マルクス
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意識が生活を規定しているわけでなく、生活が意識を規定している
資本・資本主義とのことを考えるのに、マルクスは避けては通れないと思っている
エンクロージャーを間近でみてきたとき、多分コミュニティから資本によって社会が再編されていく時代を見ていたことが彼の思想に大きく影響を与えたのだと思う。 マルクスは下部構造(=物質的経済)は上部構造(=社会制度)を規定する、経済的構造が実存的土台を成す
「価値」のためにモノを作る資本主義のもとでは立場が逆転し、人間がモノに振り回され、支配されるようになる。この現象を、マルクスは「物象化」と呼びます
人間と人間の関係が物と物の関係のように扱われること
すべてが商品になっていく
あらゆるものを商品化していく。資本主義以前の社会にも商品はあったが、多くは交易品や贅沢品で、日常の生活に必要な物は基本的に自分たちで作ったり、みんなで集めてきたり、分け合いながら暮らしていた。 だれもがアクセスできるコモンだったはずの富が、資本によって独占され、貨幣を介した交換の対象としての商品となる しかし、地面に落ちた枝さえも地主が私有財産として、薪木が欲しかったら金を出して買えというような商品の論理の世界になってしまっている 労働とは端的にいうと生産活動です。資本主義社会における労働は、「商品」を生み出す。けれども、裏を返せば、資本主義以外の社会における労働が生み出す富は、必ずしも商品として現れるわけではない、ということ つまり社会の富が資本主義では商品になっていく
商品の生産の担い手は、労働力を提供するだけでなく商品の買い手となり資本家に市場を提供した
奴隷や身分制のような不自由から解放された私たちは、同時に生産手段からも「自由(フリー)」になってしまいました。〝生産手段フリー〟とは、 生きていくために必要なものを生産する手立てを持たない 資本主義は、共同体という「富」を解体し、人々を旧来の封建的な主従関係や共同体のしがらみから解放しました。共同体から「自由」になるということは、そこにあった相互扶助、助け合いの関係性からも〝フリー〟になる
どのように働くかを決めるのも、その労働が生み出す価値を手にするのも資本家。労働の現場には、自由で平等な関係は存在しない
人工的に希少手製を生み出す
資本は「お金」ではなく、工場や機械や商品のような「物」でもない。 マルクスは資本を〝運動〟と定義しているのです。 どんな運動かというと、 絶えず価値を増やしながら自己増殖していく運動
資本主義は、この 労働力という「富」を「商品」に閉じ込めてしまう。資本家にとって、買った商品を使うにあたり、労働者の生活の質や夢、やりがいに配慮することは関心事ではありません。彼らが執心しているのは、労働が生み出す価値の量。
資本主義の終わりなき運動は、世界中を商品化していきます。グローバル化の結果、一国内の「都市と農村の対立」は、国境を越えて拡大していきます。ところが、 資本主義は価値の増殖を「無限」に求めますが、地球は「有限」です。
価値と使用価値
金儲けの主軸となるのは、モノの「使用価値」ではなく、「価値」 です。G─W─ G' においては、価値が増大するとともに、その力を増していき、自立した「主体」になって、ますます人間を振り回すようになっていきます。
使用価値は、どれだけ役に立つのか。その人にどれだけ役に立つのかということ。価値は、商品を生産するのに必要な社会的に必要な労働時間によって測定される。なのでどれだけ時間をかけたかとなる。その価値が使用価値を支配しているのが資本主義経済。商品の生産と交換が人々の実際のニーズを満たすよりも、利益を生み出すことに重点を置かれるようになる
包摂と疎外
資本主義社会では、 労働者の自発的な責任感や向上心、主体性といったものが、資本の論理に「包摂」されていく 労働力を売るのは労働者の「自発」的行為ですが、労働は「強制」的なものです。強制的である労働を短縮・制限し、労働以外の自由時間を確保していくべきだとマルクスは『資本論』のなかで繰り返し主張
日々の豊かな暮らしという「富」を守るには、自分たちの労働力を「商品」にしない、あるいは自分が持っている労働力のうち「商品」として売る領域を制限
