死にたい」という言動は、「生きたい」を前提とする社会的な規範には馴染まず、叱責の対象にすらなってしまうくらいである。近代国家の権力は人々から単純に自由を奪うものではなく、むしろ人々の生に積極的に介入し、個人の自由そのものを管理し方向づけることで社会全体の秩序を形成するような、より巧妙なものに変わっている。フーコーの観点からいえば、世の中の人々が主体として「生きる」ように管理されるのが近代社
死にたいという言葉は、その固有の特徴から死にたいものの親密性を狂わせてしまう
思弁的実在論。ベンジャミンノイズが否定的に命名したもの
ニック・ランドにとっての導きの糸になっていたのはドゥールズガタリのアンチオイディップス
欲望に規制をかけ、動きを減速させることではなく、むしろニーチェ言うように、過程を加速すること。
SF作家ロジャーゼラズィの光の玉で、革命的変革を求めるグループが神々が独占していたテクノロジーを開放することで社会をより高いレベルへ進めようとする。この集団を加速主義者とよんだ
岩内章太郎
動物化
宮台真司は終わらない日常に適応できるか
ハルマゲドン
終わらない日常をどう生きるのか
ポストモダン・ポストモダニズム
何がほしいかわからない
欲望とはなにか
欲望とは、 畢竟するに他者の欲望
欲望の見つけ方
言語論的転回 哲学の諸問題は言語を改革することによって、あるいはわれわれが現在使っている言語をより一層理解することによって解決しうるという見解
その前までは認識論的転回、主観客観における意識を分析してた
リオタールのポストモダン 大きな物語に対する不信 万人が信じる真理はない。言語ゲーム、他とは違う小さな物語を着想し多様な方向へ分散化差異化することがポストモダンの流儀
ポストモダンと結びついた言語論的な転回には、言語によって世界が構築される。また異なる言語ゲームは共約不可能である
加速主義などのブログで書いたように、今後どういう未来を創っていきたいかみたいなことを考えてみたい
大きな物語の終焉ということがポストモダンのところででたが、その小さな物語が乱立していった結果世界の進捗度が遅くなっている?可能性がある
AGIの構築という大きな物語がでてきている
時代が大きな物語を求めているように思える > ただこれは戦争にもつながる可能性もある
シンギュラリティを求めていく シンギュラリティ大学:飛躍する方法
複雑なことを単純化しないで考えられる
20世紀の思想は排除される余計なものをクリエイティブとして肯定した。
秩序を作る思想と秩序から逃れる思想、どちらも必要
有機的なノイズがないと思考が硬直化してしまう
ポストモダン、大きな物語の終焉
ものとものを繋ぐ媒体を意味するメディウムは、作家の頭の中にある思考やアイデアを目に見える形で表現する素材や方法。インスタレーションは設置を表す英単語が転じて、オブジェを配した空間そのものを作品として提示する芸術
リレーショナルアート:公共空間での人々との関わりを志向する社会的芸術実践(関係性の美学)
ダダは何も意味しない、ダダ宣言:破壊と否定の大仕事をなしとげる、強烈さと無意味の結合による破壊と否定の提案。ダダにとっては偶然性の概念が重要だった。偶然性が芸術表現に付随する一切の意味を排除する
ポストモダン的な思考
フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールがポストモダンの条件で言及
モダンは大きな物語があったが、それが終わってしまった・終焉を迎えたのがポストモダン
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
ニック・ランドランドは、フランス現代思想と当時のサイバーカルチャーとを交差させながら、社会とテクノロジーの対立自体を無効化した。言い換えれば、この対立を曖昧にし、「社会的諸関係」の問題を不問にすることで、ランドは資本主義とテクノロジーを同一視した
ニックランドと新反動主義
https://julesevans.medium.com/accelerationism-amphetamine-philosophy-and-the-death-trip-bb67ff079f8
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
自動化の導入によって、「労働者は低下する賃金と増大する貧困化に直面する」( 17) という事態も引き起こしてしまうだろう。 しかし、にもかかわらず、スルニチェク/ウィリアムズウィリアムズは自動化の波をゆるめよとは主張しない。むしろ彼らは、「完全なる自動化は、それがすでに進められているかどうかにかかわらず、達成されうるものであるし、達成すべきものである」( 18) と主張する。
カテドラルとも呼ばれるもの
ポリティカル・コレクトネスのもとに、メディアをもとに構築したもの
ニック・ランドいわく、メディアと学の複合体
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
モールドバグが 大聖堂 と呼んだ、現代のメディアとアカデミズムの複合体によって行われているマインド・コントロールであり、思考の抑圧である。だが物事が押し潰される場合でも、押し潰されたものが完全に消えてなくなるわけではない。そうではなくそれは、場所を移され、その身を隠すための 陰 の中に避難して、そして時により、怪物へと姿を変えることもある。 大聖堂 の抑圧的な教義が、様々な形で、また様々な意
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
加速主義派政治宣言」などで主張するように、この人物像は「抽象化・複雑性・グローバル性・技術からなる近代性にしがらみなく向き合う」、加速主義政治の構成員像と重なるものだろう。彼らの加速主義において、旧来の左派政治の主体となるような「ローカリズム・直接行動・ひたむきな水平主義」は、このような人物像が先導する加速主義の達成を阻害する素朴政治(フォーク・ポリティクス) 的であるとして批判の対象
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
新反動主義運動が、自由の称揚のもとに「啓蒙」を嫌悪し、民主主義社会からの脱却を志向するのは、彼らの次の理解による。西洋社会は、本来であれば個人の自由を大幅に制限するはずの民主主義や平等といった啓蒙主義的な概念を受け入れてきたことによって、自らの弱体化に寄与してしまった。その結果が、九・一一以降後を絶たない西洋にたいする攻撃の多発であり、弱体化のトラウマを経た西洋社会では今、「[啓蒙の後に
