武器としての資本論
**資本主義化の割合が高まっていくことは、共同体的世界の領域が狭まっていく**ということ。商品は交換から、しかも共同体の外での交換からのみうまれるのだあということ フォーディズムもトヨティズムも相対的余剰価値の生産への労働者階級の形式的包摂は実質的包摂に近づくのでは 金を使うという匿名性が消える行為が、キャッシュレスによって崩される
労働過程をまるごと資本が形づくってしまった状態を実質的包摂
余剰価値の生産には、生産性を不断に高め続けなければならない
テクノロジーの進歩による個の喪失。感性が資本によって包摂される
新自由主義、持たざる者から、持つ者への逆の再分配
デコトラみたいな労働者階級の自律的文化がなくなってきてる
教育の商品化したことにより、学生が消費者化した
価値は交換可能性、それは社会的属性によって規定される
労働が形成する価値が、労働力の価値を上回る
剰余価値が生産できないと資本主義としては終わり、労働者の時間をきったりしてそれを産もうとしている
農家が払えなくなり、土地を売り小作農に、そうして社会の生活手段と生産手段を資本に転化していく
ジークムントの言葉を借りれば、安定していた時代が液状化し、人々が寄る辺なき、はじまりの労働者にどんどん戻されていく過程にほかならない