実際、生産力が上がれば上がるほど、労働者はラクになるどころか、資本に「包摂」されて自律性を失い資本の奴隷になる
労働者の「構想」と「実行」の分離なのです。つまり、資本にとって都合がいいように、労働の技術的条件そのものをどんどん再編することで、剰余価値生産に最適な生産様式を自らの手で確立 資本家が構築した分業システムに組み込まれるだけなので、「構想」する機会を奪われています。工場では、決められた部分作業を毎日繰り返しやらされるため、知識や洞察力が身につかない。つまり、「実行」の面でも、かつての職人のように豊かな経験を積んで、自分の能力を開花させることができない
分業というシステムに組み込まれることで、何かを作る「生産能力」さえも失っていく、とマルクスは 喝破 しています。何年働いても単純な作業しかできない労働者は、分業システムの中でしか働けない 構想を奪われた労働には、創造性や他人とのコミュニケーションの余地はどこにもありません。何より、きちんと働いているかどうかを機械によって監視されているのは、気味が悪い
構想と実行の分離を乗り越えて、労働における自律性を取り戻すこと。 過酷な労働から解放されるだけでなく、やりがいのある、豊かで魅力的な労働を実現する
ブルシット・ジョブ」(* 12)(クソどうでもいい仕事)が、広告業やコンサルタント業を中心に、近年急速に増えていると指摘しています。それは、生産力が高くなりすぎて、意味のない労働でも作り出さないと、週四〇時間労働を維持できない状態になってきていることの裏返し
マルクスは産業のオートメーション化に伴い、機械が単なる労働者の補助具としてではなく、むしろ労働者が機械の補助物になっていくという情況を描き出した。労働者が機械に命を吹き込むのではなく、機械が労働者に命を吹き込むという、主従の逆転。マルクスはこうした労働者が機械の器官の一部に組み込まれるという情況を資本主義下における疎外のプロセスとして批判 資本主義に代わる新たな社会において大切なのは、「アソシエート」した労働者が、人間と自然との物質代謝を合理的に、持続可能な形で制御すること だ、と。 アソシエートするとは、共通の目的のために自発的に結びつき、協同するという意味
将来社会は、コモンの再生に他なりません。いわば、コモン(common)に基づいた社会、つまり、コミュニズム(communism)です。わかりやすくいえば、 社会の「富」が「商品」として現れないように、みんなでシェアして、自治管理していく、平等で持続可能な定常型経済社会
商品化の力を弱めて、人々が参加できる民主主義の領域を経済の領域にも広げよう。それこそが、あらゆるものの「商品化」(commodification)から、あらゆるものの「コモン化」(commonification)への大転換に向けたコミュニズムの闘い
マルクスの出発点は、資本主義が 起こった と認めることだった。それを前提としたうえで、彼が発する根本的な問いとは次のようなものであった ―― われわれは、前資本主義的な社会形態、たとえば農業的封建制に立ち返ることなしに、いかにして資本主義の彼方へと向かうことができるのだろうか クリプトとマルクスに書きたいけど、この思想っていうのはCryptoにつながっている気がしている 商品は共同体の内部からは発生しない。
資本主義化の割合が高まっていくことは、共同体的世界の領域が狭まっていくということ。商品は交換から、しかも共同体の外での交換からのみうまれるのだあということ
デコトラみたいな労働者階級の自律的文化がなくなってきてる
農家が払えなくなり、土地を売り小作農に、そうして社会の生活手段と生産手段を資本に転化していく(エンクロージャー ジークムントの言葉を借りれば、安定していた時代が液状化し、人々が寄る辺なき、はじまりの労働者にどんどん戻されていく過程にほかならない
誰もがアクセスできるコモンだった富が資本によって独占され貨幣を通じた商品になる 価値のためにものをつくるのは、人間がモノに振り回される支配される。物象化がおきる
生活全体が包摂されているデジタルプロレタリアート
