普遍者・概念の実在性とまばらさについて
普遍者の実在、自然をその切れ目に沿って切り取ること(carving nature at its joints)、自然種・自然的性質 について
普遍論争
追記: これは普遍論争についてプラグマティックな立場を最初かんがえていたが、話がとっちらかったなにか。
前提知識
普遍者とクラスとの違い: どんな普遍者もそれに対応するクラスがあるが逆は成り立たない。
つまり、適当に物を集めたものが普遍者になるとは限らない。
妙な専門用語を使うと、普遍者にはクラスと違いまばら(sparse)であるという特徴がある。
「2022年4月1日までに発見されて緑か、2022年4月2日以降に発見されて青である」のように既存の性質に論理操作を施したものは常に対応するクラスがあるが、対応する普遍者があるとは限らない。
では、いつ、どんなときに対応する普遍者があるのか?
どのように既存の普遍者を組み合わせると、対応する普遍者があるようなものが作れるのか?
あるいは、どのように個物を集めると、対応する普遍者があるようなものが作れるのか?
アームストロングのように「電子である」のような基礎物理学 (fundamental physics) の性質だけが普遍者と考えるか?
以下では、基礎物理学を知らなくても分かる自然種かどうかの判定法を考える。
(人間が基礎物理学について正確な知識を持っているとして、その知識を得たのは最近だ。だから基礎物理学の知識がないと何に対応する普遍者があるのかわからないとすると、人類はかなりの期間なにが普遍者に対応する性質なのか知らなかったことになる。)
<追記>
自分で考えるよりも、植原 亮『実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用』を読んだほうがよかった
この記事はあまり読む必要がない
</追記>
〔なんか最初はポストモダン的唯名論みたいなのを仮想敵において、それに対する実念論的なことを言おうとした
(べつにある概念に説明力や予測力があるのが社会のゆえであることは考えられるので、社会構築主義みたいなものと、ここでいう実念論は両立的では) (現にその概念が多くの人々に使われているがゆえに説明力や予測力を持ってしまっているという、自己成就のようなことも理論上は考えられるし)
〕
本題
たしかセラーズがそんなことを言っていた気がするけど、実在する概念/普遍者とは説明力や予測力を持つ概念のことではないか。 (追記: 予測、説明に加えて操作における有用性とかもあるかもしれない)
"Concept as Involving Law, and Inconceivable without Them"?
あるいは、「自然種は自然法則のネットワークの中に織り込まれてるからこそ自然種として実在する」?
この言い方だと、どちらかというと形而上学的で、プラグマティックではないので、違う説になってしまうか。ここで検討するのはあくまでプラグマティックな説の方
(※ここでの説明というは、科学的説明のようにWhy疑問に対する答えのことを言ってる。解明といったほうが良いかも。)
「新しい予測・説明を出せること」が重要、と条件を強めることもできるか。
予測力というと、根底にあるメカニズムのことは気にしないけど、説明力だと、根底にあるメカニズムも気にする、という含みがある気がする
ゲイだから同性愛をするのか、同性愛をするからゲイなのか。前者ならゲイ概念は実在、後者なら実在しない。
正解はおそらく前者だが、それは法則的に同性愛を実現するメカニズムが存在するから。
いやまて、逆転は重要でないかも。単にちゃんと理由になってる(なりうる)かの方がが重要?
逆転できるのは、ゲイと同性愛の関係が分析的な場合?
cf. パトナム「法則凝集語(law-cluster word)」vs.「一基準語(one-criterion word)」
パトナムは、「人間」を「2本足」「死ぬことがある」「羽がない」「動物」のような性質のうちいくつかを満たしていればいいという場合、語「人間」は (法則凝集語ではなく) 「凝集語 (cluster word)」であると言っている
日本語おかしくない
雑草という草はない
多重実現可能性: もし思考を実現するメカニズムが複数(多重実現可能)なら、思考の概念は実在すると言えるか?
