ウンベルト・エーコ
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開かれた作品とは
カールハインツ・シュトックハウゼンの《ピアノ曲第11番》において、大きな譜面から弾き始めから連なる組合せを、自主的に選択する演奏法を代表にした、〈開かれた〉作品を下記のように語る。 近年の器楽曲の中には、解釈者に許された演奏上の特殊な自立性によって特徴づけられる作品がいくつから認められる。そこでは、解釈者は、伝統的音楽の場合のように、作曲者の指示を自己の感受性に応じて自由に解釈できるのみならず、しばしば楽音の持続や継起を創造的な即興行為において決定することによって、作品の形に介入することさえ要求される。
そしてエーコは誤謬を防ぐために「閉ざされた」開かれと、「未完成」の開かれを区別する。
作品それ自体を、すなわち作者によって構想された元の形を、感性と知性により、刺激として感取される諸効果の布置に対する応答の戯れを通して、再び理解することができるように、一連の伝達諸効果を組織するのである。このような意味で、作者は、その形が生産されたままの仕方で理解され享受されることを望み、それ自体完結した形を生産する。しかしながら、一連の刺激に反応し、それらの刺激間の関係を理解するという行為において、各享受者は、ある実存的な具体的状況、特殊な制約を受けた感受性、一定の文化、趣味、性向、個人的先入見を持ち込むため、元の形は一定の個人的視点に従って理解されることになる。〜それゆえこのような意味で、計算し尽くされた組織体というその完全性において、完成され閉された形としての芸術作品は、同様に開かれたものでもあり、無数の異なる仕方で解釈されうるが、その結果、複製不能な独自性が変質することにはならないのである。こうして享受とはすべて解釈にして演奏=上演なのである。なぜなら、それぞれの享受において作品はある独創的な視点のもとで甦るのであるから。だがベリオやシュトックハウゼンの手になるような作品が、それほど比喩的ではないはるかに確然とした意味で〈開かれて〉いるのは明らかである。俗な言い方をするなら、それらは未完成の作品であって、作者はそれらを多かれ少なかれ組立で玩具の部品のように解釈者に託し〜
歴史的変遷
古代の開かれ
中世の開かれ
このように理解された作品とは、疑いもなくある種の〈開かれ〉を付与された作品である。テキストの読者は見出すべき多様な意味へと、各文、各人物が開かれているのを知っている。いやそれどころか、読者は気分に応じて、より範例的と思われる読解の鍵を選び、作品を望み通りの意味において使用するであろう(その作品を、先行する読みにおいてそれが取りえたのとは、多少異なる姿をしたものとして甦らせながら)。だがこの場合、〈開かれ〉は伝達の〈不定性〉、形の〈無限の〉可能性、享受の自由を意味するのではまったくない。その場合得られるのは、読者の解釈による反応が決して作者の支配を逃れないように、厳密な形であらかじめ定められ制約された一群の享受結果でしかない。
中世の書物を読む際に見出される寓意像や寓意図の意味は、百科事典、動物寓話集、石譜により定められている、、象徴体系は客観的で制度的である。この一義性と必然性の詩学の下には、秩序づけられた宇宙、存在と法則の位階構造があり、詩の言葉はそれをいくつかのレベルで明かすことはできるが、各人はそれを可能な唯一の仕方で理解しなければならず、この唯一の仕方こそ造物主の言葉ロゴスによって創設されたものなのである。芸術作品の秩序とは、帝政的で神権的な社会の秩序そのものであり、読みの規則とは、目的を指示し、その実現のための手段を提示しつつ、人間をそのあらゆる行為において支配する独裁政治の規則なのである。 バロックの開かれ
象徴主義の開かれ
ロマン主義的寓話に終止符を打ち、はじめて〈開かれた〉作品の自覚的な詩学が出現するのは一九世紀後半の象徴主義においてである。ヴェルレーヌの『詩法』はこの点で十分に明示的である。 現代文学の開かれ
