戸田山和久『哲学入門』
序 これがホントの哲学だ
戸田山さんはデネットの物理的構え、デザイン的構え、志向的構えの話はいまいち気に食わないらしい p.27
第1章 意味
p.74 解釈主義だと解釈者が必要なので循環的としているけど、解釈者なしの解釈主義 (表象ができるだけ真になるような解釈を割り当てるというために解釈者が必要なわけではない) というのもあるのではなかったっけ
チャリティ原則に加えて、人間性の原理 (相手に自分と似たような信念・欲求を帰属する) を使用する場合、解釈者が信念を持っていることを前提にしてしまうか
(そのような解釈主義においては解釈者のみが本源的志向性を持つ?)
チャリティ原則だけの場合でも、「真」という意味論的概念を使っているので自然化として十分でないらしい (Barry Loewer "A Guide to Naturalizing Semantics")
選言問題、ターゲット固定問題
ターゲット固定問題を一般化した「内容の一意性 (不確定性) 問題」というのが考えられそう
(追記: 実際にindeterminacy problem という言い方はされており、M Artiga "Beyond Black Dots and Nutritious Things: A Solution to the Indeterminacy Problem"ではその中でターゲット固定問題に当たるものを horizotal indeterminacyと呼んでいた
"the problem of distal content"とも言われているっぽい)
p. 89 ayu-mushi.iconトムの祖先 (を含む集団) は現実にはずっとネズミだけに遭遇してきたとする。しかし、反事実的な歴史として、仮にモグラとも遭遇していたとしても同じような進化をしてきたとしたらどうなるか(それはフォーダーのBB弾の例と似ているけど)
猫の進化してきた環境において、モグラも居たとした場合、表象に対する行動(「ネズミ捕食」や「狩りの練習」)の仔細が変わっていただろうから、消費者と生産者の組が現にこの通りに存在することを説明する上では役に立たない?
つまり、そのような仮想的状況においては、捕食するときの飛びかかり方が微妙に違っていて、ネズミにもモグラにも対応できるような飛びかかり方になっていたのかもしれない
あるいは、そもそも猫の進化してきた環境においてモグラも居たという可能世界では、ネズミとモグラを識別する能力が進化してきたため、モグラを見てもその表象が形成されなかったのかもしれない
(ここはなにかおかしい。個体について直接機能を考えているのか、集団について機能を考えているのかのは区別する必要がある。
表象の利用の仕方はここでは生得的と仮定しているのだから、その仔細が変わるというのはトムという個体の観点から見れば、トムが生まれなくて別の誰かが生まれていたということになる。具体的には、トムの先祖は突然変異で偶然ネズミに特化した対応方法の素となる形質に至ったが、その環境ではモグラも居たため汎用的な対応をする他のネズミに対して競争で優位にならなかったのだろう)
p. 96 フォーダー。「ハエを食べてきたということが生存に役立ってきた」というのは正しい因果関係だが、「小さくて黒くて動くものを食べてきたことが生存に役立ってきた」というのは因果関係を正しく表していないのでは
つまり、「目の前にハエが存在する」ということは、消費者が表象を受け取ったときに生み出す舌を出すという行動が、その機能を果たすための正常な条件であるが、「目の前に小さくて黒くて動くものがある」ということは、正常な条件ではない
反事実的状況で、カエルの祖先の居る環境で、BB弾が飛び交っていたとしたとき、それに舌を伸ばして食べたとして、今あるような生産者と消費者の組を持った生き物がそれを持っていない生き物に比べ増える上では役に立たなかっただろう