これは、心的な概念(「思考」とか) が実在するかどうかに問題を投げかける。
説明の他の例:「水だから水素と酸素に電気分解可能」「鳥だから翼を持つ」「王だから権力を持つ」「面白いから笑う」「心臓だから血液を送り出す」「お腹が空いたから食べる」「かくかくという信念と選好を持つから、このように行動する(意志決定理論的説明)」 証拠能力は説明能力ではない
痕跡に証拠能力はあるが説明能力はない
逆は言えるか?
証拠能力と予測能力はそんな変わらないんじゃ。では予測と説明の関係は?
この方法では、「ゲリマンダー的」な、適当に論理操作で既存の述語を組合せた述語に対応する概念(「犬またはハサミであるもの」を表す「犬サミ」という概念 や グルー など)が実在しないことを保証できる
そこから新しく予測・説明できることはないので
トリヴィアルな予測(犬サミならば犬サミである)はもちろん除く。
「犬サミだから何なの?」
この点でクラス唯名論に対して、「普遍者の実在性=説明能力」説が直感に適合するメリットがある
これは自然種に基づく帰納の成功をも説明する (か?)
(説明するというより、帰納が成功することが予測ができるための条件なのでは)
循環定義の問題
If I knew what a law is, and if I believed that scientific theories consist just of bodies of laws, then I could say that P is a natural kind predicate relative to S iff S contains proper laws of the form "P_x -> α_x" or "α_x-> P_x"; roughly, the natural kind predicates of a science are the ones whose terms are the bound variables in its proper laws.
I am inclined to say this even in my present state of ignorance, accepting the consequence that it makes the murky notion of a natural kind viciously dependent on the equally murky notions law and theory.
Jerry Fodor "Special Sciences (Or: The Disunity of Science as a Working Hypothesis)"
「それを司る自然法則がある」ことが自然種の定義とすることの問題
「全てのエメバラはグレッドである」
エメバラ=2025年以前に発見されてエメラルドであるか、2025年以降に発見されてバラである
グレッド=2025年以前に発見されて緑であるか、2025年以降に発見されて赤である
は、自然法則のような形をしている。
これが自然法則でないとする理由が、「「エメバラ」が自然種でないから」だとすると、(自然法則の定義に自然種が出てきて) 循環定義になってしまう。
D.ルイスは (唯名論者という自称にも関わらず) 意味論などに自然的性質 (≒自然種) が必要だから自然的性質を原始概念として要請する、みたいな感じで概念の実在性みたいなものを理論に取り入れてる (D. ルイス "普遍者の理論のため新しい仕事" ) けど、説明力や予測力という観点が無いと自然的性質って結局なんのことなのかわからなくない?
それに対応するのがルイスの因果関係に関する論点なのか
因果的効力を持つ普遍者が実在的である、と言っても一緒だから
「どんな理論も原始概念を持つのだから理解できない概念 (この場合自然的性質) が残されても仕方ない」的なことを言う人も居るが、八木沢『分析哲学入門』への感想 で言ったとおり、おかしいと思う 「意味の最善候補理論」
自然種を発見するのが基礎物理学のみだとすれば、因果関係のメカニズムも単なる規則性に過ぎなくないと言えるためには基礎物理学に求められる必要がある?
説明をヘンペル的説明だとすると、やはりエメバラのような問題が出てくる
避妊薬を飲んだ男性が居た時、「その男性が妊娠しなかったのは、避妊薬を飲んだからだ」という説明が正しい説明になっていないことを指摘するためには、因果関係という概念に訴える必要があるが、そのようにすると因果関係とは何かを自然種と独立に特徴づけない限り、自然種の概念に「説明に役立つ」を含めることができない
(これは反事実的依存関係に訴えると、「その男性が妊娠しなかったのは、男性だからだ」も同様に因果的先回りになってしまうので、因果関係に訴えたからといって正しい説明か区別できるかわからない。)
「アヘンが人を眠らせるのは催眠力があるからだ」が説明ではないのは因果関係がないからで、因果関係がないのは催眠力が自然種でないから。自然種を"「[説明項]だから[被説明項]だ」の[説明項]になりうるもの"と定義するのは話が逆で、むしろ自然種の概念があらかじめ把握されていないと説明という概念を把握できないのでは
説明は不可謬的であるか。必然的であるか。
確率因果?
