バリー・グラスナー
バリー・グラスナーは、アメリカの社会学者。著書『アメリカは恐怖に踊る』は、マイケル・ムーアのアメリカ銃社会についてのドキュメンタリー「ボウリング・フォー・コロンバイン」の元ネタにもなった。 バリー・グラスナー『アメリカは恐怖に踊る』(松本薫訳、草思社、2004年)→asin:4794212879 『アメリカは恐怖に踊る』の論旨をまとめれば、
現代社会は、マスメディアと科学的言説の共犯によって、ありもしない根拠なき恐怖に怯えさせられ、寛容を失っている。
それが実際に起こる確率からすれば不当なほど、恐怖心の偏向が見られる。これは統計数字の操作などで行われる。
こうした不安のスパイラルは、恐怖の商人たちが人々が恐怖の文化に陥ることで儲けるために引き起こされている。
ということになる。
「恐怖の商人」といっても、武器商人などではない。かつての消費社会論は、差異の創出が人々の欲望を駆動し、資本主義の自己拡張的運動を支えていると論じたが、現代社会においてはリスク意識の駆動がその欲望創出を担っているというわけだ。
現状は、漠然たる不安に煽られて監視技術を導入するのはいいけれど、それによるメリットははっきりしないし、むしろ新しいリスクが次々発見されることで体感治安は悪化するばかり、という感じだと思うんです。それに対して、僕はつぎのように思います。
社会が許容できるリスクの全体量がたとえば10だった――数は何でもよいですが――として、最近それが30まで増えてきてしまったので、監視技術の導入によって10まで戻す。それはよく分かる。ポストモダン化に伴い社会の多様性が上昇し、したがってリスクも上昇したから環境管理型権力を使う、というこの選択はやむをえない。 しかし、社会の趨勢は必ずしもそうではない。むしろ、リスクの全体量があまり変わっていないにもかかわらず、10を5にできる、3にできる、1にできる……と際限なく監視を強化し始めている。アメリカのテロリスト対策などに、そのような過剰な妄想を感じます。しかし、リスクをゼロにしたいのなら、それこそ、市民生活を徹底的に監視し、古典的な全体主義国家を作るしかない。環境管理型権力を使えば、多様性を保ったままかつてなく「安全・安心」な生活ができる、という幻想に捕らわれて、とめどもなく技術を強化しているのだとしたら、これはセキュリティの論理の暴走とでも言うべき事態ではないでしょうか。 たとえば「ゲーテッド・コミュニティ」や「バイオメトリクス」「RFID」などは、こうした過剰な「セキュリティ化」「監視社会化」と連動した動向といえよう。
■ 客観性
倫理研第1回: 共同討議 第2部(1)で、鈴木謙介は 統計に対して逆統計を投げて、それが正しいか正しくないかという水準よりも、より「説得的」であれば多少メッセージなどが歪んでいてもいい、といった「科学をめぐる情報戦」になってしまうんですね。そして、そうした情報戦に勝った方が、結局銃規制で勝つんじゃないの、みたいな話になってしまう。
と指摘しているが、これについてはblog「5%の向こう側」のなかで、グラスナーの論点は「ありもしない恐怖を煽る悪い連中がいる」というある種の「陰謀論」的な語り口――グラスナー自身が「ありもしない恐怖を煽る連中がいるというありもしない恐怖を煽っている」という疑いがぬぐえない、と釘を刺しつつ――ではなく、次のような部分に着目するべきとする。
客観的なデータによって事実が作られるのではなく、人々が正しいと信じていることがデータによって補強されて事実になるということだ。だからデータはそれっぽく見えて、納得的でありさえすればよいということになる。 (中略)
彼は一貫してそうした(ありもしない)恐怖が虚偽であることが最大の問題だとは言っていない。問題は、そうした恐怖が、本来なされるべき公共政策の方向を誤らせてしまうということだ。
こうした客観性とリスク意識の問題については、isedキーワード「リスク社会」参照のこと。 Goodpic.com - アメリカは恐怖に踊る (バリー・グラスナー著): 恐怖商人は日本にも 5%の向こう側 - SOUL for SALE