しかし、食べて生存に役立つ上で「栄養がある小粒の物体」ならそれが仮に肉の球などであったとしてもいいだろうから、それとハエを区別できるわけではなさそう。(祖先たちがハエの代わりに空中にポップする肉の球を食べていた反事実的な世界では、舌の伸ばし方bが現在の舌の伸ばし方aに対し競争優位になる、ということはあるかもしれない
反事実的状況を考えたとき、その状況では注目している現在の個体は存在しないので、代わりに舌の伸ばし方bが競争優位になっていた場合、そこで残る個体は、現在注目している個体やその祖先の対応者ではない。
)
フォーダーは自然淘汰は外延的に働くと言っているが、表象システムがこのように存在している原因という因果関係に訴えている時点で、機能という概念には既に内包性が持ち込まれているような印象を受ける
「ショウジョウバエ、もしくは〈何かしら栄養のある生き物の名前〉」
目的論的意味論を採る論者がこの問題にどう対処するかは一様ではない。だが私は かつて、目的論的意味論のなかではミリカンの立場が最も妥当なものであると信じ、表象を利用するメカニズムの機能の観点から、その表象の内容はハエに関するものであると見なし、「小さく黒っぽい動くもの」は“selection for”と“selection of”の区別に訴えることによって排除されると単純に考えていた。
因果関係の反事実的条件法分析を使うなら、因果関係を使っている時点で内包性を持ち込んでいるということになるだろう。
ミリカンは因果関係は実は内包的ではないと言っているけども
(ここでの表象は「獲物」を意味する、「獲物」がなんであるかは、(先祖の) 消化能力に依存する)
フォーダーのこの例が反例になるなら、本当はターゲット固定問題だって解決できていないことにならないか
偶然にも、「視神経が発火したこと」と、「目の前にハエが居ること」が完全に共外延的 (自然淘汰の歴史において、幸運にも、視神経が発火したときは、いつも目の前にハエがおり、目の前にハエが居たときは、いつも視神経が発火してきた。) だったとしよう。
そうしたら、「視神経を発火させるような状況において舌を伸ばしたことが、この表象システムを持った生物の生存に役に立ってきたために、トムはこの表象システムを持っているのだ(これは正しい因果関係ではないだろう。しかし、単なる相関関係と正しい因果関係を外延的な概念だけでどう区別できようか)」だから「表象は「視神経の発火」を意味するのだ」と言えてしまわないか
トムの先祖が進化してきた環境において誤りの事例にすでにめぐりあっていたという想定と、トムが完全に新しい誤りの事例に会うという想定が考えられる
フォーダーのカエルの例がでてくる論文を探したら、"Against Darwinism"という迫力のあるタイトルの論文が出てきた。
But "adaptation for…’', "selection for…’' and the like are themselves intensional contexts (just like "belief that…’ and `intention to…’.)
反事実的な状況を考えるためには自然法則が必要だが、(何が子孫を残すのにつながるであろうかは環境に依存するため) 「○○→子孫を残す」という反事実的条件法を裏付けする自然法則が存在しないことを問題にしているっぽい
進化心理学の中心的主張である心のモジュール性はフォーダーによって提唱されたが、フォーダー自身は進化心理学には否定的
この点は、ミリカンは「正常な説明」の概念によって対処しているっぽい。
つまり、カエルの生存は、黒い小さいものを食べたことによってではなく、ハエを食べたことによって説明される。
第2章 機能
第3章 情報
p.152 マルコフ過程の説明ってこれであってるの abcというメッセージが与えられたときそれぞれをP(a|b,c)P(b|c)P(c)のように分解できるということ?(それは自明に成り立つか)
マルコフ情報源、定常情報源、エルゴード情報源
エキヴォケーション(equivocation)
$ E(r_j) = - \Sigma_i p(s_i|r_j) \log_2 p (s_i|r_j)
エントロピーの定義と似てる
条件付きエントロピー?