単に現に2つのことが起こった(相関)、というだけでなく、何らかの意味で必然的なつながりはやはり必要だろう (それがprima facieなものにせよ) →以下に相関だけに基づく自然種論の可能性について議論あり
「楽しいから笑うのではない。笑うから楽しいのだ。」(ウィリアム・ジェームズ)
この考えの場合、説明順序(半順序?)でより基本的なところにあるものはより実在しているとみなせるため、「実在の度合い」(あるいは順序、「より実在している」)のようなものを考えることができるかも いやもし (ブランダムらのいう) 説明順序の逆転が発生するなら反対称律が成り立たないから半順序じゃないけど、逆転するのは話の大局的/局所的などの文脈が違うからで、文脈を固定すれば半順序になるかなーと仮定している メカニズムは基礎物理の最も基礎的なレベルでは存在しなくなると思われる(メカニズムは更に基礎的な原因のことだろうから最も基礎的な原因にメカニズムはないはず)のだから、メカニズムの存在や単数性/複数性によって概念がリアルかどうかを分析するのは良くないのではないか
理論語の意味
ああ、デネットやLadyman & Loss は「予測力を持つとき実在」みたいに言っているから、これと同じか、たぶん
リアルパターンでは、説明力ではなく、予測力となっているけど
@asonosakan氏が言ってたのを聞いてたのに忘れてた
物理の話だったから脳内で関連がついてなかったようだ
いや、デネットらは、ビットマップより良い圧縮をするプログラムが存在するかという話をしているので、「説明に役立つ=実在」説 の話との対応は厳密ではないか。
将棋の囲いの実在性
因子分析とかも因果ではなく相関に着目して自然を切り取る
「説明」を重視すれば基礎物理学(クォークなど)が基礎的な概念を与えるし、「予測」に注目すれば (予測を導く元のデータが必要なので) 知覚可能な性質(赤い、丸いなど)が基礎的な概念を与える?
こっちは「説明に役立つ=実在」説に対し、「予測に役立つ=実在」説と言えるかも。
因果関係に触れない、確率に基づいた「自然をその切れ目に沿って切り取ること」の理論
リアル・パターンも因果関係には触れていないよね。
もし仮に「展性」「延性」「熱伝導性」「電気伝導性が大きい」が共通原因を持たなかったとしても、それらが伴って現れることが多いならば、それらの連言を「金属」として切り取って短い符号を割り当てることで (平均して) 短いメッセージで多くの情報を伝えられる
ここで伝えたい事象は?
一般に、確率が p(A&B) > p(A)×p(B)のときに短い符号を割り当てることで、平均的に記号列の長さを圧縮できる
少ないもののほうがあえて名前を必要とするのだという話(有標/無標)と逆のようにも見える
症候群(しょうこうぐん、英: syndrome、シンドローム)とは、同時に起きる一連の症候のこと。原因不明ながら共通の病態(自他覚症状・検査所見・画像所見など)を示す患者が多い場合に、そのような症状の集まりに名をつけ扱いやすくしたものである
精神病や障害が、「高血圧」のように症状の程度の問題でひどい大きさのものに名前をつけているだけなのか、「インフルエンザ」のように症状の背後に根本原因があってゼロイチで決められるのか (症状はそれを推測するためのものに過ぎずインフルエンザであるかを本当に決めるのは根本原因の有無という場合) を、(インフルエンザの場合の病原菌のような) 根本原因をあらかじめ知らなくても、症状を表す変数間の関係を見るだけで区別しようという統計技術
もし根本原因があるゼロイチのタイプの分類なら、
1) 全員インフルエンザの集団での高熱と筋肉の痛みの相関
2) 50:50で混合した集団での熱と筋肉の痛みの相関
3) 全員健康な集団での熱と筋肉の痛みの相関
では、一番大きいのは(2)のはず (また、ちょうど50:50のところで最大になる)。なぜならば、熱がインフルエンザを持っているかを区別するための基準として使える(使われることになる)から
ところで、ここではインフルエンザを持っているかどうかはウイルスを見て直接観測することはできないと仮定している
そこで、咳変数の値が中間くらいの場所で、健康な集団とインフルエンザの集団の割合が50:50になるようなところがあるはずである。(中間とは限らないが)
