イングマール・ベルイマン
あなたの人生のビジョンは、私が今までに観た映画の中で最も深く私を感動させた(...)あなたは現在に於ける最も偉大な映画監督だと信じている
マックス・フォン・シドーとイングリッド・チューリンに触れているところをみると、特に『野いちご』がお気に入りだった事が伺える。
現存する最も美しい映画のひとつ
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本映画の主題
『ヨハネの黙示録』、教会で要請されるメメント・モリ、そして終幕を飾る死の舞踏。中世を闇黒のヴェールで覆う「ペスト」によって、ベイルマンの描く厭世の断片は形而上学的結晶となり、我々を普遍的な啓示へと誘う。それこそが神という夢想のオリジンにある。騎士アントニウスいわく 恐れが形になったもの、それをひとは神と呼ぶ
ゆえにそれは暗黒の中世と呼ばれ、教会の権力とその正統性を確固たるものとした。しかしそうして宗教が存在論的或いは倫理的次元から、政治的次元へとその宿主を移動させることは欺瞞の増幅へと至る。そうした懐疑主義と宗教のもつ安らぎ、神を通じた無限への夢想の狭間に立ち、中世と近代のあいだを揺らぐ存在こそ騎士アントニウスなのだ。
騎士アントニウス「(...)何故神は五感でとらえられぬか?何故あいまいな約束や奇跡にお隠れになるのです。己を信じられぬ者が、どうすれば神を信じられるのか。信じぬ者はどうなるのか。なぜ神を殺さない。なぜ私は神にとらわれ続けるのだ。捨ててしまえれば楽なのに。神はあざ笑うように、わたしのこころに居座り続ける。(...)神を知りたい。教義や空想ではなく、手を差しのべ、顔を見せ、言葉を下さる神が欲しい」
そんな騎士アントニウスは死と相対することで、実存主義の如く絶望を受難し、-冒頭にて「死には黒が似合う」とあるように-死と生を表象する黒と白の盤上をもって延命をはかり、自らの存在を肯う道理を思索する。
牧師に扮した死神「死ぬより良いと?」騎士アントニウス「死など怖くない」牧師に扮した死神「何が望みだ」騎士アントニウス「知りたいのです(...)今朝死が訪れたのでチェスを挑みました。しばしの猶予を得るために」牧師に扮した死神「なぜだ」騎士アントニウス「私は、今まであてもなく、何かを求めていきてきた。だからと言って自らを責めようとは思わない、人生とは、そういうもんです。だが、最後に何か一つ意味あることを成し遂げたい」。
中世を支配する死、そしてそれを触媒として政治的次元へと駒を進ませ、恐怖という糧を喰らうキリスト教。宗教が齎す精神の安らぎと、その欺瞞が露わとなるリアリティのなかで、そしてチェスというアレゴリーに扮した死と生の対話のなかで、自らの実存を肯うひとつの答えをさがす旅。それこそ本映画の主題にあたるといえよう。