には苦しみや負荷が必要
よって退屈をする人間は苦しみや負荷を求めると言える
政治的な過激な思想(本ではファシズムの例)も根っこがここ sta.icon
俺は自分の意思で選んできたつもりだが、そうか、だいぶ抗っているわけだな。だとしたら「色々やって飽きた」「たぶんその辺の人たちよりはるかに経験してる」はTrueかもなぁ
19%
ラッセル
退屈とは、事件が起こることを望む気持ちがくじかれたもの
事件とは、今日を昨日から区別してくれるもの
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人は同じことの繰り返しには耐えられないということ
したがって退屈の反対は興奮
興奮できれば不幸であっても構わない
どうやれば快楽を求めることができるようになるか
熱意を持てばよい
仕事、趣味、さらには主義思想を信じること
ラッセルの問題点
不幸に憧れてしまうという構図ができうる
極論刺激がなくて若者が持て余してるならなら戦争すればええやん、とも言えてしまう
スヴェンゼン
退屈が人々の悩みごととなったのはロマン主義のせいだ
ロマン主義とは人生の充実を求めるもの、でも誰も答えなんて知らない
生の意味が共同体的なものから個人的なものになった
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どうやれば解決できる?
ロマン主義を捨てれば良いのだよ
積極的なラッセル、消極的なスヴェンゼン
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35%
暇と退屈
1 有閑階級。暇であることを許された階級。使用人に暇を代行させることで顕示する。顕示的閑暇 が、これが許される社会は不平等で許されない。事実変わっていった
2 ステータスシンボル。車とか妻とか家とか
3 暇の市民化。しかし労働階級は暇の潰し方がわからない
潰し方がわかる有閑階級は暇が退屈に結びつかない
わからない労働階級は結びつく
退屈に対処できない人達のために現れたのがレジャー産業
レジャー産業の役割とは、何をしたらよいかわからない人たちに「したいこと」を与えることだ
今では供給側が需要をつくってるのは周知の事実sta.icon
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疎外と本来性
疎外とは人間が本来の姿を喪失した非人間的状態のこと
疎外は「本来の姿」にあたる部分、本来性や本来的なものを思い起こさせる
本来的なものは大変危険なイメージである。なぜならそれは強制的だからである
そしてこれに適応しない人は「人あらざるもの」として排除されてしまう
だから哲学的に疎外は「本来的なものが付随してて危ない」とされてきた
が、筆者は「いや結びつけてるからやろ」「疎外自体は別に危なくないやろ」という
80%
おわり、あとは注と参考文献
退屈とは byハイデッガー
電車で待っているときの退屈はこれ。状況が自分の言うことを聞いてくれないから退屈する
1 ぐずつく時間によって引き止められている
2 ひきとめられている間はそれ(本来やろうとしていること、電車でいうと乗ること)ができない → 手持ち無沙汰
3 手持ち無沙汰(「むなしい状態」)に人は耐えられないから、時計見るなど紛らわせようとする
色々凝らされてるパーティーに参加してるときの退屈はこれ
気晴らしを探していたその場所そのものが気晴らしであるということ
場に合わせている、いわば付和雷同であり、自分が空虚になっているということ
ただし考え事を行う余裕がある
第一と第三にはない(奴隷状態)
「なんとなく退屈だ」
すべてが一律同然にどうでもよくなるという空虚
これから逃れたいから仕事の奴隷になったりする → で、第一になる
性質上、自分の可能性に目が向くので、いわゆる「自分探し」に陥りやすいsta.icon
決断の奴隷にもなりやすいsta.icon
これが俺の使命だ!我々の任務だ!とかいうやつ
筆者はこの状態を奴隷でしかないと言い切っている
羨むことなかれsta.icon
なぜ人は過激派や狂信者たちをうらやむのか? いまや私たちはこの問いに明確に答えることができる。過激派や狂信者たちは、「なんとなく退屈だ」の声から自由であるように見えるからだ。 彼らをおそろしいと同時にうらやましくも思えるとき、人はこの声に耐えきれなくなりつつあり、目をつぶり、耳をふさいで一つのミッションを遂行すること、すなわち奴隷になることを夢みているのだ。
奴隷に憧れてるようなもの
整理
人間は普段、第二形式がもたらす安定と均整のなかに生きている。しかし、何かが原因で「なんとなく退屈だ」の声が途方もなく大きく感じられるときがある。自分は何かに飛び込むべきなのではないかと苦しくなることがある。そのときに、人間は第三形式=第一形式に逃げ込む。自分の心や体、あるいは周囲の状況に対して故意に無関心となり、ただひたすら仕事・ミッションに打ち込む。それが好きだからやるというより、その仕事・ミッションの奴隷になることで安寧を得る。
第二がデフォルトだし、そもそも退屈に勝つために人類が開拓してきた文化でもある
でも苦しくなるときがあって逃げる → 第一や第三に行っちゃう
table:t
暇がある 暇がない
退屈している 第一形式 第二形式
退屈していない
快(フロイト)
生物としては快とは興奮量の減少であり、不快とは興奮量の増大である
性の快楽は安定状態への復帰
安定した状態にさっさと戻るために一気に興奮させて一気に覚ます
習慣により安定を手に入れる
が、安定すれば退屈する
本書が出してる結論
1: 「こうしなければ」「ああしなければ」と思い煩う必要はないということ
ただしこれは「今のままでいい」ということまでは言っていない
本来性にご用心sta.icon
2: 贅沢を取り戻す
消費ではなく浪費をするために、退屈の第二形式を存分に楽しむ
「人間であることを楽しむ」と表現されている
楽しむためにはいわゆる教養が要る
パーティーを楽しむための教養。ハイデッガーが楽しめなかったのも単にこれがなかった(訓練してなかった)から
3: とりさらわれるという現実を受け入れる
たまに自分の今の環世界を脅かす何かが不法侵入してくる
思考せざるをえなくなる
このときは「なんとなく退屈だ」は起こり得ない、それで頭がいっぱいになる
環世界どっぷりの動物と同じようなもの。とりさらわれているsta.icon
「動物になること」と表現されている
でも習慣によっていずれに適応してしまう、退屈も出てくる
退屈は2:の贅沢によって紛らわす、楽しむ
また何かが不法侵入してくる
……
これの繰り返し
で、このとき重要になるのが余裕と思考
第二形式には「余裕」がある
余裕があると「思考」ができる
自分はいったい何にとりさらわれるのか? 人は楽しみながらそれを学んでいく。
そして暇の王国へ
自分の退屈と向き合えるようになった人は、他者に向く
この状態に至ることすら許されていない人達
だが、世界にはそうした人間らしい生を生きることを許されていない人たちがたくさんいる。戦争、飢饉、貧困、災害──私たちの生きる世界は、人間らしい生を許さない出来事に満ち溢れている。
他人が、世界がこのような退屈を享受できるようにするためには何ができるかを考える