タルコフスキー
イングマール・ベルイマン曰く「タルコフスキーは私にとって最も偉大な監督だ」
1964『はじまり』
1967『刻印された時間』
エピグラフ:ドストエフスキー『悪霊』より
スタヴローキン「〜黙示録のなかで天使は、時はもはや存在しないだろうと言っている。」キリーロフ「まったくその通りです。明確で正確だ。全人間が幸福を手に入れたとき、時はもはやなくなってしまいます。なぜなら、必要がないからです。実に正しい意見だ。」スタヴローギン「時はどこに隠されてしまうのだろうか。」キリーロフ「どこに隠されもしません。時は物ではなく、観念なんです。それが意識から変えてしまうんです。」
上記のエピグラフの立場のもと下記のように論じる。これはカントの超越論的観念論とも通ずる。そしてタルコフスキーはこの時間がアイデンティティ形成に深く関わるものとして「時間は、われわれの〈自我〉が存在するための条件である」と論ずるがそれはなぜか?
人間にとって時間が不可欠なのは、人間が受肉し、人格となるためである。〜時間と記憶は溶解しあっている。これらは、一枚のコインのふたつの面に似ている。時間がなければ、記憶もまた存在しないということは、まったく明らかである。記憶はきわめて複雑な概念であり、記憶からわれわれが受ける印象の総和全体を明確にしたいなら、記憶の無数の特徴のすべてを列挙するだけでは不十分にちがいない。記憶は精神的概念なのだ!たとえば、だれかが自分の少年時代の印象について話すとしよう。そのことで、その人についてのもっとも完全な印象を得るための素材をわれわれは手にすることができるのだと、確信を持って語ることができる。記憶を欠くと人間は、虚妄の存在のなかに囚われてしまい、時間から脱落し、自分に固有な外部世界との関係を確立することができなくなる。つまり彼は狂気を運命づけられてしまうのだ。
つまり「時間と記憶」のコインの表裏が「〈自我〉が存在するための条件」なのであり、そのコインがないと「外部世界との関係を確立することができなくなる」故「狂気を運命づけられてしまう」と論じるのである。
1978/12/23 日記
最近私は、悲劇的試練とかなわぬ夢の時代が近づきつつあることを、いよいよはっきりと感じる
亡命という罪を背負ったタルコフスキーが制作した唯一の作品であり、タルコフスキーが一人で映画の脚本を書き上げた唯一の作品であり、遺作。すなわちタルコフスキーの真髄であり集大成。
1985/3『サクリファイス』
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バッハの《マタイの受難曲》「神よ、この涙にかけて憐れみください」にはじまり、レオナルドの《東方三博士の礼拝》へ。
これは三度の嘘を悔いるペテロの祈りとして、「マタイの福音書」のイエスが捕まる第二六章とにされる第二七章の間に、「憐れみたまえ、わが神よ、したたり落ちるわが涙のゆえに。照覧あれ、心も目も、御前にしく泣く。憐れみたまえ!憐れみたまえ!」とアリアで歌われる。本質的な弱さを持つゆえに人間は神に憐れみを乞う-ということが歌われ、アレクサンデルが虚空を見つめて、すべてを元に戻して欲しいと祈る姿を想起させる。彼はマリアと同じ床の中で、マルタを思わせる全裸の女性が鶏を追っている幻影を見る。それはこの「マタイの福音書」第二六章の最後でペテロにイエスが言った「鶏が鳴く前にあなたは私を三度否むであろう」と言う鶏なのかもしれない。
この未完の油絵には、新星の輝きに導かれてイエスの誕生を祝うために東方からやって来た三人の博士が、幼子イエスに捧げ物を渡すという「マタイの福音書」に記された逸誌が描かれている。この未完の油絵には、新星の輝きに導かれてイエスの誕生を祝うために東方からやって来た三人の博士が、幼子イエスに捧げ物を渡すという「マタイの福音書」に記された逸誌が描かれている。数多くの宗教画に描かれているこの「三博士の礼拝」のエピソードは、若い博土が王権の象徴である黄金を、壮年の博士が神性を表わす乳香を、そして老齢の博士が受難と死を意味する没薬を幼子イエスに捧げているとされている。映画のオープニングで拡大され長々と映されているのは、老いた博土が捧げた投薬に幼いイエスが手を伸ばしている部分である。そして本編の主人公アレクサンデルはこの日、三人の男から贈り物を受け取るのである。