すぐれて〈開かれた〉作品として、すぐさまカフカの作品のことを考えることができる。つまり、裁判、城、待機、判決、病気、変身、拷問は、その直接的な字義通りの意味で理解さるべきではないのである。だが中世の寓意的構成とは違い、ここにおいて重層する意味は、一義的に付与されてはいないし、いかなる百科事典によって保証されているのでも、いかなる世界秩序に基づいているのでもない。カフカ的象徴についての、実存主義的、神学的、臨床医学的、精神分析的な多様な解釈は、作品の可能性のほんの一部を尽くすにすぎない。つまり、事実上、作品は曖昧なものとして、無尽蔵の開かれたものであり続けるのである。というのは、普遍的に認められた法則により秩序づけられた世界に代わって、方向づけの中心の不在という否定的な意味においてであれ、もろもろの価値と確実性について絶えざる再検討が可能であるという肯定的な意味においてであれ、曖味性に基づく世界が到来したからである。
こうして、作者に、象徴的意図と不確定性ないしは曖昧性への傾向とが存在するかどうかを見定めがたい場合にも、ある種の批評的詩学は、今日、現代文学の全体を、効果的な象徴装置へと構造化されたものとして観ようとする。文学的象徴についての書物でW・Y・ティンダルは、現代文学の最も偉大な詩作品の分析を通じ、「あるテキストの真実の意味なるものは存在しない」というポール・ヴァレリーの主張を確たるものにすることをめざし、芸術作品とは、その作者も含めて誰でもが、より良いと思う通りに〈使用する〉ことのできる装置であると結論するまでにいたる。それゆえ、この種の批評がめざすのは、文学作品を、開かれの絶えざる可能性、意味の不定の貯蔵庫と見なすことである。 現代世界の正確な実存的・存在論的条件についてのイメージをまさに与えるべく意図された〈開かれた〉作品の最大の範例として、ジェイムズ・ジョイスの作品を読者に思い起していただくのは、無くもがなのことである。『ユリシーズ』の中で「彷徨える岩」のような章は、多様な角度から見ることのできる小字宙を構成するが、そこにおいてアリストテレス的性格の詩学は、等質的空間における時間の一義的進行の待学とともに、その最後の痕跡を完全に消し去られてしまう。 最後に『フィネガンズ・ウェイク』において我々は、自己自身へと湾曲し―最初の言葉は終わりの言葉と接合する―それゆえ、有限でありながらまさにそれがために無限であるアインシュタイン的字宙を真に前にすることになる。各出来事、各言葉は、他のあらゆる出来事や言葉と可能な関係を結び合い、ある語に対して実現される意味上の選択によって、他のすべての語を理解する仕方が左右される。このことは、その作品が意味を持たないということを意味しない。つまり、ジョイスがそこにいくつかの鍵を導入するとすれば、それはまさにその作品がある意味において読まれることを彼が望むからである。だがこの〈意味〉は宇宙の豊かさを持つのであり、作者はその意味が時空の全体を―可能な時空の全体を―含むことを野心的にも望むのである。この全面的曖昧性の主要手段は地口、語呂合せである。つまり、そこでは二個、三個、一〇個の異なる語根が相結合し、単一の言葉が諸々の意味内容の結節点となり、それら意味内容の各々は、他の暗示の中心と出会い、相関することができ、この中心もまた新たな星座的布置と新たな読みの蓋然性へと開かれていく 動的作品の地平
バロックから今日の象徴の詩学にいたるまで、一義的でない解釈形による作品概念は次第にいよいよ明確化されていったが、前節で検討していた実例が我々に提示してくれたのは、享受者の観想的で精神的な共同作業に基づく〈開かれ〉であって、この享受者は、すでに生産され、その構造的完成度に従ってすでに組織化された芸術事実を自由に解釈すべきなのである〜これに対して、プスールの『スカンピ』のような作品はもっと新しい何かを表している。つまりウェーベルンの作品を聴きながら、聴き手は、自分に提示された、それもすでに完成した仕方で生産された音響宇宙の範囲内で、一連の諸関連を自由に再組織し享受するのに対し、『スカンピ』において享受者は、生産と制作の側そのものから、音楽的言語を組織し構造化するのである。彼は作品を作るのに協力するのである。
そして後者を下記のように説明する。
物理的に実現されていない多様な予想外の構造を受け入れる可能性によって、〈動的作品〉と規定することができる。動的作品の現象は、現今の文化的状況において、音楽の範囲に限らず、造形芸術の領域にもその興味深い表れが見られるわ、つまひ、今日、我々はそこに、いわば可動性を、絶えず新たなものとして享受者の眼に万華鏡のように姿を変える可能性のようなものを、それ自体のうちにら有する芸術的対象を見出すのである。 このモビールという簡素な構造体はまさに、空中を動く可能性を持ち、様々な空間的配置を取り、自己自身の空間と次元を絶えず創出することができる。
