タルコフスキー
上記のエピグラフの立場のもと下記のように論じる。これはカントの超越論的観念論とも通ずる。そしてタルコフスキーはこの時間がアイデンティティ形成に深く関わるものとして「時間は、われわれの〈自我〉が存在するための条件である」と論ずるがそれはなぜか? つまり「時間と記憶」のコインの表裏が「〈自我〉が存在するための条件」なのであり、そのコインがないと「外部世界との関係を確立することができなくなる」故「狂気を運命づけられてしまう」と論じるのである。
1978/12/23 日記
最近私は、悲劇的試練とかなわぬ夢の時代が近づきつつあることを、いよいよはっきりと感じる
亡命という罪を背負ったタルコフスキーが制作した唯一の作品であり、タルコフスキーが一人で映画の脚本を書き上げた唯一の作品であり、遺作。すなわちタルコフスキーの真髄であり集大成。
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これは三度の嘘を悔いるペテロの祈りとして、「マタイの福音書」のイエスが捕まる第二六章とにされる第二七章の間に、「憐れみたまえ、わが神よ、したたり落ちるわが涙のゆえに。照覧あれ、心も目も、御前にしく泣く。憐れみたまえ!憐れみたまえ!」とアリアで歌われる。本質的な弱さを持つゆえに人間は神に憐れみを乞う-ということが歌われ、アレクサンデルが虚空を見つめて、すべてを元に戻して欲しいと祈る姿を想起させる。彼はマリアと同じ床の中で、マルタを思わせる全裸の女性が鶏を追っている幻影を見る。それはこの「マタイの福音書」第二六章の最後でペテロにイエスが言った「鶏が鳴く前にあなたは私を三度否むであろう」と言う鶏なのかもしれない。
この未完の油絵には、新星の輝きに導かれてイエスの誕生を祝うために東方からやって来た三人の博士が、幼子イエスに捧げ物を渡すという「マタイの福音書」に記された逸誌が描かれている。この未完の油絵には、新星の輝きに導かれてイエスの誕生を祝うために東方からやって来た三人の博士が、幼子イエスに捧げ物を渡すという「マタイの福音書」に記された逸誌が描かれている。数多くの宗教画に描かれているこの「三博士の礼拝」のエピソードは、若い博土が王権の象徴である黄金を、壮年の博士が神性を表わす乳香を、そして老齢の博士が受難と死を意味する没薬を幼子イエスに捧げているとされている。映画のオープニングで拡大され長々と映されているのは、老いた博土が捧げた投薬に幼いイエスが手を伸ばしている部分である。そして本編の主人公アレクサンデルはこの日、三人の男から贈り物を受け取るのである。
アレクサンデルはオットーに電報を読むように頼む。電報には「お誕生日おめでとうございます。我らがリチャード王と、ムイシュキン公爵にキスを贈ります。神が幸福と健康を授けますように。いつも変わらぬ敬意と愛情をこめて。「リチャード」派「白痴」派より」とある。それを聞いてアレクサンデルは「ぐっと来るな」と話す。かつて著名な俳優だったアレクサンデルは、シェイクスピアの『リチャード三世』のリチャード王やドストエフスキーの『白痴』のムイシュキン公爵を演じていた。『白痴』の浮世離れした性格からムイシュキンは作中で聖愚者になぞらえられている。そしてアレクサンデルはこの劇中その聖愚者に近づいていくのである。すでに何度か書いているがタルコフスキーの作品を語るとき、久かせないのはこの聖愚者の存在である。信仰の深さゆえにその振る舞いが常識から逸脱している人物、あるいは高い学識がありながら題かなる者を自ら進んで演じている人物をロシアでは「聖愚者」と呼ぶ。
タルコフスキーの死の一週間前に、書き上げられたもの
芸術における解釈多様性の当為論
そしてその対比として同時代のルネサンス画家カルパッチョを挙げるのだ。 ルパッチョはその作品のなかで、ルネサンスの人々の前にたち現れてきた精神的諸問題を解決しているのである。ルネサンスの人々は、彼らに襲いかかってきた事物的、物質的、世俗的現実によって目をくらまされていたのである。カルパッチョは説教と作り事の匂いを漂わせている『システィーナの聖母』と違って、文学的手段によらないで、真に絵画的に問題を解決している。個人と物質的現実との新たなる相互関係がカルパッチョの作品において、実に見事に表現されている。彼は極端な感傷に陥ることなく、自分の偏向性も、人間の解放を目の前にした戦慄的な歓喜も隠しおおすことに成功している。(...)カルパッチョの、登場人物の多く描かれているコンポジションは、その魅惑的な美しさでわれわれを驚かせる。あえてこれを〈理念イデアの美〉と言うことには意味があるのではないだろうか。(...)カルパッチョの絵画の調和の原理を感じ始めるまでに、おそらくそれほど時間はいらない。そしてそれを理解するや、永遠にその美と、押しよせてきた最初の印象の魅惑のなかにとどまらないわけにはいかないのである。この絵の原理は、最終的にはきわめて単純であるが、高度の意味で、私の見るところラファエロよりもはるかに高い水準で、ルネサンスのユマニスム的本質を表現している。(...)ふたりの偉大な画家にたいする私の観点がすぐれていると読者に確信させようとか、ラファエロよりもカルパッチョのほうを好ませようなどと、私はまったく考えていない。私が言いたいのはただ、あらゆる芸術が結局のところ傾向的であり、様式自体傾向そのものにほかならないにもかかわらず、それでもやはり傾向がまったく同じでもその傾向を表現する芸術的イメージが多層的な底なしの深みを獲得することもできるし、ラファエロが『システィーナの聖母』で行ったように、プラカードのようにあからさまに表現されることもありうるということだ。貧しい唯物論者のマルクスでさえも、芸術において、傾向は、それがソファーのスプリングのように外に出てこないように隠しておかなければならないと語っている。