モンテーニュ日常の思想
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ミシェル・ド・モンテーニュとエセーの解説、分析本
モンテーニュが過ごした時代について
コロンブスのアメリカ大陸発見後
コンキスタドールによる征服、侵略によってヨーロッパに多大な利益がまわってきた
モンテーニュはエセーの中で、この侵略と略奪に対して怒っている
ヴァスコ・ダ・ガマの喜望峰経由でのインド到達ルート
マルティン・ルターの宗教改革、宗教戦争・ユグノー戦争
ルネサンス後の知識・学問の発展
思想の根底にある多様性と流動性
多様性
差異、多様という性質ほど、事物の姿に一般的なものはない
自然界のものに、全く同じものは無い。一羽の鶏から産まれた卵ですら、一つ一つ小さな差異がある
多面性
たくさんの面をもつ物事を一挙に判断したがるのは狂気の沙汰である
1つ1つのものは、それ自体の中にも多面な性質を含んでいる。
垣間見えた1つの面だけで、その人全体の印象を判断するのは狂気の沙汰
1人の人間の中でも矛盾するのは当たり前のこと
見た人の角度や価値観によっても見え方が変わる
自分が絶対に四角だと思っても、相手は絶対に丸だと言う時がある
「昨日のことを話しても仕方ないわ。だって、昨日の私は今日の私と違うもの」
一貫性は過大評価されている
流動性
世界はただ永遠の変動にすぎない。そこではすべての物がたえず動いている。大地もコーカサスの岩もエジプトのピラミッドも、全体の運動とそれ自身に動きによって変化している。恒常ということさえきわめて緩慢な変化にほかならない。
諸行無常の思想がモンテーニュにもあった
エセー第2巻の最終章を締めくくる言葉
私はすこしも自分と反対の思想を憎まない。他人の判断が自分と一致しないのを見て腹がたったり、意見や党派が異なるからと言って人との交際が我慢できないようなことはない。それどころか、多種多様こそ自然界のもっとも一般的な姿であり、本質的により柔軟で、より多くの形態をとりうる精神は、物質よりいっそうそれが甚だしいことを考えるならば、私は我々の思想や考え方の一致を見るほうがはるかにまれであると思う。
多様性が前提にあれば、意見が一致しないのは当たり前であり、腹が立つ必要は無い、というか腹を立たせていてはきりが無いとも言える
他人が自分と違う価値観だったら逆に喜ぶようにするハックをする
逆に、意見や価値観が一致する人と出会えるのは稀である
「教養のある人の会話」は、お互いに大量の「相手の知らない知識」を持っている人が、会話の状況に合わせてその知識を出してきて、相手が「その知識面白いね!」という「知識の交換」
not for me なのに押し付けるなは、「多様性の前提に立とうよ」という提案でもある
不確実性の思想
結局、我々であろうと事物であろうと存在には何ら不易な実体はない。我々やその判断やあらゆる死すべきものは、生々流転して止まない。判断者の被判断者もたえまない動きと変化のなかにあるがゆえに、いずれについても確実なことは何一つうち立てられない。
流動性の前提では、確実なことはうちたてられない
生きるというのは、確信をもたないことです
確信こそ、退けなければならないもの
複雑な世界では「原因」という概念そのものが疑わしいという意見が、エセーの中にも書かれている
我々は根本的な原因を確実に知ることはできない。ひょっとして中に混じっていないか見てみるために、たくさんの原因を並べたてる。
言葉の不確実性
言葉の会話は、嘘がつけます
言葉はどう解釈するかに、非対称性が生じる
医学の不確実性
医原病への疑い
エセーでは、モンテーニュが読書で拾い集めた「事実」を、自分の経験と紐付けて論じている
自分がこのScrapboxでやっているスタイルと近いものを感じた
「エセー」というタイトルは『試し』という意味
p82
『エセー』は「判断」を「試し」ながらつくる作品なのである。「自分のわからないこと」でも「空虚なつまらない事柄」でも「議論の尽くされた高尚な問題」でも、「判断の試し」という態度をつらぬくことによって、モンテーニュはつねに自分で考える主体性を保ちつづけようとした。
『エセー』を書く中心に「判断の試し」を堅持することが、他者から事実や知識として与えられるものを自分自身で吟味しながら、着実に自分の思想を育ててゆく方法であった。
エセーを書く目的は、自分自身を明らかにしていくこと
私は私の信じている通りを示しているのであって、人がこう信じるべきだと言っているのではありません。私がここで目指しているのは、ただ自分自身を明らかにすることだけです。
これは自分のScrapboxをやるモチベにもなる。
判断の中止
不確実性の高いこの世界において、モンテーニュは判断の中止を勧める
しかし我々の認識能力を越える、同じような類のいくつものことについては、我々は判断をくだすのを控え、否定も肯定もしないのが良いと思う
エポケーという言葉もある
決断ではなく中断
無神論者であるということは神に固執している
神がいることもいないことも証明することは不可能であるから、判断を中止して他のことに取り掛かったほうが良い
p180
いずれにも判断を傾けず、逆らいも服従もしない判断の中止を実行することによって、ものごとに対する執着が消え去り、なにごとにも動揺しない不動心(アタラクシア)が得られる。
ウィッチャーのゲラルトの台詞を思い出した
「おまえを悩ます〝中立〟の意味がわかったか?中立を守るのは、無関心なことでも、無神経なことでもない。自分の気持ちを殺す必要はない。心のなかの憎しみを殺せばいいんだ。わかるか?」
> アンドレイ サプコフスキ. ウィッチャーⅠ エルフの血脈 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.2694-2696). Kindle 版.
中世に行われた魔女裁判に関しても、超常的なことは判断ができないのだから魔女狩り行為に対して批判をしている
まず、今日を生きることが、あなたの仕事のなかでもっとも根本的な、しかももっとも輝かしい任務である
自分の存在を正しく享受するすべを知ることは、ほとんど神のごとき絶対的な完成である