非分析的必然性
ヒュームは分析的でない必然性の存在に気づいていたようだ。
異なる観念が――それが単純観念であってさえ――お互いに類似性を持つことができるということは明白である。それらが似ている点はそれらが違っている点と必ずしも別であったり、区別できる必要はない。青と緑はどちらも異なる単純観念だが、青と緋色よりも、青と緑の方がより似ている。
しかしながら、それらは完全なる単純観念であるから、それらが「どういう点で似ている」という側面を分離したり、識別したりすることは不可能である。同じことは個別の音、味、ニオイについても成り立つ。
観念は共通の分離可能な特徴を全く持たないとしても、〔構成部分の共通性というのではなく〕観念全体として数え切れない仕方で類似しうる。
そして私たちは、この一般的な論点を「単純観念」というとても抽象的な語句について考えてみることによって確認できる。
この語句は全ての単純観念を包括して意味し、そこで指される観念は「それらが単純観念である」という側面の類似性によってお互いに類似している。
しかしまさにそれらが単純観念であり、いかなる複合性も持たないという理由によって、それらの単純観念たちをお互いに全て類似したものにしている側面〔=単純性〕は、他の側面から分離して把握することができない。
このことは、質が異なる程度を持つ場合についても成り立つ。質は全て似ているが、いかなる個人における質も量から分離することはできない。
我々は単なる思考の中のこととしてでさえ、物が「明るい青 (明青) である」という観念を2つの観念に分けてその1つから「青」だけを抽出することはできない。
It is obvious that different ideas—even simple ones—can have a similarity or resemblance to each other; and the respect in which they are alike need not be distinct or separable from respects in which they differ. Blue and green are different simple ideas, but they are more alike than are blue and scarlet; though their perfect simplicity makes it impossible to separate or distinguish their respect of similarity. The same holds for particular sounds, tastes, and smells. These can be alike in countless ways, taking them as wholes, without having any ·separable· feature in common. And we can be sure of this general point by considering the very abstract phrase ‘simple idea’. This covers all simple ideas, and these •resemble each other in that they are all simple. Yet precisely because they are simple, and thus have no complexity or compoundedness about them, this •respect in which they are all alike is not distinguishable or separable from the rest. It is the same case with the different degrees of a quality: they are all alike, yet the quality in any individual is not distinct from the degree—·we can’t, even in thought, separate a thing’s bright-blueness into two components of which one is mere blueness·.
論考後のウィトゲンシュタインと同じく(『言語哲学大全II』p.87)、ヒュームも「赤い」「青い」といった色は単純観念とされるにも関わらず、異なる/相互に独立という以外の必然的あるいはアプリオリな関係(「赤は青よりピンクに似ている」のように、単なる心の習慣・規則性ではないが、しかし論理的関係でもないような、必然的関係)に立つことに気づいているようだった
(論考後のウィトゲンシュタインは、「青でありかつ赤である」というような命題が必然的に成り立たないことが、原子命題の相互独立性を脅かすものと考えた)
この青色とあの青色とは,その本性からして(eo ipso)一方が他方より明 るい青であるとか,暗い青である,という内的関係に立っている.[同一の青のヴァリエーションである]これら 二つの対象が,このような関係に立 っていない,と考えることは不可能(undenkbar)である。『論考』
すなわち、観念の間のこのような種類の関係を表現する命題〔ex. 青と緑は似ている〕が真であるかどうかを、それらの観念を構成する観念へと分析することだけによっては〔つまり論理と分析だけによっては〕どうやっても知ることができない。
なぜなら、後者が完全に単純観念だからだ: "「2つの色〔青と緑など〕と『それら2つの色が似ていないということ』が論理的に矛盾していると言えるというような、いかなる観点も存在しない」"。
そして、彼は、色同士の類似という明白な真理を我々が受け入れていることが、「獲得された思考の習慣」にすぎないものと考えている様子も全く見られない。
むしろ、そういった命題をヒュームは、諸々の現象の間に客観的に存在する相互関係を反映しているものとして捉えているのだ。
彼の言葉を使えば、そういった命題はそれらの観念の「本性そのもの」によって真である。
…彼はこのような説明を数学の命題にも当てはめる。(p.7)
It is, in other words, impossible to establish the truth of propositions expressing relations of this kind by any analysis of the constituent ideas, since the latter are absolutely simple: 'No point of view is conceivable from which one could say that two colours and their dissimilarity contradict each other in the logical sense.' 17
And nor, either, is there any suggestion that our acceptance of the evident truth of colour propositions is merely a matter of acquired habits of thinking.
Rather, such propositions are seen by Hume as reflecting objectively existing intecrelations among the phenomena themselves; they are true, in his words, from the 'very nature' of the ideas in question.
…He applies the same account to the propositions of mathematics (p.7)
しかし、これは (知識は分析的であるか、もしくは経験的であると考える) 経験論の認識論にとって致命的では。
数学の命題が色類似命題のようなものなら、それは総合的アプリオリと言ってるのと、さほどかわらない
「これは赤である」って言ってるのにそれがピンクに近い色なのか青に近い色なのかわからないってどういう状態
色の構造は単なる(構造を持たない)集合ではないハズなのだ
心の習慣は、単なる心の規則性とは違うのだろうか