自由意志と責任
※現代哲学の既存の議論を踏まえずに考察した
以下は一般抑止論を前提にした上で刑事責任の話をしているが自由意志がないと責任がないと言ってる人がそもそも一般抑止論や帰結主義を認めているか定かではないし違う可能性が大きいので以下の話は自由意志と責任の関係の中でも限定的な話かもしれない。 (あと、日本では再犯率が高いらしいので一般抑止論より個別抑止論 (あるいは隔離説) を重視したほうがいいかも?)
つまり、一般抑止論における刑事責任はホッブズ・ヒューム的な自由意志しか前提にしないのではという話。
関連:
よくしらないけど、ホッブズやヒュームの古典的両立論でも一般抑止・個別抑止の意味での刑事責任は正当化できるだろう (自分の欲求に基づいて行動する人ならば、罰を勘案して行動するだろう) から、責任と結びついた意味での自由意志は別に古典的なやつでいいような気がする
自由意志 - Wikipedia
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そもそも古典的と現代の関係、対立しているのか補完なのかとかは知らないけど。でも期待効用を最大化する主体についてなら、メタ選好とかを持ってなくても罰は帰結主義的に有効だと思う。じゃあなんで動物に罰を与えないのかってとこが問題?
「単純に(人以外の)動物は文字がよめないので、法律で罰があると教えたところで効果がないから」でダメか?
期待効用を最大化するが、ものすごく間違った世界についての考えを持っていて変えられない (刑務所は自由で快適と思っている (これは不合理な予想であって特有の好みではないとする) とか) 人に対しては法律による抑止力が効かないのと似た理由だ
訂正。上の記事では、メタ選好じゃなくて「二階の欲求」って書いてあった。
人間だったら既存の欲求は変えられないからそれは所与としてそこから嫌そうなことを考えて罰とするけど、機械だったら最初から報酬関数に組み込めばよくない? ってなるから、わざわざ罰を与える気にならないのかも
(報酬関数をハックできないように設計するのは難しい問題ではある。しかし機械に刑事責任を与えるというのは大して意味が無い話だ。)
刑事責任が認められない精神障害者にも、"その個人が何かを意欲し、かつ仮にそのように決意しなかったならば別様にも行動できたはずだ"というのは当てはまってしまうかも。〔それも文字が読めるかどうかとか単純な話で刑罰が有効でないとなるのでは?〕
欲求にトリガーされて行動しているが、期待効用を最大化していないことがあるので(ある程度不合理な場合)、古典的両立主義と、「自由意志=期待効用最大化」と言う立場はちょっと違うかも。しかし、後者も二階の選好を要求しない点では似ている。
期待効用最大化というのは選好関係がフォン・ノイマン=モルゲンシュテルンの公理を満たすということだから二階である必要などないはず
いま触れなかったが、現代的な両立論には"たとえ強制された行為者であっても、"自由であり得ると主張する点が古典的なのとちがっているというのが主な対立点だったか。
自由意志 - Wikipedia
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しかしフランクファート事例って因果関係の反事実的条件法分析に対する因果的先回りケースに似てるね?
だから、反事実的依存関係(他行為可能性)ではなく、反事実的依存関係の推移閉包に対応する他行為可能性っぽい概念を使えば他行為可能性っぽいものを残せるのでは。
法学者は因果関係を反事実的条件法 (反事実的依存関係) で考えてるっぽい感じがするので、 フランクファート型事例では法律上責任がないという話も出てくるかも。
くいなちゃん@kuina_ch
知り合いではないAさんとBさんが、たまたま同時にCさんを拳銃で撃って死亡させたとしたら、Aさんが撃たなくてもCさんは死亡するため Aさんに因果関係はなく、Bさんが撃たなくてもCさんは死亡するため Bさんにも因果関係はなく、2人とも殺人"未遂"罪になる学説が有力だそうですね…判例が気になります。
//死刑執行のときの複数人で押す執行ボタンが全て作動する物になっていて仮に死刑執行が人権侵害とされても因果的先回りにより有責性を回避する狡猾な死刑制度(たまたま同時ではない) (複数の人同士がお互いに関係ある場合はだめでは)
未遂ってことは責任がないのとは違うか。とすると、フランクファート型事例の殺人は相手が死んでも殺人未遂になるみたいな感じか…? アナロジーが成り立っているか自信ないけど
やっぱり期待効用を最大化するときにはいろいろな欲求を全部勘案するってことになりそうだから、「ある特定の一階の欲求にしたがうのではなく、全部の欲求を勘案したうえで行動したい」というような二階の欲求(?)に従う必要があるのか? むむむ?
