https://youtu.be/k8iQP2hicm4
導入
東北大学SF研究会バーチャル会員の卜部理玲です。
第2回目となります今回は、アメリカのSF作家ケン・リュウの作品と仕事を通じて、現在最も注目されているSFと、SFそのものの楽しみ方についてお話していきます。 まずはケン・リュウ本人について、簡単に説明させていただきます。
ケン・リュウは1976年中国蘭州生まれの中国系アメリカ人のSF作家です。11歳の時、両親とともに渡米し、以降アメリカに在住しています。
ハーバード大学を経て同大学のロースクールで学び、コンピュータープログラマーや弁護士として働いていました。
東洋的な趣のある作品を得意とし、また抒情的な短篇を多く執筆しています。現代SFにおいて作家として最高の評価を受けていますが、中英翻訳家としても非常に高く評価されており、今もっとも注目されるSF作家と言えます。
そう、今もっとも注目されるSF作家が、このケン・リュウなのです。ケン・リュウの作品からSFに触れる人は非常に幸運だと言えるでしょう。
どうですか? 気になってきませんか?
ということで、ケン・リュウの作品と仕事について、紹介とその解説を行っていきます。
小説家としてのケン・リュウ
まずは、小説家としてのケン・リュウの作品をご紹介します。
「紙の動物園」は、ピース又吉直樹さんが推薦なさっていた作品なので、知っている方もいるのではないでしょうか。この作品は、初めて三大SF文学賞(ヒューゴー賞、ネビュラ賞、世界幻想文学大賞)の三冠(トリプルクラウン)を達成した作品としてSFファンの間でも大変話題になった作品です。 内容の紹介に移ります。
この作品は、先ほど示した通り、世界初のトリプルクラウンを達成した作品であり、星雲賞も受賞した作品です。
主人公はアメリカ人の父と中国人の母をもつ、米中ハーフの男の子。母が折り、命を吹き込んだ折り紙は、魔法のように生き生きと動き出します。この折り紙だけが、“ぼく”の友達でした。でも、周囲から中国人であるということを理由とした差別を経験し、“ぼく”は母に攻撃的になっていきました。父にカタログで購入された母は、アメリカという異国では“ぼく”しか心を通わせる人がいないのに......。
ケン・リュウの作品には、親しい家族の間の感情のすれ違いや、異なる文化同士の摩擦や偏見から生じる問題をテーマとした作品が多く存在します。この「紙の動物園」は、これらのテーマが非常に高いところで結びついた作品です。 また、この作品は、非常に苦しい思いになる作品です。アメリカにおける中国人移民への差別を背景とし、差別やそれによる心情の変化を、ケン・リュウは自身の得意とする抒情的な語りや卓越した小説の技量によって、さらに深く描き出していきます。幼いころ、家族と折り紙で遊んだ記憶はありませんか。これは日本人ならば誰もが経験したであろう出来事であろうと思います。そのような読者のひとりとして、私は「折り紙」をはじめ同じ文化を共有する中国人へ向けられるこの差別が、他人事とは思えないのです。
ケン・リュウは、読者に苦しい思いをさせますが、それだけでは終わらせません。ケン・リュウの作品に頻出するテーマとして、未来への希望があります。この差別、感情のすれ違いを経て、それでもまだケン・リュウは未来への希望を描き続けます。この「紙の動物園」は、ケン・リュウの抒情性、東洋性、そして類まれなる小説家としての技巧を味わうことの出来る作品です。 この作品も、星雲賞を受賞しています。
この作品は妖怪退治師を父にもつ少年と、その妖怪退治師に母狐を殺された妖狐の交流を描いた作品です。清の末期、中華帝国の力が衰え、大英帝国の支配が強まったころの物語です。
この作品がSFとしてすぐれている点として、私は伝統と革新の対立、そしてその双方をもって未来を切り開いていこうとする、人間の普遍的で理想的な姿勢を描いているという点を挙げます。SFは、英米系の作家の作品が主流であるということもあり、どうしても西洋的な価値観、文化を脱しきれないという傾向があります。そのような従来のSFとは異なり、「良い狩りを」は東洋的な文化を背景としつつも、東洋にも西洋にも依らない、人間のあるべき普遍的な理想像を示します。 そして注目したいのが、訳者古沢嘉通さんも好きだと語っている“転調”のシーン。これ、本当、これがあるからいいんですよね。これに関しては、実際に読んでケン・リュウの腕前というものを味わっていただきたいので、あまり話さないでおきますね。 この作品は、小惑星の衝突によって滅亡を迎える地球から脱出した宇宙船に発生した問題をめぐる、ある決断を描いた作品です。