アレクサンデルはオットーに電報を読むように頼む。電報には「お誕生日おめでとうございます。我らがリチャード王と、ムイシュキン公爵にキスを贈ります。神が幸福と健康を授けますように。いつも変わらぬ敬意と愛情をこめて。「リチャード」派「白痴」派より」とある。それを聞いてアレクサンデルは「ぐっと来るな」と話す。かつて著名な俳優だったアレクサンデルは、シェイクスピアの『リチャード三世』のリチャード王やドストエフスキーの『白痴』のムイシュキン公爵を演じていた。『白痴』の浮世離れした性格からムイシュキンは作中で聖愚者になぞらえられている。そしてアレクサンデルはこの劇中その聖愚者に近づいていくのである。すでに何度か書いているがタルコフスキーの作品を語るとき、久かせないのはこの聖愚者の存在である。信仰の深さゆえにその振る舞いが常識から逸脱している人物、あるいは高い学識がありながら題かなる者を自ら進んで演じている人物をロシアでは「聖愚者」と呼ぶ。
冒頭の二人の会話に戻ると、オットーはアレクサンデルには才能と名声があるのに、なぜ暗い顔をしているのかと聞くが、アレクサンデルはその質問に答えない。今の自分は幸せだと思うことにしていて、その質問自体が不快なのだ。しかし実際には彼は幸福ではなく、暗い顔をしているという言葉は彼にとって事実なのである。やがてオットーは「人は何かを、待つものです。例えばこの私も、生まれてからずっと、何かを待って、何と申しますか・・・いうならば、駅のホームにいる気持ちでした。常にこの人生は、真実の生ではなくて、真の生を待っているような、待ち続けている。そんな気がしています。そう思ったことは?」と言う。
タルコフスキーの死の一週間前に、書き上げられたもの
1986/12『サクリファイス』
私自身、どんな観客にも完全に同意することができる。映画はさまざまな解釈がなされるように、特別に作られたのだ。観客自身、映画の出来事を解釈し、あらゆる相互関係に関する固有の解決を見出すことができると思う。
????『芸術-理想への郷愁』
芸術における解釈多様性の当為論
傑作のなかで、ある部分を他の部分よりも極端に高く評価したり、いわばその創造者の〈手をつかまえて〉、彼の最終的な目的や課題を示してみせることは不可能なのだ。たとえばオウィディウスは、「芸術は目立たないようにすることのなかにある」と語り、エンゲルスは「作者のまなざしが隠されていればいるほど、それだけ芸術作品はすばらしいものになる」と主張していた。 芸術作品はあらゆる生きた有機体と同じように、相矛盾する原理の戦いをとおして生き、成長する。そのなかで対立物はお互いに変換しあい、いわば芸術作品の意味を無限なるものへと導いていくのだ。理念とそれを定める傾向は、その理念を構成する相対立する原理の均衡の背後に隠されている。そのとき芸術作品にたいする最終的な勝利(つまりその思想と課題の一義的な解明)は不可能となる。それゆえにこそゲーテは、「理性にとって到達が困難であればあるほど、作品はすぐれたものになるのだ」と指摘したのである。(...)この点に関してヴャチェスラフ・イワーノフが表明している考えは、きわめて正確であり、表現力豊かである。イワーノフは芸術的イメージ(ただイワーノフはそれを象徴と呼んでいるが)の包括性について、次のように語っている。「象徴が真の象徴となることができるのは、ただそれが、意味において、汲み尽くすことも、限定することもできないときであり、その秘められた(神官書体の、魔術的な)暗示と示唆の言語で、外部としての言語に対応することも言説化することもできない、なにものかを語っているときなのである。象徴は無数の貌を持ち、無数の意味を持っており、その究極の深みのなかは、いつも暗い闇に包まれている(...)。象徴は水晶のような有機的な構成体である(...)。象徴はある種のモナドでさえある。その意味で、象徴はアレゴリーや寓意、あるいは直喩といった、複雑だが分解可能な構成体とは違う(...)。象徴は、語り尽くすことも、説明し尽くすこともできない。われわれはその全一的意味の前では、無力なのだ」。