つまり、咳の量を変えていったときに熱と筋肉の痛みの相関があがっていき、最大になり、そこから下がるという感じなのか、それとも、咳の量を変えていっても相関は一定なのかを調べる
この統計的手法は数値でスペクトラムかゼロイチかを表すようなので、ある概念がスペクトラムかゼロイチかという問題自体がスペクトラムなのかゼロイチなのかを調べてほしいところ
因果検定、自然種検定
単なるクラスター説と違って、Yudkowskyのクラスター説? は性質間に相関を要求しているので「二本足である」「羽がない」→「人間である」→「毒を飲ませると死ぬことがある」のような推論ができる場合にのみ正しいカテゴリーになる
この記事の立場だと、相関を支えるより根本的な原因変数が存在するということは、単にそのように考えたほうが計算量的に都合がいいからというふうになっている
ayu-mushi.iconしかし、本当に根本的な原因変数が存在する場合が多いのではないか
背後に、どういう因果ベイジアン・ネットワークがありえるか
推論が可能になるのはダメットのボッシュに似ている
"生物種"みたいな背後にある原因に具体的には言及せず、観測可能な変数間の関係から「人間である」のような (直接観測不能な) 概念が措定されるということをナイーブベイズに基づいて説明する
「人間である」は、「言語を話す」「2つの腕を持ち10本の指を持つ」「衣服を着る」「ドクニンジンで中毒になる」「血が赤い」という観測可能な変数同士を条件付き独立にするような、そういう条件になるものとして導入される
これにより、観測可能な変数の確率から観測不可能な「人間である」の確率を推論し、さらに「人間である」の確率から他の観測可能な変数の確率を推論するという使い方ができるようになる
ある性質のクラスターがあったときに、それらが共通の原因を持つ場合のみ それらの複合 (たとえば「展性」「延性」「熱伝導性」「電気伝導性が大きい」の複合としての「金属」) を自然種と認める場合、複数の性質がお互いに強めあってアトラクターを形成しているためにそれらの性質間に相関が現れている場合はどうなるのか
アトラクター? 安定不動点?
うつ病はアトラクターかも
共通原因がある場合 (たとえば「無味無臭」「透明」「常温で液体」の原因は「H2Oの分子構造」というような) には、共通原因である「H2Oの分子構造」を満たさないなら、仮に元々共通原因が発見される前に同定するのに用いられた基準である「無味無臭」etc.を満たしていても、「真のXX(水)ではない」とすることが多そう
k-meansみたいなクラスタリングで捉える方向もアリかも
k-meansだと自然なクラスタが存在するかどうかに関わりなく無理やり割り振られてしまうが
kを増やしたとき 距離がどれくらい減るか
意味論との関係
対応する概念が実在しないなら、その言葉の意味も無いか?
色名「赤」が自然種ではないとしても、我々はその意味を共有してコミュニケーションできる
クリプゲンシュタインのパラドックスの解決に使えるか?
デイヴィッド・ルイスは、自然的性質を使えばクリプゲンシュタインのパラドックスが解決できるとしている(「普遍者のための新しい仕事」)。
クワスのような概念は自然的でないので言葉の指示対象になりにくい
これを参考に、「概念の実在 = 説明能力」説と関連付けてみたい
私が食事について「上品だ」は「少ない」を意味すると知った時、2つくらいの用例しか知らなかった (刺激の貧困)
つまり「「文P(a), P(b), P(c)...」 という事例」ではなく文脈から判断したのだ
そう仮定しないと説明できないような報告や説明、推論が行われているということだ (帰納ではなくアブダクション?)
"water"という言葉を使っている人の行動から水という意味をどうやって帰属できるか、どうして湿っていて無色透明というだけの意味ではないか?
水が単に外延をまとめたものなら、水の本性についての議論などがなぜ言葉の意味が違うわけではないのに不合意となるのか
変数とそれを結びつける相関関係や因果グラフが与えられたときに、変数名が知らない言語で書かれていて何を表す変数なのかをあらかじめ知ることはできないとして、その変数たちが現実にあるもの (「犬である」など) とどう対応しているのかをどうやったら確定できるか?