そんな馬鹿な。「欲求に従うには欲求に従いたいという二階の欲求が必要」みたいなへんな話とちがいがあるのか。デイヴィドソン。
責任ってのはあくまでホッブズ・ヒューム的な行為の自由にかかるものであってフランクファート的な意志の自由にかかるものではないのでは?
具体的にフォン・ノイマン=モルゲンシュテルンの公理のどれを破ると刑罰が効かなくなるのか
強すぎる選好によっていかなる小さな可能性である結果がなると予想するときもその行為を避けるみたいなフォン・ノイマン・モルゲンシュテルンの公理の具体的な違反によって刑罰が有効でなくなるみたいなケースは考えられるか
一般予防のために刑罰を与えるのは一定の地域を爆撃すると予告 (し、後に実行) することでその地域から人を居なくする (避難させるなどの目的) という目標を達成しようとするようなものなので一定の犠牲が発生する
追記: 功利主義的な一般抑止論の問題点
これは自由意志と関係するかは不明
どちらかというと人格の同一性と関係する?
功利主義的な一般抑止論だと、冤罪でも、そのことが国民にばれて「罪をなすりつけて犯罪しよう」とするモチベーションが国民に発生することさえなければ問題ないし、もし人が一般に自分の息子娘や家族の幸福を気に掛け、それが危機にさらされる場合に犯罪を控えるということがあるなら、功利主義的な刑罰論は犯罪者を監禁することによる社会厚生の低下と無実の人を監禁することによる社会厚生の低下をそれ自体としては同等に扱う以上、無実の息子娘や家族を罰する / スティグマ化することも正当化される可能性があり、とても直観に反する
集団責任の制度に対して、人が他人より自分を気にかけることはない (心理的利己主義) だろうから有効ではない、という以上の根拠で反対することができない
時間選好が大きいが利他性が高い人に対しては、遠い未来の自分への刑罰より近い未来の周りの人への刑罰の方がインセンティブとして有効かもしれない
そのような人について、未来のその人と今のその人が同一人物である、ということの道徳的意味は小さく、未来のその人と今のその人は別の人として扱うほうがいい
たとえば子供に財産を遺贈することは、労働や投資をするインセンティブとしてある程度正当化されるかもしれない。同様に、犯人の子供に罪を着せることは…
完全な応報主義をとって犯罪者を罰することがそれ自体としていいとは言わなくても、無実の人を監禁するのに比べれば社会厚生へのマイナス度合いが低いというふうに社会厚生関数を改変して、犯罪抑止手段としてそのマイナス度合が低い方の手段が選ばれやすいようにし、功利主義的な抑止論と応報主義的直観を組み合わせるという選択肢はどうだろう
(これは社会厚生関数を改変すべきなのか、もっと義務論的な話なのかわからないけど)
マッキーの消極的応報主義、許容的応報主義
応報主義を完全に否定する、つまり無実の人を罰することと罪のある人を罰することの間の内在的な道徳的な違いがまったくない、と主張するのは直観にかなり反する
刑罰の倫理性を問題視するときに冤罪の可能性にやたら着目する人がいる (法学の先生が強調していた気がする) けど、それは応報主義的な直観によっている
功利主義的な一般抑止論にとっては人々が気づかなければ冤罪でも問題がないので、わざわざ冤罪の可能性を人々の意識に上らせるのはむしろ悪いし、むしろ犯罪を本当に犯した人が過剰に罰されることのほうを問題視したほうがよさそう
いや一般抑止論だとそうというだけで、隔離説とか個別抑止論だったら冤罪にいい効果はない
冤罪がいいとすると、権力者が気に入らない人物を恣意的に逮捕できるので、反対派の弾圧に利用できるというのが懸念事項っぽい
ただ、「犯人の子供を罰していい」というルールにはそういう問題もない
功利主義によると、被害者の応報感情を満たすためだけに容疑がかかっているひとに罰を与えても応報感情の満たされによる快楽が容疑者の苦痛を上回ればよくなってしまうという問題