暇と退屈の倫理学
より豊かになると、人はやることがなくなって不幸になる。
ジョン・ガルブレイスのゆたかな社会:現代人は自分が何をしたいのかを自分でいしきすることができなくなってしまっている。自分が欲しいものがなにかを広告屋に教えてもらっている 経済学では、消費者主権ということが続いていた。需要が最初にあり、それを生産者が感知してモノを生産する。経済の基礎。
労働は労働しないことと同じように楽しいものだと信じ込ませようとしてきた。しかし失敗した、労働は不愉快であってもやらざるを得ないものだった。ところがそうではない人たちがでてきた。彼らにとっては何よりも他人から尊敬されることこそが、仕事における満足の重要な源泉になっている。そういう人をガルブレイスは新しい階級と呼ぶ。簡単にいうと、仕事こそ生きがいだと思っている人たち。
アドルノとホルクハイマーがかいた啓蒙の弁証法。文化産業が支配的な時代においては、消費者の感性そのものがあらかじめ制作プロダクションのうちに先取りされている。 カントによると、人間はあらかじめいくつかの概念をもっている。人間は世界をそのまま受け取っているのではなくて、あらかじめもっていた何かの型(概念)にあてはめてそれを理科しているというわけ。 焚き火は熱いという知覚を概念ともっているから、近づくと熱い。人間は世界を受け取るだけではない。それらを自分なりの型にあてはめて、主体的にまとめ上げる。そのような主体性が当然期待できるとおもった。 しかし、アドルノとホルクハイマーによれば、そうではなくなってしまった。人間によってではなく産業によって主体性があらかじめ準備されるようになった。産業は主体が何をどう受け取るのかを先取りし、あらかじめ受け取られ方の決められたものを主体に差し出している。
先進国の人たちは少なくとも資本主義の全面展開によって、裕福にはなった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。いまでは、むしろ労働者の暇が搾取されている。 暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いが生まれた>暇と退屈の倫理学 アーツ・アンド・クラフツ運動:友人たちと会社を興し、生活に根ざした芸術品を提供すること。暇な時間のなかで、自分の生活を芸術的に飾ることのできる社会。それがモリスが考えるゆたかな社会であり、余裕を得た社会にほかならなかった。 芸術が民衆の中にはいっていかなければならないと感じた。それが民衆の芸術だ。
人はパンのみに生きているのではあらずと言う。いや、パンも味わおうではないか。そして同時に、パンだけでなく、バラもももとめよう。人の生活はバラで飾られていなければならない。
アレンカ・ジュパンチッチ:近代は様々な価値観を交代させてきたが、生命ほど尊いものはない。以外を信じられなくなった。それでは人を奮い立たせられない。ひとをつきうごかせない、そのため国家や民族といった伝統的な価値観への回帰が魅力をもつようになってしまった。自分を突き動かしてくれる力を欲する。大義のために死ぬことを望む過激なものに、恐ろしくもうらやましくも思う。 生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在、そうした中に生きているときには人は打ち込む何かや没頭することを渇望する。
兎狩りにいくひとは兎がほしいわけではない。パスカル、おろかなる人間は、退屈に耐えられないから気晴らしを求めているにすぎないというのに、自分が追い求めるものの中に本当に幸福があると思いこんでいる。別にじゃあ兎をもらったら嬉しいのか?というそういうわけではない。
欲望の対象と欲望の原因がある。欲望の対象はウサギだけど、欲望の原因は気晴らしが欲しいということ。
パスカルは、気晴らしには熱中することが必要。熱中し、自分の目指しているものを手に入りさえすれば自分は幸福になれると思い込んで、自分を騙す必要がある しかしパスカル提案する解決方法は神への信仰