$ H(S | r_j)という条件付きエントロピーなのでは
つまり受信側のある事象で条件付けしたときに残る、送信側の条件付きエントロピー
https://gyazo.com/c395cfd4e6b31882fde0a2bee1a68913
注4がついてる文: s_1の持つ自己情報量と一致するというのは分からない
全部同じだから代表としてs_1を選んでる…と思ったけど、条件付き確率p(s_i | r_1)が全部同じだからって、元のs_iが同じとは限らない
送信側の事象同士は等確率という仮定をおいている? (以下の考察の結論。送信側の事象同士が等確率という仮定がないとここに書いてあることは成り立たない。)
条件付き確率p(s_i | r_1)が全部同じと仮定すると、
$ E(r_j) = - \Sigma_i p(s_i|r_j) \log_2 p (s_i|r_j)
の中身はくくり出せて、
$ = - \log_2 p (s_k|r_j) \Sigma_i p(s_i|r_j) (for any k)
全確率の公式から、
$ = - \log_2 p (s_k|r_j) \times 1
$ = - \log_2 p (s_k|r_j)
となる。
たしかに、
p(s_i | r_j) = p(r_j/s_i)p(s_i) / p(r_j) (ベイズの定理)
で、送信側の事象がお互いに等確率とし、条件付き確率p(r_j | s_i)をみな同じとすると、(その逆確率にあたる) 条件付き確率p(s_i | r_j)もみな同じになる。
r: receiver
s: sender
{p(s_1), p(s_2)} = {3/4, 1/4}のように、Sの事象が等確率でない場合はどうなるか
Sが等確率でないところから条件付き確率を等確率
p(s_1|r_1) = p(s_2|r_1)
に持っていくために、
p(s_1 | r_1)= p(s_1&r_1)/ p(r_1)
=
p(s_2 | r_2) = p(s_2&r_1) / p(r_1)
つまり、
p(s_1 & r_1) = p(s_2 & r_1)
table:s\r
送\受 r_1 r_2
s_1 x ? 3/4
s_2 x ? 1/4
2x ? 1
となっていてほしい
これを満たすには、
table:s\r
送\受 r_1 r_2
s_1 1/8 5/8 3/4
s_2 1/8 1/8 1/4
1/4 3/4 1
とすればいい。
通信路行列にすると:
$ \begin{pmatrix}s_1 &s_2\end{pmatrix} \begin{pmatrix}p(r_1|s_1)&p(r_2|s_1) \\ p(r_1|s_2)&p(r_2|s_2)\end{pmatrix}
$ = \begin{pmatrix}s_1 &s_2\end{pmatrix} \begin{pmatrix}1/6&5/6 \\ 1/2&1/2\end{pmatrix} = \begin{pmatrix}r_1&r_2 \end{pmatrix}
$ \begin{pmatrix}3/4 &1/4\end{pmatrix} \begin{pmatrix}1/6&5/6 \\ 1/2&1/2\end{pmatrix}
$ = \begin{pmatrix}3/24+1/8 & 15/24+1/8 \end{pmatrix}
$ = \begin{pmatrix}6/24 & 18/24 \end{pmatrix}
$ = \begin{pmatrix}1/4 & 3/4 \end{pmatrix}
https://gyazo.com/c867cb6c355880dcfc6aee44107bda0e
(ベイズの定理を使うと、尤度P(r_j|s_i)が書いてあるのから事前確率P(s_i)を使って、P(s_i|r_j)が分かる)
通信路線図を使って言うと、もしr_jに至る線で確率が0でないものがたかだか1つ (それは確率1だ) のとき、そのときに限り、r_jのエキヴォケーション E(r_j) は0になり、r_jが情報を担うことができる。(r_jからそのただ1つの道をつたっていけるところへ情報が伝わる。)
これは、送信側の結果に関わらずコインを振って受信側を決めるというのではなく、もし送信側がs_1と来たら受信側はサイコロを振って1の目が出たらr_1、それ以外の目が出たらr_2。
一方、もし送信側がs_2と来たら今度は受信側はコインを振って表が出たらr_1, 裏が出たらr_2を返す、ということをしている。
