個人化
後期近代(ポストモダン)論における「再帰的近代」が個人のあり方にもたらす帰結として鈴木謙介が紹介している。近代的主体は常に自己を内面において反省(reflection)的にモニタリングし、そこからフィードバックを得ることで主体たりえていたのに対し、後期近代においては自己言及的な「わたしはわたし」という再帰的な断定から自己の一貫性を調達するほかないようなモードに移るという。そこでは、身体的な感覚といったようなものに依拠することでその再帰的な感覚の一貫性を調達する方向が採用されることが多く、ここから情報社会=後期近代において「祭り」的な振る舞いが隆盛することが説明される。 たとえばウルリッヒ・ベックというドイツの社会学者の『Individualization』(未邦訳 asin:0761961119)という本の序言で、スコット・ラッシュという人がこういうことを言っています。社会学がこれまで想定してきた「個人」というのは、他人から見られている自分(客我 me)と、それを反省的に捉え返す自分(主我 I)との間の循環構造が前提になっていた。これがいわゆる「我思う、ゆえに我あり(I think, therefore I am)」という近代的自我の構造です。
しかし近年生じつつある「個人化?」のプロセスは、そうした反省の契機を欠いた「我は我なり(I am I)」と無根拠に断定する「反省なき自己」、つまり再帰的な自己を生み出しつつある。ここで重要なのは、いわゆる再帰性というのは、その回転のイニシャルステップにおいて参照されていた価値を、次第に必要としなくなっていくということなんですね。 またこうした個人化の別のフェイズとして、「個人のdividual(分割可能)化」が上げられる。 たとえば東は『情報自由論』のなかで、ドゥルーズのフーコーについて語った『管理社会について』(『記号と事件』(河出書房新社、1996年)」を参照しながら、近代化においてはそれ以上分割することのできない単位として個人が存在してきたけれども、情報化によってOnetoOneマーケティングやバイオメトリクス、ユビキタスコンピューティングが社会に普及すると、個人が「分割・再結合可能な情報の細かな束」へと細分化して扱うことが可能になるという側面を捉えている。
コミュニティの島宇宙化と多重所属の問題というのはつまり、抽象的に表現すれば「個人 individual」が、分割不可能な(in-divid-ual)ものから、ディバイド可能な(divid-ual)ものになっていくということ