ラッセル:熱意をもって取り組める活動が得られれば幸福になれるということだ。幸福の秘訣は、あなたの興味をできる限り幅広くせよ。そしてあなたの興味をひく人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できるかぎり友好的なものにせよ スヴェンセン:退屈が人々の悩み事になったのは、ロマン主義のせいだというのが彼の答え。ロマン主義者は一般に人生の充実をもとめる。しかし、それが何を指しているのかはだれにも分からない。だから退屈してしまう。ロマン主義は普遍性より、個性・均質性より異質性を重んじる。「退屈と戦うだた一つ確かな方法は、おそらくロマン主義と決定的に決別し、実存のなかで個人の意味を見つけるのを諦めることだろう レジャー産業の役割とは、何をしてよいかわからない人たちに「したいこと」を与えることだ。レジャー産業は人々の要求や、欲望に応えるのではない。人々の欲望そのものを創り出す。
ボードリヤールは人が消費するとき、物を受け取ったり、物を吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費する。消費とは観念的な行為である。消費されるためには、物は記号にならなければならない。 余暇はいまや、「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。 ゲゼルシャフト:利益社会、契約的な関係におとづく社会。人為的に結合した合理的・機械的な社会。 ゲマインシャフト:共同者可愛、地縁・血縁などの感情を特徴とする自然発生的な共同体をしめす。 ハンナ・アーレント:人間の条件のなかで、マルクスの労働を批判。マルクスの労働は必要だというのに、労働者階級は労働から解放されなければんらないと書いているから矛盾している。労働と仕事を区別していないから。労働とは人間の肉帯によって消費されるものに係る営み。労働は忌み嫌うべきものだった。仕事は世界に存在し続けていくものの創造であり、たとえば芸術がその典型。 マルクスのいう自由の王国は、労働日の短縮によってもたらされる暇において考えられているからである。 ハイデッガーは、結局ある種の深い退屈が現在の深淵において物言わぬ霧のように去来している。何もいわぬ霧のように、いつの間にやら退屈が漂ってきて、私たちの周囲を覆い尽くしている。 なんとなく退屈だということは人間に自由を与えている。自由は可能性である。だから決断することが大事。退屈する人間には自由があるのだから、決断によって自由を発揮せよ
ハイデガーによれば、人間はある物をある物として経験することができる。太陽を太陽として経験できる。世界そのものと関係をもち、作り上げていける。世界形成的と呼ぶ。動物はあるものをあるものと経験することができない。トカゲにとっては岩は岩ではなく、ひなたぼっこするための台。これを世界貧乏的とよぶ(ひんぼう) ユクスキュル:理論生物学者。環世界とよぶ概念を思い至った。すべての生物が同じ時間と同じ空間で生きているわけではない。すべての生物がそのなかに置かれているような単一の世界など存在しなく、すべての生物は別々の時間と空間を生きている。ダニは3つのシグナルでしか生きていない。ダニはその世界しか理解できていない。 人間にとっての最小の時間の器は、1/18秒の連なり。映画で黒いところがあってもきづかない。
キルケゴールによれば決断の瞬間とは一つの狂気である。決断とは心地よい奴隷状態にほかならない。 人間は習慣を創造し、環世界を獲得していく。そうすることで周囲をシグナルの体系へと交換する。その環世界になにか不法侵入していくるとショックをもらい、考えはじめる。 贅沢を取り戻すこと、そのためには楽しむ訓練が必要。 人間は概ね気晴らしと退屈の混じり合いを生きている。
環世界に不法侵入されすろき、思考をしはじめて思考する時、人は思考の対象によってとりさらわれる。動物になることがおこりうる。 人は決断して奴隷状態に陥るなら、思考を強制するものを受け取れない。しかし退屈を時折感じつつも物を享受する生活の中では、そうしたものを受け取る余裕をもつ。楽しむことは思考することに繋がる。
ドゥルーズは思考は強制されるものだということをいったが、毎週美術館や映画にいくようにしていた。それは「私は待ち構えているのだ」と話した。自分がとりさらわれる瞬間を待ち構えている。動物になることが発生する。 人間であることを楽しむことで、動物になることを待ち構えることができる。
現代人は自分がなにがしたいのかわからなくなっている
打ち込むこと、没頭することに渇望している、大義のために死ぬことを渇望していた、アレンカジュンバッチ
退屈したら苦しみを願いだす。
楽しみ快楽を求めることができるようになるかが問題
休暇は労働のための準備期間となってしまっている
決断が退屈を贅沢にする