つまり送信側がs_1と来る確率の方がs_2と来る確率より高いので、ある受信側の事象eが起こったときに、s_1が来る確率をs_2の来る確率とバランスさせるには、s_1を受け取ったときは低確率、s_2を受け取ったときは高確率で同じ受信側の事象eを起こす必要がある。(通信路行列はP(r|s)という形をしているけれど、受信側から送信側についての情報を得るときにはP(s|r)という逆の形を計算する必要があることに注意。)
脱線:
送信側の事象を「コロナウイルスに罹患している」,「していない」としてみるといいかもしれない。
受信側の事象は「陽性」,「陰性」
陽性と出たときのコロナウイルスに罹患している条件付き確率と、陽性と出たときにコロナウイルスに罹患していない条件付き確率をちょうど同じにしたいとしたら、その検査の感度 (罹患している者が陽性になる確率) をどれくらいになるようにするべきか。
それらがちょうど同じときに、陽性という検査結果からコロナウイルス罹患有無へのエキヴォケーションが最大になる。
これでちょうど、p(s_1|r_1)=p(s_2|r_1)=1/2と、条件付き確率が等しくなった。
一方 p(s_1|r_2)=5/6, p(s_2|r_2)=1/6
ここでエキヴォケーションを計算してみよう
$ -(1/2) \log_2 (1/2) - (1/2) \log_2 (1/2) = 1
これはさっき貼ったp.172が言うように、送信側 s_1の自己情報量と同じか? 違う!!
s_1の自己情報量は、- log_2 3/4 = -(1.58- 2) =0.42 だ
一方、RがSを完全に無視した場合 (確率変数S,Rが独立の場合) と比較してみよう
table:s\r
送\受 r_1 r_2
s_1 3/8 3/8 3/4
s_2 1/8 1/8 1/4
1/2 1/2 1
通信路行列にすると:
$ (s_1, s_2) \begin{pmatrix}p(r_1|s_1)&p(r_2|s_1) \\ p(r_1|s_2)&p(r_2|s_2)\end{pmatrix}
$ = (s_1, s_2) \begin{pmatrix}1/2&1/2 \\ 1/2&1/2\end{pmatrix} = \begin{pmatrix}r_1&r_2 \end{pmatrix}
この場合のエキヴォケーションは、Sの元々のエントロピーと同じだ。
なぜなら、
$ E(r_j) = - \Sigma_i p(s_i|r_j) \log_2 p (s_i|r_j) (エキヴォケーションの定義)
$ = - \Sigma_i p(s_i) \log_2 p (s_i) (p(s_i|r_j) =p(s_i) (SとRは独立))
$ = H(S) (エントロピーの定義より)
p(s_1|r_1)=p(s_1)=3/4 (独立性から)
p(s_2|r_1) =p(s_2)=1/4
$ - (3/4) log_2 (3/4) - (1/4) log_2 (1/4) = -3/4(1.58-2) + 1/4\times 2 = 0.815
ふむー、SとRが独立の場合(2つ目)より、条件付き確率が一致したとき(1つ目)のほうが、エキヴォケーションは大きい。
まあ、それはそうだ。なぜかというと、エキヴォケーションの式はエントロピーの式を条件付き確率に変えてあるだけで、エントロピーのときは各事象の確率がみんな同じだったときが一番大きかったのだから、エキヴォケーションでも、各事象について、s_1で条件づけしたときの条件付き確率がみんな同じだったときが一番大きくなるのだろう。
2 - 0.815
0.2 - 0.815
送信側のエントロピーから平均エキヴォケーションを引くと相互情報量になる
平均エキヴォケーションが0なのは、送信側のエントロピーI(S)と相互情報量I(S;R)が等しいとき
まあ負のエキヴォケーションというのはないので、平均して0になるというのはエキヴォケーションが全部0ということで、全ての受信側の事象が情報を伝えるのは、送信側のエントロピーH(S)と相互情報量I(S;R)が等しいときと言える。
H : エントロピー
I : 相互情報量
H(X,Y) = H(X) + H(Y) - I(X;Y)
I(X;Y) = H(X) + H(Y) - H(X,Y)
I(X;Y) = H(Y) - H(Y|X)
I(X;Y) = H(X) - H(X|Y)
H(X|Y) = H(X) - I(X;Y)
どうもドレツキは相互情報量の概念にも、平均ではない、個別の事象に関するバージョンを定義していて、それを「伝わる情報」と呼んでいるっぽい (送信側の個別情報量 - 個別エキヴォケーション)
