モンテーニュ日常の思想
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モンテーニュが過ごした時代について
モンテーニュはエセーの中で、この侵略と略奪に対して怒っている
差異、多様という性質ほど、事物の姿に一般的なものはない
自然界のものに、全く同じものは無い。一羽の鶏から産まれた卵ですら、一つ一つ小さな差異がある
たくさんの面をもつ物事を一挙に判断したがるのは狂気の沙汰である
1つ1つのものは、それ自体の中にも多面な性質を含んでいる。
垣間見えた1つの面だけで、その人全体の印象を判断するのは狂気の沙汰
見た人の角度や価値観によっても見え方が変わる
世界はただ永遠の変動にすぎない。そこではすべての物がたえず動いている。大地もコーカサスの岩もエジプトのピラミッドも、全体の運動とそれ自身に動きによって変化している。恒常ということさえきわめて緩慢な変化にほかならない。 エセー第2巻の最終章を締めくくる言葉
私はすこしも自分と反対の思想を憎まない。他人の判断が自分と一致しないのを見て腹がたったり、意見や党派が異なるからと言って人との交際が我慢できないようなことはない。それどころか、多種多様こそ自然界のもっとも一般的な姿であり、本質的により柔軟で、より多くの形態をとりうる精神は、物質よりいっそうそれが甚だしいことを考えるならば、私は我々の思想や考え方の一致を見るほうがはるかにまれであると思う。
多様性が前提にあれば、意見が一致しないのは当たり前であり、腹が立つ必要は無い、というか腹を立たせていてはきりが無いとも言える
結局、我々であろうと事物であろうと存在には何ら不易な実体はない。我々やその判断やあらゆる死すべきものは、生々流転して止まない。判断者の被判断者もたえまない動きと変化のなかにあるがゆえに、いずれについても確実なことは何一つうち立てられない。 流動性の前提では、確実なことはうちたてられない
我々は根本的な原因を確実に知ることはできない。ひょっとして中に混じっていないか見てみるために、たくさんの原因を並べたてる。
エセーでは、モンテーニュが読書で拾い集めた「事実」を、自分の経験と紐付けて論じている
「エセー」というタイトルは『試し』という意味
p82
『エセー』は「判断」を「試し」ながらつくる作品なのである。「自分のわからないこと」でも「空虚なつまらない事柄」でも「議論の尽くされた高尚な問題」でも、「判断の試し」という態度をつらぬくことによって、モンテーニュはつねに自分で考える主体性を保ちつづけようとした。 『エセー』を書く中心に「判断の試し」を堅持することが、他者から事実や知識として与えられるものを自分自身で吟味しながら、着実に自分の思想を育ててゆく方法であった。
エセーを書く目的は、自分自身を明らかにしていくこと
私は私の信じている通りを示しているのであって、人がこう信じるべきだと言っているのではありません。私がここで目指しているのは、ただ自分自身を明らかにすることだけです。
判断の中止
不確実性の高いこの世界において、モンテーニュは判断の中止を勧める
しかし我々の認識能力を越える、同じような類のいくつものことについては、我々は判断をくだすのを控え、否定も肯定もしないのが良いと思う
神がいることもいないことも証明することは不可能であるから、判断を中止して他のことに取り掛かったほうが良い
p180
いずれにも判断を傾けず、逆らいも服従もしない判断の中止を実行することによって、ものごとに対する執着が消え去り、なにごとにも動揺しない不動心(アタラクシア)が得られる。
「おまえを悩ます〝中立〟の意味がわかったか?中立を守るのは、無関心なことでも、無神経なことでもない。自分の気持ちを殺す必要はない。心のなかの憎しみを殺せばいいんだ。わかるか?」
> アンドレイ サプコフスキ. ウィッチャーⅠ エルフの血脈 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.2694-2696). Kindle 版.
中世に行われた魔女裁判に関しても、超常的なことは判断ができないのだから魔女狩り行為に対して批判をしている