更に〈日々創造さるべき学校〉と規定されたカラカス大学の建築学部校舎、ブルーノ・ムナーリの「回転レンズを意のままに調節しながら、享受者は少なくとも、色階の存在とあらかじめ設定されたスライドの配置とによって許容される可能性の場の範囲内で、美的対象の創造に事実上協力する」ことができる動的絵画。或いは「調節可能なランプ、様々な姿に組み直すことができる書棚、疑いもなく様式上の高さに達した変形可能なソファ」などといった「現代人が、自身の趣味と習慣的必要性とに従って、自分がその中で生きる形を自ら作り、自ら配置することができる」工業デザインを続け様に例に挙げ、最後に文学、マラルメの『書物』を挙げる この巨大で全体的な作品、すぐれて作品と呼べるべきものは、詩人にとって単に彼自身の活動の究極目的を構成するだけではなく、世界の目的そのものを構成するのである(「世界は一冊の書物に到達するために存在する」)。 本作品の有機的無限性ともいえるかのような性質に焦点をあてる
この作品を、マラルメは生涯をかけて手がけはしたけれども、仕上げるには到らかった。~この企ての基底にある形而上学的意図は、壮大で議論の余地のあるものであるが、それに触れるのは控えさせていただくとして、非常に明確な手の戒律(「一冊の書物は始まりも終わりもしない。せいぜいそのふりをするだけだ」)を実現しようとするこの芸術的対象の力動的な構造だけを考慮することにしよう。『書物』は可動的な巨大作品となるはずであった。それも単に、『骰子一擲』のような作品が可動的で〈開かれて〉いるという意味においてではない。この『骰子一擲』においては、テキストの文法、統辞法、印刷上の配列が、多様多形な諸要素を不確定な関係の中へと導入していたのであるが。『書物』において、その頁は固定した順序に従う必要はなかったであろう。つまり、その頁は置換法則に従って、様々な順序につなぎ合わすことができるはずであったろう。一連の相独立した(続き具合を決定するように綴じられていない)分冊があって、一つの分冊の最初と最後の頁は、二つ折の同じ一枚の大きな紙面に書かれたはずであり、その紙面が、分冊の始まりと終わりを示すことになったであろう。つまり、その分冊の内部で、バラバラの一枚ずつから成る可動的、可換的な紙面が戯れるであろうが、それがいかなる順序で置かれようとも、言葉は一つの完全な意味を持つようになっていたであろう。 明らかに詩人は、それぞれの組合せから、統辞的意味と一つの論弁的意味内容を得ようとしたのではない。つまり、個々の文や語のそれぞれが〈暗示〉し、他の文や語と暗示的な関係を結ぶことができるものと見なされており、相孤立した文や語の同じ構造がそれぞれの順序の置き換えの妥当性を可能にし、関係の新たな可能性と、それゆえ暗示の新たな地平を誘発したであろう「書巻は固定した印象にも拘らず、この戯れによって可動的となり、死せるものから生けるものへと変成するのだ」。スコラ哲学末期の(特にルルス主義の)知的遊戯と現代の数学的技術との中間に位置する結合術的分析のおかげで、詩人は、限られた数の構造諸要素からいかにして天文学的数字の組合せの可能性が出てくるかを、理解することができた。だが可能な置換にある種の限定を加えた上で、作品を分冊の形で集成することは、『書物』を一連の極めて豊富な選択順序に〈開き〉はするが、それでもそれは、ある言語諸要素の提示とそれらの結合可能性の指示とを通じて、作者が提出しようとする暗示性の場に『書物』を繋留したのである。 結合術的仕組みがここでオルフェウス的タイプの啓示に奉仕するという事実は、可動的で開かれた(特にこの点ですでに挙げた、他の伝達的形成的意図から生じた他の経験と近接した)対象としての書物の構造的現実に及ぶことはない。すでにそれ自体で開かれた諸関係を暗示することのできるテキストの諸要素の置換可能性を許容しつつ、『書物』は、読者の眼に絶えず自らを更新し、絶対者の多面性のいやましに新しくなる諸相を示してゆく絶えず融合する世界になろうとしたのであり、この多面性を『書物』は、いわば表現するというより、その代りとなってそれを実現しようとしたのである。そのような構造においては、完結した形が予見されないのと同様、いかなる固定した意味も見出されるべきではなかったであろう。つまり、その書物のたった一つの詩句といえども、置換可能なコンテキストの影響を受けない完結した、一義的意味を持つとすれば、その詩句は、その仕掛けの総体を閉塞させてしまったことであろう。