また、それぞれ別の言語で変数名が表現された同じような変数間の相関・因果構造が与えられたときに、それらの間の翻訳をどうやって確定できるか?
英語「smoke→cancer」vs. 日本語「タバコ→癌」
案1. いくつかの変数は知覚刺激と結びついている (色など)。それを何らかの手段で確定し、そこを基盤として他の変数が何を表しているかを確定する。
案2. ある言語における変数名と実在との間に何らかの因果関係が与えられるのでそこから確定する
意思決定理論
概念と分類の違い?
「心臓を持った生物」と「腎臓を持った生物」とは現実に居る生物の分類としては同じ (同じ外延) だが、異なる事象の説明/予測を可能にするため、別の概念である
外延が無限にある場合、数え上げることによって分類することはできないが、無限の外延を持つ概念は色々と存在する
意味習得における刺激の貧困
分類はMECEだったほうがいいかもしれないが、概念についてはあまりそうでもない 推論主義との関係
証拠と結論ではなく、原因と結果なのが推論と説明で違う?
いや、推論は証拠と結論に限らず帰結関係一般か
原因結果なら、時間的に前と後じゃなきゃいけないが、推論や予測においては、そのようなことはない
論理学においては(因果的)説明というものはないので、論理的概念についての推論主義はあっても、説明主義というのはない
上で考えたのは統計的予測なので一般的な推論主義と異なるが推論とも言えるだろう
規範的 prescritive, directive な概念/厚い概念の扱い
「権力を持つから王」ではなく「王だから権力を持つ」とできるなら王という概念は実在
「持っているから勝手に取っちゃダメ」
所有の歴史に訴えることで循環にならないように説明可能
再帰的説明
「契約だから守る」「守るから契約」
ダメットの「ボッシュ」(侮蔑語)の分析
「ボッシュ」のような誤った概念は、指示対象を帰属することもできない 規範的概念の説明順序は文脈によってよく入れ替わる
「勝手に取っちゃダメ(だった)だから所有物」「権力を持つから王」と逆に言える文脈もある
話の文脈を制度の発生(進化?)などの大局的なスケールにするとか
ブランダム「プラグマティックな説明順序の逆転」
状況によってある概念は実在的であったり、実在的でなかったりするだろう
状況によって「目が青いこと」は殺される理由の説明になるかもしれないし、ならないかもしれない
それに対する対応方法が同じとき、その内部構造やメカニズムは違っても、同じ概念に包括する場合、そのような概念をダックタイピング的概念と呼ぼう (例. ゴミ、餌)
これは傾向性性質と似ている。
ある概念が傾向性性質を表すかが定義より明らかと限らないのと同様、ある概念がダックタイピング的概念かどうかも定義より明らかとは限らない。
ミリカン「歴史的種」
多少アノマリーがあっても説明力・予測力を持つ概念は実在的である
と思ったが、こういうことを言う状況は確証バイアスの懸念を人に催させるよね
たしかに、アノマリー多少ってレベルじゃなくあるだろ、みたいな状況であれば、ダメというので正しい
確信の強さと検証度合いがちゃんと対応することが大事
予測力抜きに説明力だけにするとやはり確証バイアス丸出しな感じになってしまうので注意
反証主義の現代的意義は、帰納の懐疑の解決というより、確証バイアスへのカウンターとなることだろう(本当か? 確証バイアスがいけない理由を反証主義で説明したら、循環論法になる。仮説検証方略として、ポジティブテスト、ネガティブテストそれぞれの有効性から議論すべきか)
cf. ポパーによるフロイト、マルクスに対する批判
唯名論の意義も、ひょっとしたらそうかも?
Thanks to hindsight bias, it’s also not enough to check how well your theory “predicts” facts you already know. You’ve got to predict for tomorrow, not yesterday. It’s the only way a messy human mind can be guaranteed of sending a pure forward message.
理論⇔法則、概念⇔本質(種)、説明⇔因果、確信する⇔実在する
対応関係:「○○の本質/法則は実在する」といっている人は、○○の概念/理論を確信している
命題と事実の対応関係と似たようなものか?
