サイバー保守主義
倫理研第1回: 共同討議 第2部(2)で、冒頭の講演で鈴木謙介から提出された3つの思想的立場を検討しながら、倫理研委員の白田秀彰が提唱したもの。 倫理研第1回において、鈴木謙介は現代の情報社会における動向を、思想史的な遡行を行うことで以下のように整理。まず「保守主義」を20世紀の国民国家体制を支える思想として仮に捉え、20世紀後半から現代に至る国家的な社会秩序の機能不全を確認したうえで、現在の情報化における様々な動向とは、情報技術によるエンパワーメントによって対処・代替しようとする動きである、と捉える。その2つが、18世紀まで遡る「共同体主義(コミュニタリアニズム)」と「自由至上主義(リバタリアニズム)」であり、両者の頭に「サイバー」をつけることでその性格を記述した。 一般的に見られる保守主義という言葉はネガティブな意味合いで、たとえば国家的なもの・全体的なものにつながる思想として捉えられるが、そうではなく、
たとえば民主的な社会において受け継がれてきた「価値」をまず選択するという立場こそを「サイバー保守主義」として肯定的に標榜した。 アーキテクチャが選ばれると自動的に創発的な効果によって、自由至上主義もしくは共同体主義に流れていくのだ、という論理になってしまっているのではないか。(引用) 僕もレッシグと同じく、たぶんウルトラ保守主義者なんでね、アーキテクチャをつくってそこから創発的な結果が出てくればよいというのは、どこか怖い。つまり保守の立場というのは、ここで鈴木さんが提出されている国家主義的な話云々ではなくて、価値オリエンテッド――最終的に何を価値として設計していくのかということを前提に、アーキテクチャの選択を指導するという立場が保守主義なのではないだろうかと思うんですよ。この三者のなかに、サイバー保守主義というものがないかと思うんですよ ■ ファシスト!?
価値や目的をある程度誰かが考えて設定するところまではやらなければしょうがないのでは、と自分のHotwiredの連載で論じたのですが、そうしたらファシストと言われてしまいました(笑)。
と語った部分について。HotWiredでの白田氏の連載「インターネットの法と慣習」にて、「民主的プロセスが動作する基盤は、最高の理性と知性をもって設計し、設定し、維持しなければならないんじゃないだろうか」と語ったところ、kagami氏がこの発言を「アドルフ・シラターの誕生」として白田氏をファシズム転向(!)として批判したことを指す。
その後白田氏はHotWired上で反応を寄せる。論争の展開は、白田氏は、多様性を単なる商業的差異性の分散ではなく民主主義の本質として保持するには、多様性を調停するインターフェイスとしての理性が重要であろうと主張。これに対してkagami氏は「開示的プロセスを通じた近代的理念の啓蒙」の途を目指すことについては同意。ただし人間の倫理は、「理性や知性の持つ合理性を越えたところに存在」するとして、白田氏が「最高の知性と理性」への信を置くことに対し強い留保を残しつつ、白田×kagami論争は幕を下ろした。 HotWired - 白田秀彰のインターネットの法と慣習 第13回 法と政治の基盤について kagami - アドルフ・シラターの誕生-我が法律-
HotWired - 白田秀彰のインターネットの法と慣習 第14回 アドルフ・シラターの誕生について kagami - 民主主義の利点-プロセスの開示と明示について
■ 18世紀的な保守主義
倫理研第1回: 共同討議 第2部(2)で鈴木謙介が次のように語った点について。 以前『波状言論』で座談会をした時にも言ったことですが、18世紀的な保守主義というのはまさに白田さん的な保守主義だと思います 白田:それをやらないとなかなか多数派にならないという悲しさがある。最近の学校教育でもあるけれど、「できが悪いのも個性」とすると規律訓練がグズグズになってしまう。レッシグも嘆いてて私もよく言うんだけど、3秒間で語られた内容を理解できるひとは多数派なんです。ところがひとつの「文」――三段論法が2回ぐらい入っているような――を理解できるひとは恐らく20パーセントくらいだと思うんですよ。ましてレッシグが『Free Culture』で書いているような相当複雑な背景を持った事情を理解して、どうしなきゃいけないかまで理解が及ぶひとは1パーセントもいないと思うんです。 鈴木:白田さんはご自身の立場を「ド保守」と表現されるけど、政治思想的には近いようでいて実は保守ではないと思います。アンソニー・ギデンズが整理していますが、18世紀から19世紀にかけての保守主義が対峙していたのは、むしろひとびとの合理的行動性向を信じるブルジョア民主主義で、例えばオークショットなんかはこれまでの政治性を支えてきた伝統が、ブルジョア合理主義によって失われてしまうことを懸念する。アホが増えるので政治がうまくいかなくなるという発想ですね。白田さんは、アホなことばっかり言う連中に対して、アホでいてもらうと困る、という話ですね。
白田:そう。民主主義は多数派がしっかりしているという前提に立つ制度だから、多数派がアホだと困ってしまう。私は、18世紀の文脈なら相当革新的なことを言っているはず。ところがいまの21世紀からみるとド保守なわけね。民主主義の基本的な原理原則を守らなければ、と言っているわけだから。
■ 全体的な価値形成はいかにして可能か
倫理研第1回: 共同討議 第2部(2)で、東浩紀が次のように問う。 東:(白田さんは)全体的な価値形成をするべきだとおっしゃっている。では――これは今月号(2003年10月号)の『波状言論』でもお尋ねしたことですが――、いったいそのシステムはどのようになるべきでしょうか? 白田:全体合意としてまとめるときにアジェンダ・セッティングが最終的な結論に強い影響を与えるのは避けられないけど、それをやらなきゃイエス・ノーも投票もできない。
東:抽象論としてはわかりますが、具体的にはどうします。政府の審議会を充実させるわけですか?
(中略)
白田:さっきも言ったように、エリートというとき、私は固定したエリート層を考えてないんですね。ある問題に関してよくわかっているひとがエリートだ、と。ネットを見ていると、すべてに関してわかっているひとは誰もいないけど、ある特定の領域に関してかなり詳しいひとがいて、トップを張っていたりする。そんなひとたちがエリートとして問題点を指摘していって、それを理解できる層が幅広くいて、選ぶ……というのが私は望ましいと思う。しかも政府の任命制ではなく、自ずと選出されてくるものであればなおさらね。
東:それはウルリッヒ・ベックが「サブ公共性」や「サブ政治」と呼んでいたものですね。ポストモダン社会は技術依存性がきわめて高いので、それぞれのイシューが専門的になりすぎて従来の民主的なプロセスでは合意形成ができない。そこで、専門家による委員会を作り、それに市民が交じるようなかたちで新しい公共性を立ち上げる必要がある、という議論です。ベックの場合は原子力や食品の安全性の問題を考えていたんですが、情報技術にも同じことが言えると思います。 ここで提案されたようなサブ政治的なミニ委員会の流動的な設立とパブリックコメントの充実の方向性については、ある程度小さな母集団でなければスケールしないのではないかという問題なども指摘された。