あまり話し過ぎてしまうと、読む楽しみというものを損なってしまうのでここでは言及しません。この作品で面白いと思ったのは、SFにおける古典的な問題に対して、従来の作品とは異なる解法で同じ解に到達していったことでした。この作品が面白いと思った方には、その古典的な問題を扱ったSF、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの「たったひとつの冴えたやりかた」とトム・ゴドウィンの「冷たい方程式」も続けて読んでいただいて、それぞれの作家の姿勢の違いというものを楽しんでいただけたらな、と思います。 この2作は、「紙の動物園」と同じく、家族の間の感情のすれ違いを描いた作品です。繰り返しになってしまいますが、ケン・リュウは、すれ違う様を描きつつも、それでも未来への希望を忘れない作家なので、読んでいる間にどれだけ苦しくても、最後にはそれが少しでも救われる方向へと繋がっていく、というのが本当に読んでいて嬉しいというか、ケン・リュウという人のあたたかさを感じることが出来て好きですね。どれだけ辛いことがあっても、それでも未来へと繋がっていく。未来を考えるその姿勢は、SFそのものの姿勢と言えるでしょう。 私が両作で好きなのが、最後のひとことが本当に反則というか、いいひとことをもってくるというところですね。これこそ、ケン・リュウの卓越した抒情性の際たるものであり、小説家としての技巧の証明であると思います。ぜひ読んでみていただきたいです。
「烏蘇里羆」は、大日本帝国陸軍の命により、機械馬を駆って満州の巨大羆を捕獲しにいく冒険譚です。 この作品は、なんといってもネオヴィクトリアン(スチームパンク)的な雰囲気と、日本・中国の東洋的な雰囲気が結び付いた不思議な趣が持ち味。知っているようで知らない、身近なものがSFになるという不思議な体験を出来るのではないかと思います。 私がこの作品を読んでいるとき、漫画『ゴールデンカムイ』を思い浮かべていたのですが、やはりみなさん同じような感想をもつようで。『ゴールデンカムイ』の雰囲気が好きな方なら、この作品も楽しめるのではないかと思います。
「化学調味料ゴーレム」は、これまでのケン・リュウの作品と比べて、すこし毛色の違う、コメディ風味の作品になっています。 ケン・リュウの得意とするものは、やはり抒情性であるということはこれまで繰り返し強調してきたことですが、そのような、抒情性を得意とする人ならば、喜劇的な作品もばっちり仕上げてしまえるのは当然とも言えるでしょう。
この作品は、すこし頼りない神様と、その神様を振り回していく少女のお話。これまでの差別を扱った作品や、中国の文化を背景とした作品が苦手だ、という方でも楽しめる作品です。
次は「介護士」。この作品は、介護問題に遠隔医療技術を絡めた、悪くいってしまえば最近のSFではありがちな作品です。 なぜそんな作品に言及するのか、それは、この作品がケン・リュウのある特徴を象徴する作品であるからです。この作品は、『母の記憶に』収録の「存在」という作品と同じテーマを扱っており、いわば変奏に当たる作品になっています。ケン・リュウの作品には、以前作品で扱ったテーマを再度取り上げ、違う側面からアプローチしていくという作品が存在します。違う作者同士で同じテーマの作品を読み比べて楽しむ、という楽しみ方がSFには存在しますが、ケン・リュウはケン・リュウ自身の作品同士で比較して楽しむということできるのです。読んでいくうちに、どんどん読むのが楽しくなっていく。ケン・リュウはそういう点でも優れた作家なのです。 “絵文字三部作”は言語SFにシンギュラリティ、AIを絡めた作品。この作品でも、やはりケン・リュウの未来を信じる姿勢は一貫しており、刻々と変化する状況の中でも希望を捨てない人たちの姿を生き生きと描き出します。 私がこの作品を読んだ時、急に絵文字が登場したのでだいぶ面食らったのですが、よく考えてみれば、絵文字も漢字と同じ表意文字なんですよね。これまでケン・リュウが漢字を題材とした言語SFをよくものしていたことを考えれば、漢字からの延長線上に確かに絵文字があることに気づきます。変化球に見えて、実にケン・リュウらしい作品なんです。
