サブ政治
ウルリッヒ・ベック『危険社会――新しい近代への道』(東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局、新版1998年、旧版1988年 asin:4588006096)での鍵概念。
1944年生まれ。ミュンヘン大学社会学部教授。「危険社会」はチェルノブイリ原発事故(1986年4月26日)と同年に出版され、社会学の専門書としては異例の発行5年で6万部というベストセラーになり大きな話題となる。またイギリス(LSE:London School of Economics and Political Sciences)の社会学者アンソニー・ギデンズ(『近代とはいかなる時代か?』『第3の道』『親密性の変容』)、スコット・ラッシュ(『ポストモダニティの社会学』)らと『再帰的近代化 ―近現代における政治、伝統、美的原理』(原著は1994年、邦訳は1997年)を出版。
訳者あとがきによれば、旧西ドイツでは1960年代末期から芽を出していた住民運動は、1972年の石油危機を受けて1970年代半ばには環境問題、原子力発電所問題にシフトし、さらにエコロジーカルチャーとして展開。また政治的には、「緑の党Les Verts」の全国組織結成と国会進出がが1980年前後である。また冷戦以前、核ミサイルなどへの危機意識も高まる中、チェルノブイリ原発事故が勃発しヨーロッパ中を放射能の雨が襲うこととなる。
リスク社会とは、このような原子力発電、核兵器、食品工学、公害、地球環境問題など、科学の発展ゆえに全世界をも脅かすレベルのリスクを抱えるにいたった現代社会を背景にした概念といえる。 「再帰的近代」
前近代、産業化段階を経て達する後期近代を示す概念。近代社会それ自体が引き起こす問題に近代社会が対処せねばならず、しかもその正当性や根拠は近代社会であることそれ自体にしかない段階
「脱埋め込み」とも。社会の流動性が上昇し、核家族や企業などの社会と個人の間をつないできた中間集団が溶解し、すべての責任やリスクは個人に降りかかるようになる。
…という近代化の変容とともに訪れる。
放射能のように目に見えず、高度な科学技術それ自体が生み出したリスクは、科学システムそれ自体によってしか検知・対処することができない再帰的なものである。しかしリスクは科学システムによって知識社会学的に算出されるものであって非常に専門的で恣意的な存在であり、その問題解決の正当性を、民主制・代表議会制におけるコンセンサスから調達することはきわめて困難となる。またリスクは階級や中間集団を貫いて人々に達するものであるゆえに、今までの富の配分のロジックで構成されていた近代市民社会の枠組みを脱臼させてしまう性格を持つ。
こうして近代社会のサブシステムはリスクによってあちこちに機能不全を引き起こし、政治システムや法システムといった国民国家的フレームワークはリスク社会のリアルポリティクスから外れ、企業(市場)や科学者たちの「サブ政治」が重要な決定を下していくことになる。この文脈での「サブ政治」はネガティブな意味で使われるが、ベックは次のようにポジティブな「サブ政治」の可能性についても語っている。 企業や科学システムのサブ政治の暴走にチェックや歯止めをかけるには、従来型の福祉政策的介入ならぬリスク政策的な国家の介入も考えられるが、むしろ対抗的サブ政治、つまり草の根の現場で生じる反対運動において、対抗的科学者と市民がともに討議する「サブ公共圏」の形成に――「新しい社会運動」といわれるような、従来マルクス主義的な社会運動とは異なる個々人のアイデンティティの政治と並行するような形で――期待している。 というのは、リスクというものこそがすべてが「個人化」した再帰的近代社会において、全市民を貫く唯一の紐帯の可能性であるとベックは考えるからである。ベックは「不安」の共有こそが世界市民の連帯の鎹となるのではないかと一抹の希望をかけていた。 しかしおよそ20年が経って現代社会を覆っているのは、ハルマゲドン的なリスクがもたらす世界市民の連帯というよりは、東浩紀が「情報自由論」などで指摘するように、「テロへの恐怖」のような社会の内側に潜む不透明な悪への「不安のスパイラル」と「セキュリティの論理の暴走」であるといえよう。(これについてはisedキーワード「セキュリティの論理の暴走」「バリー・グラスナー」を参照のこと。)