しかし、彼の定義に基づく個別的な相互情報量を平均していっても、ふつうの平均的な相互情報量が得られるわけではない (そもそも送信側の個別情報量の部分に送信側のどの事象の情報量とすればいいのか分からない) と文句をつけられていた。
Dretske’s aim of modifying the standard theory of information to make room for the information contained in individual messages is worth pursuing. The problem is that his formal resources suffer from some technical difficulties. The least serious of them is the use of ‘signal r_a’ in the defin- ition of I(s_a,r_a) (Equation (11)): r_a is not a signal but one of the states
of the receiver. I(s_a,r_a) should be defined as the amount of information about the state s_a of the source contained in the state r_a of the receiver. It is even more troubling that Dretske uses the same index ‘a’ to denote the state of the source and the state of the receiver, as if there were some special relationship between the elements of certain pairs (s, r).
…
…
If S and R are completely independent, the values of E and N are maximum (E = I(S) and N = I(R)), and the value of I(S, R) is minimum (I(S, R) = 0). 〔これはさっきの結果と矛盾するように見えるけど、平均版のエキヴォケーションについて言っているのであって、さっきのは個別版のエキヴォケーションだったから、平均的なEの最大値を超える値が出てもおかしくない…はず〕
相対性理論では、情報を光より速く送ることはできないと言っているが、ドレツキの情報の流れの概念だと、因果関係が必要無いので、幽霊チャンネルを使うことで光より速く情報が流れることができる。
sがFであるという情報を伝えるには、信号が伝える量は「sがFである」という情報量と同じ情報量じゃないといけないって書いてあるけど、なぜ情報量が増えてはいけないのかが分からない
→「信号が伝える量」というのは、信号自体の情報量のことを言っているわけではなく、その中で自分自身以外についての情報を伝えている部分の量と考えればいいっぽい。
トンズラーが選ばれたとき、「トンズラー1」、「トンズラー2」という2つのメモがそれぞれ1/2の確率で社長に渡されるとする。
このとき、「トンズラー1」の情報量は、(さきほど「トンズラー」メモの情報量が3だったのが、)$ -\log_2 (\frac{1}{8} \times \frac{1}{2}) = 4に上がっている。
ここで「伝わる情報量」というのは相互情報量的な概念を指しているのか
s_iとr_jの相互情報量 (個別版) が、s_iに等しいことを要求している(さっきの I(S;R)=H(S) のとき、受信側の事象が全て情報を伝えるというのと同じように)
オルタナティブな定義: p(y|x) > p(y)のとき、xはyという情報を伝えるというのだとどうか
ゼロックス原理から、情報量がすり減ってはいけないという結論を導くのはあやしい気がする。たしかに下限を0以外の値にした場合にはその議論は成り立つけど
すり減らないで伝わっている部分が0より大きければいい (相互情報量 > 0 みたいな)、という定義はゼロックス原理からは排除できない気がする?
推移性: P(y|x) -P(y)>0 かつ P(z|y) -P(z)>0 ならば P(z|x) -P(z)>0 か?