次に紹介するのが、私がケン・リュウの作品で一番好きな作品、「天球の音楽」です。 身体にある装置を埋め込むことで、知覚や認識能力を拡張することが出来るようになった未来。しかしながら、数学者を目指す主人公は、その装置を脳に設置出来ない体質でした......。
私が専門としている学問は、圧倒的な才能がものを言う世界です。はじめはまったく理解出来ず、私が必死に勉強してやっと理解の糸口をみつけたと思った概念を、自明だと言って苦もなく理解し、使いこなし、先へと進んでいってしまう人たちと真正面から闘わなければならない世界です。そういう世界にあって、この作品は、そっと背中を押してくれる......。そんな、私にとって大切な作品です。私について、少し話し過ぎてしまいました。次に行きましょう。
この作品は、ゲームSFアンソロジー『スタートボタンを押してください』(創元SF文庫)の最後に収録された作品です。
私はゲームもSFも大好きなので、このアンソロジーを一作一作楽しく読み進めていきました。どの作品も、ゲーム好きなSF作家が書くだけあって、ゲームの楽しさをSFに取りこんだ面白い作品ばかりでした。そして最後に配置されたケン・リュウは、どんなゲームを題材とするのだろう、ケン・リュウはどんなゲームが好きなんだろう。そんな事を考えながら「時計仕掛けの兵隊」を読んだのでした。 別格でした。明らかにひとりだけ、ケン・リュウだけが、小説として別格の出来だったのです。ケン・リュウが扱ったのは、テキスト形式のアドベンチャーゲーム。しかも、ただ単にテキストアドベンチャーを導入するだけでなく、物語自体がテキストアドベンチャーによって語られなければならない構造になっており、しかもそれが小説というメディアを補強しているという、小説とゲームという表現を知り尽くしたうえでの超絶技巧による作品になっていたのでした。
ケン・リュウは、テキストアドベンチャーを小説に導入することで、読者に物語中の選択肢を選ばせる形で疑似的にゲームを体験させ、読者が自然にゲーム内の真実に到達する仕掛けを小説内に作っていたのです。小説の語りを妨げるどころか、むしろ選択肢の存在によって読者の思考の流れを限定し、読者を一定の方向に誘導したのでした。その読者が誘導されていった先は、そう、ケン・リュウの得意とする抒情的なラストシーンです。
小説を一回読み終えても、ケン・リュウの巧妙なる呪縛は続きます。読者は、すべてを知った上で、この物語をもう一度読み直してみたくなってしまうのです。そう、ゲームで言うところの“周回プレイ”です。
小説でゲームを再現して見せただけでなく、ゲームの特性をもって自身の小説の長所を最大化し、そして読者を周回プレイへと誘導してしまう。私は、この作品こそ小説家ケン・リュウの上手さというものを最もよく表した最高傑作であると思っています。
翻訳家としてのケン・リュウ
さて、前節までで、小説家としてのケン・リュウについてお話をしてきました。しかしながら、ケン・リュウは小説家としてだけでなく、中国のSF小説をアメリカに紹介する、中英翻訳家としても非常に高い評価を受けています。日本でも、ケン・リュウの翻訳を通じて中国SFが輸入され、中国SFへの注目が非常に高まっています。
現状日本で手に入る翻訳家ケン・リュウの作品集が、現代中国SFアンソロジー『折りたたみ北京』です。
この『折りたたみ北京』収録作の中で、私が特に自信をもっておすすめするのが、劉慈欣の「円」という短篇です。 物語の舞台は、古代中国、春秋戦国の時代。主人公は実際の歴史では秦の始皇帝として知られる秦王政です。大小さまざまな国の王たちが中華統一の野望を果たすために争った戦国時代において、秦王は天の理を知ることによって力を得、中華統一を成し遂げようとしました。秦王は荊軻の進言に基づき、兵士の両手に旗を持たせ、旗の上げ下げを信号とする人力論理ゲートとしました。続けて荊軻はそれらを組み合わせて人力論理回路を構築していき、最終的に秦の全兵力、三百万もの兵士を投入して巨大な人力論理回路を作り上げ、その演算をもって天の理である円周率の算出を実行するのですが......。
この作品の魅力としては、やはり古代中国の歴史を題材としたことによる大河的なロマン、天の理を知ることで永遠の命を得ようという仙術的な発想からあふれる中国らしい雰囲気などが挙げられますが、私が真に魅力的だと考えているのは、この作品が真に普遍的なアイデアに基づいたSFであり、かつ本質的な中国らしさが表れたSFであるということです。