NHK 100分 de 名著 カール・マルクス 資本論 労働とは端的にいうと生産活動です。資本主義社会における労働は、「商品」を生み出す。けれども、裏を返せば、資本主義以外の社会における労働が生み出す富は、必ずしも商品として現れるわけではない
社会の「富」が、資本主義社会では次々と「商品」に姿を変えていく
ありとあらゆる物を「商品」にしようとするのが、資本主義の大きな特徴の一つです。もちろん、資本主義以前の社会にも商品はありました。しかし、その多くは交易品や贅沢品で、日常の生活に必要な物は基本的に自分たちで作ったり、みんなで集めてきたり、分け合いながら暮らしていました 地面に落ちた枝さえも地主が私有財産として囲い込み、「薪木が欲しかったら金を出して買え」と迫る。そんな「商品」の論理に支配された社会を痛烈に批判したマルクスは、当局に目をつけられ、やがてパリに亡命
かつては 誰もがアクセスできるコモン(みんなの共有財産)だった「富」が、資本によって独占され、貨幣を介した交換の対象、「商品」にする 奴隷や身分制のような不自由から解放された私たちは、同時に生産手段からも「自由(フリー)」になってしまいました。〝生産手段フリー〟とは、 生きていくために必要なものを生産する手立てを持たないということ。生きていくには、どうにかしてお金を手に入れなければならない。そのためには、何かを売る必要がある。けれども、普通の人が生活のために売ることができるのは、唯一、自分自身の労働力だけ
資本主義社会では、 労働者の自発的な責任感や向上心、主体性といったものが、資本の論理に「包摂」されている 労働力を売るのは労働者の「自発」的行為ですが、労働は「強制」的なものです。強制的である労働を短縮・制限し、労働以外の自由時間を確保していくべきだとマルクスは『資本論』のなかで繰り返し
労働者の「構想」と「実行」の分離なのです。つまり、資本にとって都合がいいように、労働の技術的条件そのものをどんどん再編することで、剰余価値生産に最適な生産様式を自らの手で確立していった 資本家が構築した分業システムに組み込まれるだけなので、「構想」する機会を奪われています。工場では、決められた部分作業を毎日繰り返しやらされるため、知識や洞察力が身につかない。
構想を奪われた労働には、創造性や他人とのコミュニケーションの余地はどこにもありません。何より、きちんと働いているかどうかを機械によって監視されている
ブルシット・ジョブ(* 12)(クソどうでもいい仕事)が、広告業やコンサルタント業を中心に、近年急速に増えていると指摘しています。それは、生産力が高くなりすぎて、意味のない労働でも作り出さないと、週四〇時間労働を維持できない状態になってきていることの裏返し 無益で高給なブルシット・ジョブがはびこる一方で、社会にとって大切なエッセンシャル・ワーカーが、劣悪な労働環境を強いられている。これが、資本主義が 爛熟 した現代社会 資本主義に代わる新たな社会において大切なのは、「アソシエート」した労働者が、人間と自然との物質代謝を合理的に、持続可能な形で制御すること だ、と。 アソシエートするとは、共通の目的のために自発的に結びつき、協同するという意味。実は、マルクス自身は「社会主義」や「共産主義」といった表現は、ほとんど使っていません。来たるべき社会のあり方を語るときに、彼が繰り返し使っていたのは、「アソシエーション」(自発的な結社) 将来社会は、コモンの再生に他なりません。いわば、コモン(common)に基づいた社会、つまり、コミュニズム(communism)です。わかりやすくいえば、 社会の「富」が「商品」として現れないように、みんなでシェアして、自治管理していく、平等で持続可能な定常型経済 コミュニズムは贈与の世界といってもいいでしょう。 対価を求めない「贈与」 ミュニシパリズム Municipalism(英語)。もとは地方自治体を意味する municipality。政治参加を選挙による間接民主主義に限定せずに、地域に根づいた自治的な民主主義や合意形成を重視する政治・社会運動。また国家主義・権威主義を振りかざして人権・公共財・民主主義を脅かそうとする国家(政府)に対して、地域において住民が直接参加して合理的な未来を検討する実践を通じて、自由や市民権を公的空間に拡大しようとする