そこで傑出して画家の思想がみえ隠れするラファエロの《システィーナの聖母》をとりあげ、その矮小化作用を次のように語る。
私の観点からみれば、それが、これほど鮮かなのは、残念なことだが、芸術家の思想が両義的な意味を持たず、明確に読み取れてしまうからである。あらゆる形式のうえに横たわる作者の寓意的な傾向性が、私を苛立たせる。この絵の純粋に絵画的な特性が、その傾向性にとって都合のいいように、持ちだされてきている。画家は思想を明確にすることに自分の仕事の思弁的概念に意志を集中させているが、そのことでこの画家は罰を受け、絵はぶよぶよとした貧血症状を呈している。(...)ゴーゴリは一八四八年一月、ジュコフスキーに次のように書いた。「……宣教をすることは私の仕事ではありません。芸術はそれでなくとも、はじめから教訓なのです。私の仕事は生きたイメージで語ることであり、議論することではありません。私は人生について解釈するのではなく、人生を人の面前に呈示しなければならないのです。」 これはなんと正確なことばであろうか。そうでなければ、芸術家は自分の思想を、観客に押しつけることになるだろう。(...)芸術はただ精神的経験のための糧、刺激、口実を与えることができるだけだ。
そしてその対比として同時代のルネサンス画家カルパッチョを挙げるのだ。
ルパッチョはその作品のなかで、ルネサンスの人々の前にたち現れてきた精神的諸問題を解決しているのである。ルネサンスの人々は、彼らに襲いかかってきた事物的、物質的、世俗的現実によって目をくらまされていたのである。カルパッチョは説教と作り事の匂いを漂わせている『システィーナの聖母』と違って、文学的手段によらないで、真に絵画的に問題を解決している。個人と物質的現実との新たなる相互関係がカルパッチョの作品において、実に見事に表現されている。彼は極端な感傷に陥ることなく、自分の偏向性も、人間の解放を目の前にした戦慄的な歓喜も隠しおおすことに成功している。(...)カルパッチョの、登場人物の多く描かれているコンポジションは、その魅惑的な美しさでわれわれを驚かせる。あえてこれを〈理念イデアの美〉と言うことには意味があるのではないだろうか。(...)カルパッチョの絵画の調和の原理を感じ始めるまでに、おそらくそれほど時間はいらない。そしてそれを理解するや、永遠にその美と、押しよせてきた最初の印象の魅惑のなかにとどまらないわけにはいかないのである。この絵の原理は、最終的にはきわめて単純であるが、高度の意味で、私の見るところラファエロよりもはるかに高い水準で、ルネサンスのユマニスム的本質を表現している。(...)ふたりの偉大な画家にたいする私の観点がすぐれていると読者に確信させようとか、ラファエロよりもカルパッチョのほうを好ませようなどと、私はまったく考えていない。私が言いたいのはただ、あらゆる芸術が結局のところ傾向的であり、様式自体傾向そのものにほかならないにもかかわらず、それでもやはり傾向がまったく同じでもその傾向を表現する芸術的イメージが多層的な底なしの深みを獲得することもできるし、ラファエロが『システィーナの聖母』で行ったように、プラカードのようにあからさまに表現されることもありうるということだ。貧しい唯物論者のマルクスでさえも、芸術において、傾向は、それがソファーのスプリングのように外に出てこないように隠しておかなければならないと語っている。
トーマス・マンが書いているように、「無関心だけが自由である。特徴的なものは自由ではありえない。それは、その鋳型によって鋳造され、制約され、鍛えられるのだ」。