まず、「真に普遍的なアイデア」というのは、人力で論理回路を構築するというアイデアのことです。古代中国で人力論理回路を作るという行為は、確かに実現可能なアイデアであり、誰かが当時思いついていれば、技術的には達成出来た発明です。実際の歴史に実現可能な科学技術を導入する、というアイデアは非常に普遍的であり、どうしても未来に目を向けがちなSFに対して、新たな視座を与えてくれる作品なのです。
次に、「本質的な中国らしさ」です。私がこの作品の中で一番中国らしいな、と思ったのが、古代中国における論理回路の構築を、人海戦術で成し遂げてしまう、という解決策でした。この人海戦術というアイデアも、単体としては普遍的ですが、投入する人数のオーダー(桁数)がおかしいというのが実に中国らしいなあと思います。『史記』や『三国志』に見られるような桁外れの人海戦術という要素が、こんなにも自然にSFに導入され、こんなにも中国らしく振る舞うものなのかと、大変驚きました。西洋の作品にありがちな、アジアンビューティーが登場したり、表面的なオリエンタリズムにあふれたりしているような作品ではないのに、どこを切り取っても確かに中国的で、どこを切り取っても確かに普遍的なSFがこの「円」なのです。 そしてさらに素晴らしいのが、この「円」が、「三体」という長篇を構成する章のひとつに過ぎないということです。これだけ優れた物語を取りこんだ、より大きな物語は、一体どれほどのものなのか、予想がつきません。この「三体」は2019年の7月に翻訳刊行される予定なので、発売が本当に待ち遠しいです。 さて、その「円」「三体」の作者である劉慈欣についての話に移ります。 劉慈欣は中国で最も人気のあるSF作家のひとりであり、韓松、王晋康、何夕とともに“科幻四天王”と呼ばれています。長篇「三体」をはじめとする三体三部作、「球状閃電」ほか、短篇も多く執筆しています。中国で大人気のSF映画『流転の地球』の原作短篇「さまよえる地球」も劉慈欣の作品です。 劉慈欣の魅力は、科学技術を身につけた理知的なひとびとが、その知識と知恵を用いて希望ある未来を切り開こうとする姿勢にあります。例えるなら、小松左京や小川一水、藤井太洋、アーサー・C・クラークやケン・リュウの姿勢に近い、という感じでしょうか。中国で劉慈欣が支持されているのは、この姿勢が現在の中国のさまざまな方針、また中国のひとたちの関心に非常によく合致しているからではないかと思います。中国SFには、少し中国色が強すぎて理解しにくい作品もあるのですが、劉慈欣はいい意味で中国らしくない視点をも併せ持つ作家なので、そのような大局的な、人類全体を見渡すような視点の作品を楽しめるということも魅力のひとつです。 しかしながら、劉慈欣の作品には三体シリーズと密接な関係にあったり、また他の作品の前日譚・後日譚として相互に関連しあう作品があったりと、網羅的に読まなければならない作品が多いため、なかなか面白さが伝わりにくい作家であると思います。私が好きな作家、そして中国のSFファンのみなさんが大好きな作家なので、「三体」の翻訳をきっかけに、日本でもその作品のすべてが読めるようになったらいいな、と思っています。 これまで、翻訳家ケン・リュウの仕事について紹介してきましたが、ここで、中国SFファンとして、中国SFを楽しむ際に気を付けていただきたいことについてお話します。
それは、現在日本に紹介されている中国SFのほとんどがケン・リュウの編訳によるものであり、ケン・リュウというたったひとりの人間を通して垣間見ている世界に過ぎないということです。
『折りたたみ北京』収録作には、ケン・リュウ自身の創作に似ている作品であったり、いかにも中国らしい雰囲気を湛えた作品が存在します。夏笳の「童童の夏」とケン・リュウ「存在」「介護士」、劉慈欣「神様の介護係」とケン・リュウ「化学調味料ゴーレム」が互いに似ていることは、このアンソロジーがケン・リュウの影響下にあることを示しています。また、郝景芳「折りたたみ北京」や馬伯庸「沈黙都市」のように現代中国の抱える問題をSFとして描いたり、陳楸帆「麗江の魚」「沙嘴の花」や夏笳「百鬼夜行街」のようにオリエンタリズム的な雰囲気にあふれていたりする作品があることからも、やはりこのアンソロジーに対して、東洋的な趣や情緒的な筆致を得意とするケン・リュウの影響が存在することを否定することは困難です。 私は決してケン・リュウを批判している訳ではありません。ケン・リュウ本人が『折りたたみ北京』序文で語っている通り、広大な中国SFという世界をたった一冊のアンソロジーだけで知ったつもりになっては欲しくないということです。
