唯名論への反論
法則的概念
クワインは意味は本質が物から分離され言語に入ったものだという。「言語(観念)が世界を恣意的に分節化する」などという人は、言語自体については本質が存在すると考えざるを得ない。そもそも言語(観念)自体が分節化されるためには、何らかの一貫したルールが必要なはず。
「世界は言語によって分節化される」、じゃあ言語を分節化してるのは何。
クリプゲンシュタインのパラドックスは、唯名論の反駁に使える?
自然法則は、「水は$ H_2Oである」という法則とかも含めて成り立たないとする (斉一性なし)。
その状況で、「aは水である」「bは水である」「cは水である」といった――帰納の問題が成立するために必要な――個別的な知識なら持つことはできるのだろうか。 「水」が$ H_2Oを指すと前提できないなら――名前と物質の間の恒常的な因果関係は成り立たないだろうし、$ H_2Oという言い方は化学法則を前提にしていると思われるので――、「aは水である」というのは、「a, b, cはそれぞれ同じ物質である」とかいうことでしかないだろうが、このことは自然法則なしに可能だろうか。
→だって、「同じ物質である」という関係が「同じ化学法則に従う」(どちらも電気分解すると同様に水素と酸素になるとか 同じ温度で沸騰するとか) ということ無しに成立するのか?
→では「同じ・物質」という概念はやめて 類似性 一点張りで考えるか。
それでも、光の反射の規則性とかが無いのに、似ているって何が似てるのか?
→結局、この知覚印象とこの知覚印象は似ている、といったことしか言えなそう。
しかし自然法則が成り立たないのであれば帰納は使えないから、「1.感覚印象はa, b, cはお互いに似ている。d, e, gはお互いに似ている。
2.前者の感覚印象はそれぞれ全て後者の感覚印象より明るい。
3.よって、「ピンクは赤より明るい」」
すると「aがピンクである」という意味は何か?
赤より明るいかはわからないが、とにかくピンクなのだ!ってことか?
→〔この議論は、ブランダムがカントやセラーズに帰属してた、「個別的知識の意味理解は普遍的なもの(法則、推論規則?)を前提にしているので、『個別的知識から普遍的知識が必然的には導けない』とするような斉一性懐疑論などは、問題の出発点に問題がある」という議論を自分なりにやってみたものだが、元のものとは特に似ていないかもしれない。〕
思考が成立する世界ならば帰納ができると言ったとして、この世界が純粋に二元論的な世界である可能性を排除しない限り、物理的物事について帰納が使えるようにはならない?
クリプキ=ウィトゲンシュタインのパラドックス、「共同体」を持ち出すことで何が解決するのかはよくわからない
ルイスの自然種(自然的性質)による解決(デイヴィッド・ルイス「普遍者のための新しい仕事」, 『現代形而上学論文集』所収)の方がよさそうだが…
クリプキのパラドックスについて、私は小さい頃、「はずかしい」と「てれる」の違いを――そのような用例から類推して――言葉が適用される人の性別による違いかと思っていたことがあった。
述語の意味の学習に働く、「推測と反駁」
ガヴァガイ
生き物、物質、色といった、モノを指定するときの単位(本質)
ソータル
物を数える時、「人を数える」と「分子を数える」とでは同じ状況でも答えが違ってくる。
つまり単位が無いと、数は数えられない。
たとえば男の巫女は可能か。例えば聖職者という役職があって、その中で女性のものを特に巫女と呼び、男性のものを神官と呼ぶみたいな場合、矛盾。しかし、巫女と神官が別の対応する役職として存在しているが、単にそれぞれの加入条件に性別が含まれている、という場合、加入条件が例外を許すものなら、可能
概念は適用する条件が違うなら違う概念と考えそうだが、役職の場合は、加入条件でなく職業上の義務や責任といったことが同じなら同じ役職、と考えることもできる
比喩・ステレオタイプではなく、参入規則、背景メカニズム、意味の全体論の観点から理解できる