ブランダム(ヘーゲル)の観念論テーゼ
主観サイドと客観サイドの対応
観念論と真理の同一説の関係
知覚との関係
知覚される相貌のパターン(生得的なモジュールによる顔認識)は実在的である
知覚される側とする側の共進化?
話を進化や制度の発生のような極端に大局的なスケールや逆に生理学などの極端に小さいスケールにしたりすると、「面白いから笑う」ではなく「笑うから面白い」のように説明順序が逆転する現象がある
「心臓だから血液を送り出す」ではなく「血液を送り出すから心臓」
説明の再帰が増えるたびに昔に遡っていくことが保証されていれば、時系列が無限降下列を含まない限り、説明は循環せず、有限時間で停止する
循環してなければいいんじゃないのか。有限時間で停止する必要べつになくない
スキナー「〈お腹が空いている〉という概念はただの食べる傾向性であって、お腹が空いているから食べるというのは循環論法、説明能力がない」
お腹の内容物に関する知覚ではないのか
目的機能
概念は定義される(できる)とき、そのときに限り正当(実在)と認められるという立場(唯名論?)と対立
定義される概念はまた定義される必要があるが、遡っていくと?
経験論的唯名論者「概念は定義可能なときにのみ正当。概念を定義するのに使う概念が最終的にセンスデータについての概念にまで遡られるとき、正当とみなせる」
それだと、水のような概念も実在しないと判定されそうである
基礎物理的概念への還元はイケるような気もするけどどうだろう?
生物学概念とかを還元するのが難しい
統計的・歴史的な概念があるし、多重実現可能だったりするから
物理的概念自体が実在することが何かはやっぱり別の説明を与えなくちゃいけない(循環説明の心配)
議論によって使用することが正当な概念は、相手が知ってる概念から定義できるものだけ
これは概念の正当性の基準としては正しそうだが、実在性の基準にはならない。
この唯名論?は概念の正当性と実在性についての、厳密でステップバイステップな基準を挙げてくれるように見える点に、魅力がある
「説明力/予測力があるなら概念」という立場が、これに匹敵する厳密性の基準を提起することはできるか?
メカニズムを挙げること?
ヘンペルの科学的説明の理論は、因果的必然性ではなく論理的必然性をもとにしたものだ
赤くて青いものは存在しない
因果力(必然的な結果)を持つ概念、(論理的)推論力(必然的な結論)を持つ概念
逆にさっきの「犬サミ」のようなゲリマンダー的概念は定義できるので正当と認められてしまう
個物に先立つ普遍 universals ante rem
「先立つ」は因果関係? 説明順序?
「Aさんは人間だからAさんには人間のイデアが分有されている」ではなく「Aさんに人間のイデアが分有されているからAさんは人間なのだ」
↑それは個物に先立つかどうかの話ではないような。
個物に先立つとは、個物が存在する理由が普遍が存在するからになっていること?
個物の中にある普遍 universals in re
個物の後の普遍 universals post rem
post remは物を認識した人間の作る概念
「腎臓を持った生き物」と「心臓を持った生き物」との違いは外延の違いではない
もし普遍者が現に人によってそれが適用される個体を寄せあつめたクラスに尽きるとしたら、誤りということはありえなくなってしまう (誤り可能性からの論証)
esse と existence
この場合の概念の実在というのは、「変項の値になる」というような意味のexistenceより、「本質存在」のesseに近い
アヴェセンナ、アクィナス
単なる傾向性性質(「溶けやすい」とか)は、実在しない概念?