表面的なオリエンタリズム、中国らしさを楽しむだけが中国SFの面白さではありません。中国SFは、異国の文化を楽しむだけで済むような、そんな軽薄なものではありません。中国の歴史や文化、言語に深く根ざし、発想や論理の組み立て方、比喩や筋書きの見せ方、そして語り口まで、すべてが異質で、またどこかに中国以外のSFとの共通点、すなわち人類が普遍的にもつなにかしらの共通点を見出せる。それが中国SFなのです。
中国SFの紹介は、まだはじまったばかりです。中国SFで最も重要とされる作品「三体」も翻訳されておらず、また中国語から直接翻訳するのではなく、ケン・リュウによるアメリカ向けの英訳という、一種の文化的なフィルターを介して翻訳しているのが現状です。その現状を知っていただきたい、中国SFに対して先入観をもたないでほしいということが、私の、心からのお願いです。 テッド・チャン
ケン・リュウと同じく、中国系アメリカ人のSF作家として、テッド・チャンがいます。前回の動画でも触れましたが、今回は中華SFという文脈でご紹介したいと思います。 テッド・チャンの作品には、ケン・リュウと同じく言語SFが多く存在しますが、ケン・リュウが漢字などの表意文字を重視するのに対して、テッド・チャンは一貫して漢字をまったく登場させません。同様に、ケン・リュウが中国的なものをよく描くのに対して、テッド・チャンはまったく中国的なものを描きません。
背景としては、ケン・リュウが中国や中国の文化に対して親近感を覚えているのに対し、テッド・チャンは中国に対して批判的であるという姿勢の違いがあります。同じような文化背景を有している作家同士でも、まったく違う作品が出来上がってくるというのも、SFの面白いところです。
このテッド・チャンの魅力は、「ふたつの独立した事柄から、ある共通した何かを見出し、そのさきに信じられないようなヴィジョンを示す」というところにあります。まったく共通項の見えないものから、テッド・チャンは極めて論理的に共通項を導き出し、それ自体の驚きと、そこからさらに導き出される意外だけど論理的な視座を読者に与えます。この驚きと面白さが、SFでいうところ「センス・オブ・ワンダー」です。
前回言及したSF最高峰の作品「あなたの人生の物語」も先に挙げた物語構造をもち、「息吹」もそうなのですが、私がチャンの作品でいま一番好きなのは、未訳の短篇「大いなる沈黙」です。この作品は、インコと天文学との共通項を示す作品で、かつ作品のラストシーンは、SFでも最高のものです。原文がインターネット上で無料で公開されていますので、気になった方はぜひ読んでみてください。 話が少しずれますが、ここで推しておきたいのが、円城塔さんの作品。円城塔さんの作品には、「最初に一見意味不明な命題を提示しておき、それがいかに正しいかということを論理的に示し、最後にその命題から論理的に導き出される最も意外な事実を提示して物語を終える」という構造をもつ作品が存在します。代表的なものが、「これはペンです」(新潮文庫『これはペンです』収録)、「文字渦」(新潮社『文字渦』収録)です。 よく分からない物事から、ものすごく面白いことを論理的に導き出すという物語の構造は、テッド・チャンと円城塔さんの作品に通ずるものがありますので、はじめはよく分からないかもしれませんが、ぜひ円城塔さんの作品にも挑戦してみてください。
以上、ケン・リュウとテッド・チャン、そして中国SFを含めた中華SFの紹介・解説でした。
分かりにくかったところや、質問などありましたら、気軽にコメントやTwitterなどでお知らせください。
次回予告
次回の動画では、私が一番大好きな作品である、レイ・ブラッドベリの「華氏451度」を中心に、時代を超えて読み継がれる歴史的名作についてのお話をしたいと考えています。 「SFの抒情詩人」と呼ばれるブラッドベリの、今も色褪せぬ「あたたかいまなざし」をみなさんに楽しんで頂けたらと思います。
ということで、今回はケン・リュウの作品と翻訳、そして中華SFについてご紹介させていただきました。それでは、次の動画でお会いしましょう。