実に不調和な渇望と素朴さによって複雑化した、マラルメのこのユートピア的企てが仕上げられることはなかった。一旦完成されたとして、その経験が妥当であったか、あるいは自身の寓話の果てに世紀末的感受性の神秘的で秘教的な両義的具現が出来することになったか、我々にはわからない。第二の仮説の方をとりたい気はするが、しかし動的作品のこのように力強い暗示を今世紀初頭に見出すことは確かに興味深い。それは、ある種の要求があたりの気配に漂っており、存在するというただそれだけの事実によって、その要求が正当化され、世紀の展望 の中に組み込まれるべき文化与件として説明されるというしるしなのである。マラルメの実験は、たとえそれが非常にあいまいで歴史的限界内にある問題圏と結びついているとしても、この点で考慮されたのである。これに対して、現代の動的作品は逆に、調和的で具体的な共存関係を確立しようとし、近年の音楽経験について起こるように、感性と想像力との習得を創設しようとするのであって、認識のオルフェウス的代行者を構成しようとするつもりはないのであ る。
事実、隠喩や詩的象徴が、音響的現実や造形的形が、現実について、論理的に整備された方 法よりも、より深い認識方法を構成すると主張するのは常に危険である。世界認識は、科学の の公認された方途を持ち、芸術家の透視への渇望はすべて、たとえそれが 屋的であるとしても、それ自体何か両義的なものを常に持つ。芸術は世界を認識 よりは、世界の補完物を、自立的な形を生産するのであって、この形は、固有の法則、個性的 主を提示しつつ、現存する形に付け加わるのである。しかしながら、各芸術形態を、科 認識の代替物としてではないとしても、認識論的隠喩として見なすことは極めて正当である。 より、各時代にあって、芸術諸形態が構造化される仕方は――類似、隠喩化に上 に概念を形象に融解させることによって―科学、あるいはいずれにせよその時代の文化が現 実を見る方法を反映するのである。
概要
趣旨
エンリーコの日記の中で悪童の「あいつ」として指呼され、ことあるごとに「笑い」を差し向ける少年フランティを下記二項対立図式として検討する。
エンリーコ=「平均的な雛形」が厳守する秩序
秩序の「非適応者」たるフランティが体現する反秩序。とそのあいだに作用する笑いの機能
分析
(1)大通りを更新する兵隊を見て、敬礼をしたり歓声をあげたりするエンリーコや他の子どもたちとは対照的に、フランティは「足をひきずって歩いている兵隊さんをみつけて、大声でわらった」のというシーンについて
集団的な熱狂を目の当たりにして傷ついた、正常な意識
(2)停学処分をうけたフランティが学校に戻れるようにと懇願して、校長先生にひざまずく病気の母親をまえにして、彼は笑い、「このままだと、きみがお母さんを殺すことになるんだぞ」という校長先生の言葉をよそに、「あの恥知らずはにやりと笑った」と評されるシーンについて
情にながされないために、笑いのなかに心の平静を求める、この少年の羞恥
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笑いの機能
善悪
エーコによれば、フランティの笑いとは下記と評される
破壊する何ものか
さらに彼は、その笑いの破壊性と、そこに付与される「善/悪」の評価との関係性について次のように述べている。
かりに「善」が単にひとつの社会が好ましいと認めるものにすぎないとしたら、「悪」とは、ひとつの社会が「善」と同一視しているものに対立するものにすぎないであろう。そして「笑い」、人知れぬ変革者がひとつの社会が「善」とみなしているものを疑いにかける手だては、「悪」の貌をとって現れるであろう。ひるがえって、いまの現実に、笑っている者は―せせら笑っている者は―可能な、異なる社会の、産婆役にほかならない。
さらにフランティについていえば、彼はエンリーコたちと同じ社会に組みこまれており、その社会で信じられている秩序の何たるかを理解したうえで、それを笑うプロセスが必要とされると述べる。
笑う者は、〜みずからの笑う対象のものを受け入れ、信じなければならず、言うなれば内側から笑わなければならない、さもなければその笑いは意味をもたない
則、善=秩序を理解した上で悪として笑うことにより、既存の秩序を破壊し、異なる社会(善=秩序)を創造することに繋がる。
喜劇