単なる傾向性が説明能力を持たないの、不思議だ
結果と言えそうなものを挙げること自体は常に可能なんだけど
プラグマティズム的には多重実現可能な概念や単なる傾向性ってリアルなのだろうか
催眠力を持っている→阿片が人々を眠らせる は予測としては別におかしくない気もする
そして傾向性の帰属により安定した予測が可能だったりもするのではないか。
→「新しい予測ができる」わけではないから、ダメなんじゃないか。
新しいというのはどういうことか
性の実在性
トリカエチャタテについて、「表と裏が反対になった5円玉というのとどこが違うの?」
小さい方の配偶子を作るという性質と大きい方の配偶子を作るという性質から色々(交尾に掛かるコストの差異など)派生するが、性染色体がXYとかZWとかは生物によって異なる
その配偶子の大きさの非対称性が、生殖戦略の違いなど性の特徴とされる色々なことを説明する内的なメカニズムとなっているため、「メスだからかくかくの生殖戦略を取る」という説明は循環的でなく妥当なメカニズムの説明となり、ゆえに性は実在するのではないか。
つまりメスは配偶子の生産コストが高いのでたくさん交尾するよりも、厳選するほうが適応的。
バトラーは、「そもそもセックスとは、自然なのか、解剖学上のものなのか、染色体なのか、ホルモンなのか」
女性ホルモンではなく男性ホルモンによって胸が大きくなる突然変異が少数観測されたとすると、少数である以上依然として「胸が大きい」と「髪が長い」の間には確率的従属関係が存在するが、性別について条件付けするとその相関は消滅する (条件付き独立)
Carl Hempel 1959 "Logic of Functional Analysis"
Transcendental realism attempts to establish that in order for scientific investigation to take place, the object of that investigation must have real, manipulable, internal mechanisms that can be actualized to produce particular outcomes.
超越論的実在論は科学的探求が成立するためには、探究の対象は実在するものであり、操作可能なものであり、個別の結果を現実に導くような内的メカニズムになっていなければならない、ということを確立しようとする。
因果関係の実在を疑う物理学者が居るのって、単に認識論上の面倒さとかではなく、物理学の概念として実際いらないってことなの?
関数的関係って因果関係の代わりになるんか。「必然的な関数的関係」だったら要は因果関係の一種ではないか。
必然性は無しでイケるということか。
生物種の実在とかはどう扱うか。実在する概念なのか。生物種による説明はどんなのがあるか。
「これはミツバチじゃなくてハナアブだから刺さないよ」とか。
別に刺さないミツバチをアドホックにハナアブと定義したわけじゃなくて、ちゃんとミツバチからはミツバチが生まれ「刺す」ということが遺伝的に継承されるが、ハナアブについては逆というように、背景となるメカニズムが存在するし、ハナアブは羽が一対しか無いとか祖先が全然違うとかがあり、それにより有効な説明や予測が可能だ。ゆえに、「ハナアブ」という概念は実在的である。みたいな。
(ミツバチとハナアブが類似している理由として擬態という系統的メカニズムがあることは、これらを含む上位カテゴリーが存在すべきということを導かないのか)
相貌は実在する普遍者か
相貌失調という事例が存在するのが興味深い
相貌の存在は観測者に依存するか?(たぶんイエス)観測者に依存するなら、実在しないってことになるのか?(この説明役割理論によると、答えはノーだ)
色は実在する普遍者か
これも共進化性質だろうか?
老害は実在する普遍者か
人種の実在性
ある生物集団が、そのもっぱらその集団内でインブリードしている場合、その集団内の個体がお互いに類似している根拠となるメカニズムが存在する(恒常的性質クラスター)。そもそも性質とか類似性とか言ってる時点で、自然種を前提にしているので、恒常的性質クラスター説ってのは自然種の基礎理論ではなく、基本的な自然種が与えられた時それを組み合わせて自然種を作る複合の理論
These authors adopt Boyd’s Homeostatic Property Cluster (HPC) theory of natural kinds. HPC theory assumes that natural kinds are groups of entities that share stable similarities. HPC theory does not require that species are defined by traditional essential properties. The members of Canis familiaris, for example, tend to share a number of common properties (having four legs, two eyes, and so on), but given the forces of evolution, no biological property is essential for membership in that species. For HPC theory, the similarities among the members of a kind must be stable enough to allow better than chance prediction about various properties of a kind. Given that we know that Sparky is a dog, we can predict with greater than chance probability that Sparky will have four legs.