いや、この情報伝達の定義だと、「雨が降る→地面湿る」「地面湿る→誰かが水を撒いた」だけど、「雨が降る→誰かが水を撒いた」は成り立たないから、ゼロックス原理を満たさないか。
(Scarantino)
平均的な相互情報量についても、I(X;Y) > 0 かつ I(Y;Z) > 0 ならI(X;Z) > 0というような推移性は成り立たない。
3つの人口からそれぞれ確率的に選ばれる人をX,Y,Zとして、XとYは必ず性別が同じ (相互情報量1)で、YとZは必ず年齢が同じ(相互情報量 > 0)になるように選び、その事以外はランダムとしたとき、XとZの相互情報量は0だろう。
第4章 表象
しかし、実は218ページより前の207ページですでに、自然的記号について「自然的記号が何かを表すのには条件付き確率が1であるという条件もいらない」という緩和がなされている(ミリカンの主張として出てきているが、戸田山さんがいちゃもんをつけている様子もないので、戸田山さん自身がこの緩和を受け入れていると言っていいだろう)。さて、そうすると、実は自然的記号は一般に間違い可能性を持つ。記号の条件付き確率が1ではないということは、記号で表される対象が成り立っていないのに記号が存在する場合があるということに他ならない。もし、間違い可能性が志向的記号であることの十分条件なら(p.218の引用だと十分条件と考えているように見える)、雨が降って地面がぬれるのだって志向的記号である(雨が降っても地面がぬれないこともあるから)。自然的記号一般が間違い可能性を持つ以上、間違い可能性が普通の自然的記号と志向的記号を区別する重要なポイントだとは考えにくい。
ミリカンはそれを「間違い」とはみなしていないのかな (なぜ?)。(※「自然的情報は間違い可能性をもたないのか? ——2 つのアプローチから見る多元性——」ではミリカンの自然的情報の理論でも誤り可能性は無いとされていたけど)
記号の表す内容と現実が食い違うことが誤りなら、それだって誤りなのに
自然記号と現実が一致しない場合は、関係があると思った人間側の間違いであって、記号に責任は無いというように、強い意味での「間違い」を想定している?
誤り可能性は、真偽の評価という規範性などと言って説明されるので、「記号の表わす内容と現実が食い違うことがある」という以上のことなのかもしれないけど、では規範性とは正確に何なのか?
哲学入門p.209 からすると現に因果関係があることを必要としているみたいな応答?
しかしその後で必ずしも因果関係が必要なわけではないと言っているから、正確にどういう関係がいるのか分からない
自然的情報の叙実性はグライスに由来するらしいので、条件付き確率1だからというのが由来というわけでもないっぽい
生産者の機能は過程はなんでもいいから消費者に役に立つ表象を生み出すことだ、というのを進めていって、生産者の機能は過程はなんでもいいから子孫を残すという結果を生み出すことだ、とならないのはなぜか
「生存の有利さを先祖さにもたらしたから生存の有利さを先祖さにもたらした」というトートロジーになってしまうのでは
結果X→生存の有利さ
となっていないと
偶然にも記号の生産者がくれるようなものを、自然が供給してくれるので消費者しか要らない、というような状況を考えることは常にできそう
第5章 目的
…
「どのようにして出現したか」と「どのように出現できるか」は全然違う問いなので「どっちなんだ」と言いたくなるが、まあ内容を見るなら少なくとも「どのようにして出現したか」をまじめに考察している様子はないので、「どのように出現できるか」、科学哲学で言うところのhow possiblyに関する問いを考えている、とみなすことができるだろう。
…
p.237 ここ以降、第五章では目的手段推論の原初的な形態をする生物から、完全な目的手段推論をする生物まで、いろいろな仮想的な生物が並べられている。これは話としてはおもしろいのだが、いったい何をやっているのだろうか?目的手段推論が成立するに至る発生的な観点からのシナリオを提示しているつもりだろうか。
たとえば「オシツオサレツ動物」を脱するプロセスとして「対象と属性が分離」するとか、(p.251)「同じ対象を多くの目的のために認識できる」(p.252)とか「いろいろな要素に分解しもう一度組み合わせる」(p.254)とか、「主語と述語に分節化され、否定形を作ることができるような表象」(p.268)が持てることとか、途中段階で発生する能力がまことしやかに述べられている。
これが、せめてhow possibly なシナリオであるためには、それら途中段階が本当に現実に存在しうるのかというのを考える必要があるだろうし、、その途中段階は本当に重要な途中段階なのか(そのルートで進化していくための不可欠なステップなのか)、それらの途中段階は本当にスムーズにつながるのか(超えられないジャンプが含まれていないか)、なども考える必要があるだろう。しかしそういう考察はあまりない(ジガバチの例は一応このシナリオの現実性をチェックしているとはいえそうだが)。
p.249 中が赤い開いたものの知覚の記述的内容は、「中が赤い開いたもの」ではなく、「雛の口である」では?