喜劇とは意図的に受け入れられて激昂するように仕向けられたがために爆発し、「別のもの」に転下する「秩序」であるとするならば、フランティはみずからの役柄の片鱗すら演じてはいない。〜単なるひとりの統合されざる者、はみだし者おして取り残されている
それは逆説的にいえば、喜劇の下書きだからこそ、実社会に維持されている秩序の価値を相対化しうる「笑いの機能」をわれわれに示唆する、メタ的な役割を担った存在だといえる。
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エーコのパレイゾン解釈
彼はまず、「能産的フォルマによる所産的フォルマの形成的誘導」をめぐる概念構造はあくまでも形而上学的位相において展開される論旨であり、作品の形成活動をめぐる論述とは別の次元に属するものと捉えるべきであることを前提条件として提示する。 その上で、能産的フォルマによる形成的誘導の概念構造が有効性を発揮するのは形成活動を司る芸術家がそれを受容する限りにおいてである、と両者の関係性を措定する。エーコによれば、能産的フォルマは解釈の手がかり(spunto)として芸術家にはたらきかける。芸術家は形成活動を実行しつつ、形成活動の成果としてたち現れるフォルマ(所産的フォルマ)に対し解釈を施し、それが能産的フォルマにより希求される規範的なフォルマ(図式、schema)と一致したとの認識が得られるまで形成活動を継続する。 https://scrapbox.io/files/6502b804bbad97001c160fec.png
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笑いについて
『クオーレ』の構造との比較
table:権力の中心性/非権力の周縁性:図式
『クオーレ』エンリーコ/フランティ 『薔薇の名前』ホルへ/ウィリアム
“笑”について 秩序を破壊する/秩序を産む 真理を脅かす/真理をもたらす
権力について 平均的な雛形/非適応者 修道院の象徴/フランチェスコ会士
則、「権力の中心として笑いを禁じて、秩序=真理を保守するエンリーコ=ホルへ」。そしてそれに対する「非権力の周縁として笑いを用いて、新たな秩序=真理を創造するフランティ=ウィリアム」という図式なのである。
相違は善/悪の図式を、エンリーコ/フランティからウィリアム/ホルへに転倒させ、弁証法させ価値を示したのである。
笑いを誘う傾向は、善を生む一つの力であり、認識の価値を高めることもできる〜笑いは〔より厳密にものを見つめ直す〕方法に高められ、それに向かって学者の世界の扉は開かれ、哲学の対象となり、不誠実な神学の対象ともなる
笑いが庶民の気晴らしとして、憂さを発散させることで彼らの欲望や野望の衝動を吸収する点においては、ホルヘは笑いを許容している。だからキリスト教会では祭日や謝肉祭(カーニバル)や祝宴という一定の期限のなかでだけ、笑いが許可されているのである。(引用)なぜならエーコはカーニバルを法強化(=権力の強化)に繋がるものと考えているため、その意味でホルヘは許容しているからだ(ウンベルト・エーコ#65059b5876c7f100008caa5a)。 しかし、「父なる神」の言葉という絶対的、 かつ不可侵な神聖の領域までも笑いの対象として人間的なパロディーの域内におとしめることは許容できない。そのようなことをすれば、「あらゆる聖なる尊ぶべき図像の性急な解体と逆転」つまり中心と周縁が逆転されるのだ。
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タイトルについて
多元性=ポストモダニズム的主題
エーコは『開かれた作品』において、「開かれた作品」という概念を導入し、複数の解釈が可能な芸術作品とその解釈の問題を述べている。この著書の序文のエーコの説明によると、「西洋人が不変と信じ客観的世界構造と同一視してきた伝統的秩序の崩壊」を背景に生じた無秩序、すなわち「偶然・不確定・蓋然・曖昧・多価値による挑発」に対して、現代芸術は折り合いをつけようとした。
その結果、現代芸術はこうした無秩序をただやみくもに軌道を逸したものと捉えず、新たなる秩序をもたらす可能性を秘めた豊穣な無秩序として受け取けとろうとした。