HPC kinds are more than groups of entities that share stable clusters of similarities. HPC kinds also contain “homeostatic causal mechanisms” that are responsible for the similarities found among the members of a kind. The members of a biological species interbreed, share common developmental programs, and are exposed to common selection regimes. These “homeostatic mechanisms” cause the members of a species to have similar features. Dogs, for instance, tend to have four legs and two eyes because they share genetic material and are exposed to common environmental pressures. An HPC kind consists of entities that share similarities induced by that kind’s homeostatic mechanisms. According to Boyd, species are HPC kinds and thus natural kinds because “species are defined … by … shared properties and by the mechanisms (including both ”external“ mechanisms and genetic transmission) which sustain their homeostasis” (1999b, 81).
それは帰納の成功を説明し、自然種と考えられるのではないか。
たとえば、地理的な近接・隔離による生殖隔離が、恒常的にグループ内での類似性を生み出す、因果的なメカニズムとなる。
全員に共通の性質がなくてもいい。ただ2人を取ったときにお互いに似ている点があるという「家族的類似性」(文字通りの意味で)がある。(それで本当に帰納できるんか?)
しかし、未来、の個体に帰納が成功するかどうかは、インブリードの具合が変化するかどうかにも依存している (それは社会的な変化とも関係するだろう、ワンドロップルールによって異人種間の交配が避けられたように)。
未来の個体に帰納が成功しないとしても、ある集団の現在の個体の予測には使える。
近交係数によって血縁集団の実在の度合いを測る
そうだとしたら、「黒人」は自然種ではないが、「アフリカ系アメリカ人」は自然種ということになる。
遺伝子は離散的なので、人種内に言葉で言い切れないほどの共通性があることは不可能ではないだろうか
犬種と人種
Fools who argue that race doesn't exist because (a) every person has a unique genetic makeup and (b) there aren't always clear boundaries indicating where one race ends and another begins must also accept that all other somewhat arbitrary but meaningful distinctions don't exist:
Language doesn't exist: (a) every person has a unique set of speech patterns and vocabulary (idiolect) and (b) there are intermediate dialects between Russian and Ukrainian, Spanish and Portuguese, and between many other languages. Therefore we can not only say that 'Russian doesn't exist' and 'Spanish doesn't exist', but that 'language doesn't exist' by the logic of race deniers.
歴史的種(ミリカン)としての人種
> 「共通の公共言語」という概念は未だ謎のままである…いかなる形の理論的説明にも役立たない…私の知りうる限りでは、意味と言語の外在主義理論のこの鍵概念を理解する方法は全くないし、この概念に依存する意味理論や言語哲学の仕事もそうだ。(チョムスキー 1995:48-9)
>
> 「共同体言語」や「抽象言語」のような概念にずっと依存し続けているのにもかかわらず、それがどういうものか説明しようとする試みが全くないのが印象的だ。(チョムスキー 1993:39)
>…
チョムスキーへの不同意に聞こえるようなことを大胆に示したが、公共言語についての一般的見解に対する彼の反論には、私は全く同意である。「オランダの国境近くに住む人々はドイツ側に住む人々と非常によくコミュニケートできるが、ダメットが基本的と主張する用語の意味に従えば、彼らは異なる言語を話している」(チョムスキー 1992a:101)。公共言語は交錯し重なり合う慣習の無秩序な集積であり、あるものはある人々に、他のものは他の人々に知られている。ドイツ語・オランダ語・フランス語というような明確な部分に分かれていない。
言語は実在しない、チョムスキーが言ってるやんけ
直接説明再命名心理学症候群(Direct Explanation Renaming Psychology Syndrome)
しかしなぜそうなのかを知るには因果を考察する必要がある.イデオロギー,政治的パーソナリティ,その他のシンボリックなアイテムと政策の賛否はどこまでも相関分析にしかならないし,因果を語れば循環論法に陥りがちだ*1
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へえそういう病気だからなんですね
いや私がいま発見して名付けた。
「○○という現象に名前付けたい」って言う人、名前が分かれば解決したと思うタイプだな。「地震でもないのに部屋のものが勝手に動き出して怖い!」ってときに「ポルターガイストだね」というと「なんだポルターガイストか~」と何も解決してないのに安心するやつだ。名前解決くんと呼ぼう
直接説明再命名心理学症候群もそういう自己言及ジョークなのか文脈が無いのでいまいちわからないぜ!