特定の用途からの分離と、特定の感覚様相からの分離 p.250
2匹のハムスターはどうすればよかったのか
p.262
第6章 自由
ayu-mushi.icon犯罪傾向に遺伝性があるという信念を持つ人ほど死刑のようなきびしい刑罰を支持しがちらしいので、刑罰が自由意志の存在を前提にしているというのは一般人の信念と必ずしも一致するわけではないという話もあるらしいけど:
@Barbarian_Brain: A belief that crime is genetic leads people to support harsh punishments like the death penalty. This surprises me. I think crime is largely genetic and this is one reason i support lax punishment! Why punish people for being born with bad DNA? https://t.co/1huzWGPstD そのような人は隔離説のような考えを持っている?
参考文献と読書案内
Mario Pérez-Montoro The Phenomenon of Information: A Conceptual Approach to Information Flow
状況と態度 | バーワイズ,ジョン, ペリー,ジョン, Barwise,Jon, Perry,John, 俊, 土屋, 英俊, 白井, 国昭, 向井, 浩之, 鈴木, 恭弘, 片桐 |本 | 通販 | Amazon 人工生命 p.433
* * *
昔の感想
メタ哲学
概念を深める
狭める、広げる
「種を交配可能性で捉えると、無性生殖する生物には生物種がなくなる」という帰結を直感に反するとして退けるか、受け入れるか
あるいは
https://gyazo.com/b4df3ed42a69058cce36aca1927e6fde
とか。
「「個体についての情報はない」というのはおかしい」というのは直観か
『ガイドツアー 複雑系の世界: サンタフェ研究所講義ノートから』では、複雑性の定義として、DNAの情報量とすると、植物の方が人間より複雑になってしまうからおかしい、みたいなことを言っていたが、アレは直観への訴えすぎる
「必然的に真な双条件文の発見」が我々の持つ概念の分析とは限らないことは、クリプキが明らかにしたことではないのか
しかしそこで (反例が反例になっているか確認するなどの上で) 直観を使っているのに我々の持つ主観的な何かの分析以外でありえるのか、というのが問題か
「○○として扱う」「✘✘として見る」の意味論
representation-as-it-could-be, representation-as-we-know-it
自由意志定理という言葉の自由意志は非決定性を意味するらしいので、自由意志の語義に非決定性が含まれている、というふうに捉えられることもあるだろう。
自由意志と責任の関係について考えるなら、
故意
過失
無過失責任
を区別するといいのでは。
自由意志なくても原因結果の関係は残るから、帰結主義は大丈夫と書いてあるけど、単なる結果論じゃなくて帰結主義が残るためには、期待効用みたいな概念が必要なんじゃないか(結果論と帰結主義)。 期待効用は自由意志なくても大丈夫系の概念なんだっけ。まあそうかな。
じゃあ何が自由意志無いとダメな概念なんだ? 合理的意思決定は残る?
合理的な行動は自己コントロール前提だからダメかな?
自由意志無いと経済学はどれくらい死ぬのか、道徳の前にそれを考えたい気もします。(自己コントロール能力はかなり仮定しないと合理的経済人仮定は成り立たないのか?)