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
団結することがオルタナティブに対するオルタナティヴである以上、これまで以上に完璧な団結に対するオルタナティヴなど存在しない。かつてオルタナティヴなものが見い出された地点を探索し、自由が未だ出口を意味した地点を、そして弁証法を空間の中で解消する地点を探索した末に、保守主義が今やようやく辿り着いたのは、 大聖堂 の影として、あるいはそのなくてはならないパートナーとして作り出された、 おぞまし
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
文明進化の極限的な収束点は実は複数的であり歴史は「多元的な終焉」を迎えるのだろうか? 文明の変革を予測することは勿論容易ではなく、仮に容易であればそれはそもそも変革ではないだろう。
ユニバーサルベーシックインカムの構想
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
UBIは、労働と資本との間に存在する権力の非対称性を、転覆する可能性をもたらしてくれるものだという。「プロレタリアートは、生産手段および生活手段から自分たちが切り離されているということに規定されている。それゆえ、プロレタリアートは自分自身を労働市場において売りに出すことを余儀なくされ、それによって生存するのに必要な収入を得ている」( 43) という現状に対し、UBIの導入は、「仕事に頼る
主体的真理、あれかこれかと主体的に選ぶことが大事。実存の三段階,1美的実存(感覚的に生きる)2,倫理的実存(正義を自己表現)3、宗教的実存(神の前で単独者)
キルケゴール:絶望して自己自身であろうと欲する絶望=この世のすべてのことに絶望していながら、宗教に救いを求めない段階
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
キルケゴールが言うように、 破滅が避けられない ということは、可能性を信じる者もよく理解している。「人間的には自分の破滅がすぐそこにあることを理解しながら、 それでも 可能性を信じること、これこそが信じることである」( 23)。死に至る病としての消尽において、もはや避けられなくなった破滅に対して、「それでも」という逆接によって、消尽しないものを、死の向こう側を、希求すること。そうすること
差異の哲学ではなかったけ?
ドゥールズ:世界は差異でできている。世界は時間的であって、すべては運動のただなかにある
器官なき身体
ドゥルーズ&ガタリドゥルーズ=ガタリにおける器官なき身体とは、その上にあらゆる生の力場が形成される強度゠ゼロであり、その意味において死のモデルなのだ。器官なき身体を志向することは、生の果てなき脱領土化、あるいは脱コード化を推し進めることを意味する。生から制約や抑圧を取り払い(脱コード化)、別の生(別の性、別の人種、等々) に成ること、それは別の側面から言えば、生成変化のたびに
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
ランドによれば、近代性を特徴づけるのは、「生産」と「批判」であるという。ここで言う生産は資本主義におけるそれ、批判はカント的な意味におけるそれであるが、ランドは後者について、その「超越論的な動力」を強調している。両者に共通するのは、それらが 本質的に停止することができない という点
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
既存の制度や伝統などを解体していく資本主義の脱コード化の運動を、ランドは留保なしに徹底し、加速させることで、現在の世界を生きる私たちにとってはまったくの未知であるような未来を招来しようとするのである。このようなランドの思想は、資本主義下の現代の生の閉塞を打開してくれるかもしれないもの
資本の超克を求める代わりに、資本がつねに妨害してきた能力、別の言い方をすれば、生産すること・ケアすること・享楽することの集合的能力に焦点を合わせなければならない」
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
資本主義の生産様式から生じる、三つのありうべき結果を予測する。 [1]資本の完全なる自律化 ―― すなわち機械的ユートピアという結果であり、そこで人間は引きつづき遂行的な役割を与えられると同時に、自動化されたシステムのたんなる装飾品となる。 [2]人間の変異、あるいは種の変容 ―― すなわち完璧にプログラム化可能な存在者の生産という結果であり、そこではホモ・サピエンスという種の特徴のす
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
ニック・ランドの軌跡を追いながら、新自由主義が ―― 新反動主義を介して ―― 新封建主義へと再編されていく未来を察知するとともに、もう一方でマーク・フィッシャーの軌跡を追いながら、新自由主義によって鎮圧されてきた潜勢力が ―― アシッド共産主義を介して ―― 現勢化されていく未来を触知
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
啓蒙という歴史的プロセスがもつ不可逆性である。ひとたびそれがはじまると、啓蒙はその前後を、つまり進歩(゠啓蒙゠左派)と保守(゠反動゠右派)というふたつの立場を生みだす。だが理性の光がもつ「自明」な正しさによって、保守の立場はあらかじめ不利な、というよりもそもそも「矛盾した」状況に置かれることになる。近代的な二項対立にあって保守の立場は、「基本的にFワードが意味するもの」でしかないのだとランド
民族未来主義
https://ideasforgood.jp/glossary/ethno-futurism/
エスノ・フューチャリズム(Ethno-Futurism)とは、土着的・先史的を意味する「エスノ」と、先進的な未来主義を意味する「フューチャリズム」を掛け合わせた言葉。文化史における過渡期に、グローバル化を背景として、人々が自らの文化的なルーツに取り組む過程であると考えられている。
具体的には、1990年代に崩壊したソビエト社会主義共和国連邦(旧ソ連)で起きた、国際的な芸術運動がその代表だ。日本語では、「民族未来主義」とも呼ばれる。以降、エスノ・フューチャリズムのことを民族未来主義と述べることとする。