ドナルド・デイヴィドソン『合理性の諸問題』
最後に私は、信念と欲求、およびその他のすべての態度は言語に依存すると主張したい。事実、この繋がりは哲学者たち、とくにアメリカのプラグマティストたちによってしばしば当然のこととみなされてきた。ミード、ドューイ、ジェームズ、パース、ウィルフリド・セラーズは皆、実質的に「複雑さの多少にかかわらず、いかなる思考も明らかに言語を必要とする」と述べているのが見出せる。A・J・エアーもまたこの見解を支持していた。しかしながら、私はそれを当然のこととはみなさず、私が強力な論証だと思うものをいずれ提示したい。
(p.39)
p.218 "この種の知覚的な外在主義は、理論の解釈のなかに還元不可能な因果的要素を持ち込んでくるので、この理論が、法則からあらゆる因果的概念を放逐すべく努力しそれに成功した物理学の真似をすることは、望むべくもない。"
因果の概念を使って心を自然化できるとする自然主義者と逆に、合理性の科学 (素朴心理学) が因果的な概念に頼っているために科学的であるための障害になる可能性があるという考え (この後でそのことは実際には障害にならないと言っているが)
p.226 「思考に必要なもの」
ayu-mushi.iconタコに文字の識別をさせる話を機械学習に読み替えてみると面白いかも。
普通は学習データと評価関数が外的に正しさの基準を設定する
ayu-mushi.icon「ニューラルネットワークは関数fを近似するf'を作ります」
「でも任意のニューラルネットワークは、それ自体関数でもあります。よって、ニューラルネットワークが近似したいfが現在のf'そのものだとする解釈によって、あらゆるニューラルネットワークを、正しい、誤差のないものとみなすことができます。」
私の見る限り、われわれがもっとも自然と考える分類に基づいて、そこから逸脱するものを誤りとみなすという誤りの説明は、どのようなものであれ、誤りの本質には達していない。p.235
ルイスの自然的性質に基づく意味の理論だ >"われわれがもっとも自然と考える分類に基づいて、そこから逸脱するものを誤りとみなす誤りの説明" 意味の最善候補理論 3.2.3 Reference magnetism
David Lewis (1983, 1984) gave a version of this kind of response, which he credits to Merrill (1980), and which has since been quite influential. His idea was that the assignment of contents to expressions of our language is fixed, not just by the constraint that the right interpretation will maximize the truth of our utterances, but by picking the interpretation which does best at jointly satisfying the constraints of truth-maximization and the constraint that the referents of our terms should, as much as possible, be “the ones that respect the objective joints in nature” (1984: 227).
Such entities are often said to be more “eligible” to be the referents of expressions than others. An approach to the foundations of meaning based on the twin principles of charity + eligibility has some claim to being the most widely held view today. See Sider (2011) for an influential extension of the Lewisian strategy.
//人間は動物でないという人を見たら、動物かどうかについて違う基準を持っているという考えと、誤っているという考えがある
//たとえば法学者が命題という意味で事実と言っているのは、違う基準を持っているんだなあとなるが、人間は動物でないというのは微妙な感じ(それは、命題も事実と同様自然なクラスだから。いっぽう、「人間以外の動物」というのは自然なクラスではない。)
以下大まかな解答の道筋を示しておこう。まず、誤表象(心的内容一般)を単なる外からの解釈としてしまわないためには、1 人称的観点からの何らかの「誤りの認識能力」が必要であることが論じられる。次に、デイヴィドソンによる似た誤りの認識の要請が強すぎることを見た後、形式的信念変化理論におけるアップデートと改訂の区別に基づき、論点先取とならない「ミニマルな誤り認識能力」として信念改訂能力を捉えることを提案する。このとき発達心理学のデータが説得的な論拠を提供するであろう。この誤り認識能力に基づく規則遵守問題への解答を見た後、それを 3 人称的観点から再構成し、選言問題の解答とする。(これはさらに、クリプキ的指示の理論との対決、およびクリプキにより「群概念理論」として退けられたウィトゲンシュタイン流の意味論の復権へと繋がるが、そこまで展開する時間は恐らくないであろう。)
なお、本発表は拙訳 F・ドレツキ『行動を説明する~因果の世界における理由』(勁草書房、2005 年)の訳者解説と密接に関連している。そちらをまず読んでいただければ、本発表の内容は格段に理解し易くなるであろう。(もちろん読んでない方にも理解できるよう最大限配慮するつもりである。) p.237 タイラー・バージの知覚内容の理論に対する、ターゲット固定問題と誤り可能性に基づく批判だ
p.241 選言問題っぽい事例
盲人と聾者の二人の男がいると想定してみよう。盲人の方は殺害の宣告を聞き、銃声を聞き、そして被害者の悲鳴を聞く。聾者の方はその現場を見ている。二人の感覚経験は、それぞれの固有性によってこれ以上ないほど左右されている。感覚から得られる最初の情報、つまり最初の推論は、もう少し似たものになるだろう。例えば一方は大声を上げる男の観念、そして他方は脅迫的な面相の男の観念を持つかもしれない。しかし二人の最終的な結論、つまり感覚から最も隔たった考えは同一であり、それぞれの特有性からくる一面性から独立である。したがって、すべての問題には真の解、最終的な結論があり、これへ向かってすべての人間の意見は常に収斂しているのである。(EP1: 89)
デイヴィドソン: ターゲット固定問題を、「複数の人が同じ記号sを産出しているとき、その最も近位な共通の原因を指すものをsの指示対象とする」として解決してる?
//性質のターゲット固定問題と、個物のターゲット固定問題