マルクス・ガブリエル
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すべての人間が裸眼でなく緑色の眼鏡をかけているとしたら、人間は、こうして自身の見ている対象それ自体が緑色であると判断するしかないでしょうし、自身の眼が事物を存在しているとうりに姿で見せてくれているのか、それとも、事物それ自体ではなく自身の眼に由来するものを当の事物に付け加えてはいないか、いったいどちらなのかを決められなくなることでしょう。知性についても同じことです。わたしたちは、真理と呼んでいるものが本当に真理なのか、それともわたしたちにそう見えているにすぎないのか、どちらなのかを決めることができません。 構築主義は、カントの「緑色の眼鏡」を信じているわけです。これに加えてポストモダンは、わたしたちがかけている眼鏡はひとつにとどまらず、とても数多くあるのだとしました。」 「世界を有意味に定義しようとすれば、すべてを包摂する領域、すべての領域の領域とするほかありません。こうして世界とは、わたしたちなしでも存在するすべての事物・事実だけでなく、わたしたちなしには存在しないいっさいの事物・事実もそのなかに現に存在している領域である、ということになります。世界とは、何といってもすべてを ーこの人生、この宇宙、そのほかすべてをー 包摂する領域であるはずだからです。
ところが、まさにこのすべてを包摂する領域、つまり世界は存在しませんし、そもそも存在することがありえません。この主要テーゼによって、人類が頑なにしがみついている「世界は存在する」という幻想が打ち壊されるだけではありません。」
「世界は存在しないとういう主張は、このような意味でこそ理解していただかなければなりません。いっさいのものがほかのすべてと関連しているというのは、たんに間違いです。ブラジルの蝶の羽ばたきが何らかの経路でテキサスの竜巻を惹き起こすのだという、よく知られた主張は端的に間違っています。たしかに多くのものは互いに関連していますが、いっさいのものがほかのすべてと関連しているというのは間違っています。」
「じっさい美術館では、受動的な観察者のままでは何も理解できません。訳のわからない、無意味にすら見える芸術作品を解釈することに努めなければなりません。何の解釈もしなければ、塗りたくられた絵の具が見えるにすぎません。それはポロックだけでなく、ミケランジェロでも同じことです。芸術の意味の場がわたしたちに示してくれるのは、さまざまな意味のなかには、わたしたちが能動的に取り組まなければ存在しないものもある、ということなのです。
芸術の意味は、わたしたちを意味に直面させることにあります。」
「じっさい、わたしたちは対象を見るのであって、わたしたちが見ているということを見るのではありません。ところが造形芸術では、わたしたちの行っている「見る」ことの習慣それ自体、つまり対象にたいするわたしたちの見方それ自体が可視化されます。同じことが音楽にも当てはまります。音楽は、注意深く聴くことを教えてくれます。日常生活の場合と違って、わたしたちは、たんに音そのものを聴くだけでなく、音を聴きながら、聴くことそれ自体について何ごとかを経験するわけです。」