自由意志がない場合、罰があろうがなかろうが犯罪をするやつは犯罪をするということなのか
人間が合目的(もしくは、スキナー的)に行動するという前提さえあれば、報酬や負の報酬を用いて行動が変わることが予測できるので、刑罰の使用が正当化されるのではないのか (追記: いやそれはスキナー的な主体について言えるのは個別抑止でしかなく、刑罰を受けたことがない人なのに将来それが起こると予測して犯罪をしないようにする、という一般抑止はポパー型生物でないとできないだろう)
なぜ刑罰があるのかの理由、報酬に依存した行為はその報酬を上回る罰を与えれば無くせる可能性が高いという理由だけで良くないですか(追記: No)
違法行為から得られる正の期待効用が刑罰による負の期待効用を上回らないようにすれば、行為者が合理的だと仮定して抑止ができる。←この説明であれば、犯罪を止めるには一定の刑罰で十分なので、見せしめのためにエスカレートすることはない。
この議論はその人が合理的であることに依存しているので、酒飲みや子供、狂人などの責任が少ないことも説明できる
人間を手段として用いてはならないのようなカント義務論は人間のヒューリスティックな直感をエンコードしたものに過ぎないから、条件が変わったり「自由意志がない」のような未知の入力に対してはおかしな帰結を導くのは当然であり、帰結主義的に考えるべきという論 (追記: 未知?)
職務質問
心理学知識が上がると、自分について知ることでむしろ自己コントロール能力ひいては意志の自由(自由意志)が増大する可能性は無いのか?
自由意志なしの道徳って自由意志ある場合と結局考えてること同じような気もするぞ
追記: いや隔離説とかは自由意志がない場合特有なのでは
4. 選好の奴隷は自由意志を持つか?
後書きの最後に「あなたには哲学を役立てるだけの知恵と力と勇気があるのか?」と挑発されているので、この再定義された自由意志を経済学に応用してみたい。
経済学の理論では、経済人を想定して議論を進める。この経済人は把握される状況を前提に、自己の選好に従い行動を決定するロボット的な人間(ホモ・エコノミクス)だと公理として仮定されている。選好の奴隷とも言えるわけで、自由意志など無いように思える。しかし、経済学者には自由意志を尊重したい理由もある。
人々の選好が外部から観察できない以上、表明された意志の集計が社会状態の評価として最も議論の少ないツールとなるからだ。唯物論的な自由意志の定義を借りることで、選好の奴隷が自由意志を持つと言えるのであれば、規範的分析において自由意志を尊重している事に説得力を持たすことができるであろう。
選好ってのは要因であってもメカニズム的な要因のことじゃない(…多重実現可能という意味で(?))から、選好の奴隷だと自由意志が無いって言ってる人は居るんかいと思う
カントだとどうだ、選好に従うのは理性(ルール)に従うのと違うから、それでは意志の自由は無いっていうのかな。
選好の奴隷って自分の好きのままに従う人のことでしょ。どこが奴隷なのかって話になる
質問「どうやって神や自由意志についての信念・表象が生じるか」
p→r→c
意味の性質: 誤り可能性、内包性
中国語の部屋は生存のために動かない、繁殖はどうか
繁殖=自己複製でなく単なる複製でも良い?として
情報内容→オシツオサレツ表象→記述面と司令面の分離→生産者・保持者・消費者の分離 力(語用論)と内容(意味論)の分離
いきなり完成形から考えず、機能・発生論 的に原始的な物から考える 言語の志向性と思考の志向性の依存関係の話が面白い
四色定理は、いかなる個人もその正当化の全体を把握していないが、にもかかわらず証明され、正しいことが知られている。
自己コントロール
自己コントロールできる部分とできない部分のスペクトラム
アフリカ人に鎌形赤血球が多いのはマラリアにかからないため
包括アーキテクチャ
地層