scrapbox
真のwiki。おそらく。
kofu.icon
ページタイトルが変更されると既存リンクを置換・リダイレクト設定してくれるのは本当に良い設計だとわかってきた
ブログ型のwikiがネット上にたくさん散らばっているという認識が強い
scrapboxという同じツールを使う仲間的感情が湧く
知らないscrapboxプロジェクトがあると無性にわくわくしてすぐ覗いてしまう
noteや他のブログサイトではこういったことは起こらない
初めてフロクロさんのscrapboxを見たときのエキサイトメントが未だ鮮明にあるのかもしれない
Scrapboxはとにかく雑多に、たくさんページを立て、それらを相互にリンクすることで巨大なリゾームを作ることに価値があります。
Scrapboxのいいところは階層構造をとってないところですね。これは先ほどの分類の話にも通じますが、このトピックがどのジャンルに属するか、とかは考えずにとりあえずページを立てて書き始められるので、例えば米津玄師の「感電」がのページを作ったとき、階層構造があるとそのページは音楽の話か、映像の話か、あるいは言葉の話か、みたいにトピックで分類する必要が出てきますが、Scrapboxはその辺考える必要がないので楽です。何の話題だったかは後で(リンクしながら)考えれば良い。
Scrapboxとは?
情報を溜めて置く場所です
ブログよりも細かい単位の断片が多い
彼に限らず多くの著述家が似たような仕組みを使ってきた
かつてそれは紙に書かれていて、個人の書斎に置かれていた
なので、本人しかそれを見ることができなかった
これは最終的な著作物ではなく、それを作り出す段階で本人の知的生産を手助けするためのもの
このサイトに置かれているものは西尾泰和が自分の知的生産に使っている情報カードだと解釈できる
使い始めて5年ほど経った現在、14000枚のカードがある
Scrapboxは紙の情報カードよりも圧倒的に優れている
ページの役目を意識しながら、自由に形態を行き来できるというフットワークの軽さを活かして、直感的に操作できるのがScrapboxの理想だと思っています。
間違いなく、Scrapboxで、## hogeという記法が使えたならば、私はドキュメント的な記述の方式にこだわり、「Scrapbox的」な情報の扱い方には近づこうとしなかっただろう。なにせそれは異質なものであり、慣れないものであり、手を出したくないものだからだ。未知は恐怖の源泉でもある。
Scrapboxがアウトライナーのように下位項目を隠せたら、付箋のようにページを自由移動できたら、全体像を把握するビューを提供したら、きっと私たちは、Scrapboxを「それまでのツールで可能だった使い方」で使ってしまうだろう。マヨネーズが好きな人が、なんでもマヨネーズをかけて食べるかのように、「自分のそれまでの使い方」においてツールを支配下におき、そのツールが独自に提供してくれる情報管理法に親しむことは無かっただろう。
そして、そのツールはいつでも別のツールに代替できる存在になってしまう。それは誰にとってハッピーなことなのだろうか。
Scrapboxはwikiである。そのことは言語としては理解できるが、しかし「どう使うか」の実感まではリーチしない。だから、私たちは自分が知っているツールの使い方で、それを代替しようとする。そのことは基本的には避けがたい。人間は習慣の動物であり、パターンの動物だからだ。よって、過去のパターンを再現しようとするのは、実に自然な反応なのである。その自然な反応に水を差すのが、「ひっかかり」である。
Markdownが使えない(あるいは、他のツールでできるようなことができない)ことによって、ユーザーはそれでも可能な情報管理法を模索しようとする。そのツールにおいて、最適なやり方を探ろうとする。つまり、「ひっかかり」が迂回を促し、別の回路へと接続させる。そういうことが起こりうる。
しかも、その探索は、自分の手を使って行われるので、その過程において、そのやり方が「身について」いく。知識として学んだわけではなく、実践を経由しているので、把握と理解と実行がセットになっている。誰から説得されるまでもなく、Markdownが使えなくても不便ではないことを理解し、そのようにページを書いている。