また、間接的な影響にまで視野を拡げると、ボルヘス、コナン・ドイル、エドガー・アラン・ポー、フローベール、ジョイス等々と、これまた数多くの作家が考えられる。こうして利用された作品による間テクスト性は、多くの事柄を一義的な意味に帰することを拒み、ある時には出典となったオリジナルがもつ意味との違いから作品にアイロニカルな色彩を与え、またある時にはアトソンが気づくように、「まるで本同士が語りあっているかのように、しばしば本は本について語る」ことから生じるさまざまな意味が付加される。 エーコが本のタイトルに「薔薇」という語を入れた理由にしても、薔薇という言葉がもつ多義性にあると述べる(下記)。「神秘なる薔薇(ダンテ)、薔薇戦争、薔薇物語、薔薇の生を生きたローザ、あくまでも薔薇である薔薇(ガートルード・スタイン)、薔薇十字団、すばらしい薔薇の優雅さ、芳しい新鮮な薔薇、別名で呼ばれる薔薇......等々」、「薔薇の名前というのは中世ではしばしば使われた表現で、言葉の限りない力を意味するのです」、「バラがあまりに濃密な比喩的意味に富む象徴であるために、ほとんどすべての意味を失っているから」であった。過剰な意味をもたされているがゆえに結局は何も意味しない表象とは、いわばシニフィエとシニフィアンとが乖離した状態、ボードリヤールのいう「意味の内破」した世界であり、それはポストモダニズムの特質ともなっているのだ。 認識の迷宮世界を象徴しているのが修道院の図書館である。事実、修道院の最長老アリナルドは、「図書館は巨大な迷宮だ。この世が迷宮である証だ。図書館に入ったら、出口はわからなくなる」と述べ、小宇宙としての図書館を、一つの具象された迷宮として捉えている。図書館は、世界に関する知識の貯蔵庫として、キリスト教世界だけでなく異教徒世界の書物を古今東西から収蔵しているのだが、その性質を表すかのように内部は複雑に入り組んだ無数の部屋に分かれ、書物の配置も混沌としている。図書館に置かれた幻覚を引き起こす薬草や,事物をそのまま映さない特殊な鏡、不規則な各部屋の出入口、入り口の所在が不明な秘密の部屋等々が、さらに迷宮としてのイメージを強める。エーコは自らこの図書館の特質を分析して、バロック・マニエリスム期の迷宮・迷路であると解説している。この迷宮に入ると、人は「一種の樹木(多数の枝や幹や袋小路から成る)構造に出くわすものである。一つだけ出口があるのだが、それは容易に見つからない。迷子にならないためには、アリアドネの糸を必要とする。この迷宮は試行錯誤過程の一つのモデルなのだ」(これはドゥルーズのリゾームを示唆する発言である) 同時に、この図書館に入ったウイリアムとアトソンが意識する「完全に方向感覚を失ってしまった」という感覚には、ポストモダニズム特有の超空間が人々に与える感覚と同質のものがあると考えられる。
一巻の書物を前にして、それが何を言っているのかと自分に問うてはならない。何が言いたいのかを問うべきなのだ
喜劇論
喜劇的な効果が実現される条件についてエーコは、「規則に対する違反」が「動物化」された人物、すなわち「卑しく、劣った、嫌な(動物のような)性格であるが故に、われわれが共感を抱かないような人物」として描かれることである。それは下記のような転倒現象である。
上下あべこべの世界〜司教が気狂いじみた振舞いをし、愚か者が王冠をいただく
さらにそのような状況下^を「笑う」われわれの心情を下記のように述べる。
われわへの喜びは、一方で規則に対する違反を喜び、同時に、動物さながらの人物の蒙る恥辱を喜ぶという意味で複雑のもの〜われわれは規則の擁護にも劣等な人物への同情にも関心がない
則、喜劇的な状況を「笑う」人とは、規則に対して異議申し立てをするという点では笑いを創造する劣等な人物に見方しておきながら、その人物の劣等性を笑うという点では規則あるいは社会的なコードに同調するという両義的な振舞いである。
カーニバル論
カーニバルは王が庶民のように振舞い(=上下あべこべの世界)、動物的な存在が権力を握るという越境的、革命的な出来事である。
カーニバルを現実の解放と見てとろうとする超バフチーン的な考え方は、正しくないようである。
具体的には、制限をともなう限定的な解放は、そこで一時的に破られる法や規則の側によってあらかじめ「公認」されたものであるため「法強化」的な社会統御の手段として利用されたと述べる。(バタイユの『エロティシズム』における禁止論と似てる) https://scrapbox.io/files/6503334cfdb1ab001bb1e418.png
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