読んだもの日記(イ)2026年2月
2026/02/28
二月も終わりだ。誰もがかんじることだろうが、短かった。
YouTubeで動画をみていて、ボラーニョについての動画をみたのをきっかけにまた『2666』を読んでいた。どうしてこのような文章群を書くアイデアが生まれたのか、興味がある。ある動画では、散文と詩の境い目を探求した作家であるらしく、散文詩の形式で書かれていると読める箇所もあるという。最初の長編で、ウリセス・リマとアルトゥーロ・ベラーノが登場するという『野生の探偵たち』が読みたくなった。アルチュール・ランボーのパロディー。ボードレールとランボーはボ(フランス語で美しい)で始まり終わる、ベラーノのベルは美しいという意味という指摘はおもしろかった。ウリセスはホメロスやジョイスのユリシーズだ。『2666』においてもギリシャ神話が重要な下敷きになる。ボラーニョの作品にはユーモアがこめられているという。彼は、現在、ラテンアメリカ、アメリカ、ヨーロッパで影響的な作家なのだという。ボラーニョはドイツ文学やロシア文学の影響をうけている。 『2666』の第四部を読んでいたが、ためしたのは叙事詩のように出来事として読むということだった。深読みせずに、起こったことの連続として、ルポとして読む読みかただった。そのようにも読め、この小さいが非力ではない細かなエピソードの連続が膨大な構造をかたちづくっているのだということを再認識した。確証はないが、緻密なプロットをたてて書き上げた小説ではないのではないかと思った。
この作家の短編を読んだので、長編がそれらの小さな物語のエッセンスを内包していかに効果的に反映されたかということが見えるようになってきた。さまざまなジャンルの短編を書いてきたので、さまざまなジャンルがつめこまれた長編を書き上げられたのである。
また、この作家と作品が持つ「軽さ」も印象にのこる。文体の、描写の持つ軽さ、重々しさを回避したか拒否した淡々とした記述とレトリックは、息詰まった(行き詰った)20世紀文学から21世紀文学への(「軽さ」を提唱したカルヴィーノらとともに)橋渡しといえる。人を驚かせるような大それたギミックのない文章の持続が独特の読む緊張感につながってくる。『2666』でいえば、それが騙し絵めいた細部と全体が関連しあった作品自体と内密にかかわって、小説世界の時間と構造をつくりあげることに成功してる。
『2666』は、2012/9/26に日本で出版された。311の翌年だ。あのころは、まだ世の中が物静かであっても騒然としていた。誰もが整理のつかない状況をさすらい、何かを語ることをためらっているような空気だった。福島第一原発の放射性物質の半減期が一万年、という圧倒的な、或る種漫画チックな数字が紙面を踊った。眼前で起こっている事故は、われわれが生きているあいだには解決しない。当然われわれが解決すべき義務があるはずの事態を強力に否定する、現実とは思えない現実だった。あれから私たちは何か縋ることができるものごとを獲得できただろうか。よすがとすべき物語をもてただろうか。まだそれは成しえていない、と思う。私がそれからというもの(311からというもの)国内外の「大きな物語」を、とくに歴史と相対するフィクションを求めたのは、私の中にあの出来事がハッキリと刻印されたからだ。おそらく、戦争の記憶と同じように、数年かそこらで語りえるものごとではなかったのだろう。私も自分自身に対して失語症に陥っていた。少し以前から物語を容易に語りえなくなっていた。311が決定的だった。心の第六感が疼いているような気がしていた。どもりながらも、近年では、何かを語ることができるようになっていっている。ともかく、一生、しょいつづける記憶だろう。 『2666』は、個人史的に私の読みかたを変えた。長く書くことと読むことの両端を許容するような、果てしなく思える物語。それまで書かれた小説の全てを解剖して再び繋ぎ合わせてしまったかのような、浩瀚な奇書。マイナーな領野からメジャーな領域へ脱構築的闘争を図る、爆弾的散文。311で津波に溺れたままであるごとき私(みなそうなのかもしれない)の藻掻きを、メキシコの暑い地獄のような都市が照らしているとは、わけのわからない取り合わせだ。
ブルックナーを聴いていた。長編小説を読むときは西洋の長い曲が長い読書を促進してくれる。
トルストイの『戦争と平和』はフランスがロシアに攻め込む話だが、いまはロシアがウクライナに西進している。物事の起きるスケールは大きく、新たなトルストイが登場する気配もない。あの侵攻が開始されたのも二月だった。 いとうせいこうが書店で本を選んで買う動画を見た。書店で本を選ぶのは楽しそうだ。実際にどの本を買うかは悩ましい。
水分摂取は大事だとおもうた。
2026/02/27
風邪と花粉症が同時にきたかもしれず難渋している。
つまったような咳をしている。鼻も多い。
風邪には緑茶がきく。温かいお茶を飲むとしみる。
サンドボックスゲームに興味がある。延々とできるゲーム。
昨日は甘いものを接種しすぎた。
出かける予定が遠のき拍子抜けした。
2026/02/26
砂糖を買った。袋から容器にいれてつかう。コーヒーが飲みやすくなった。マジで飲みやすい。菓子パンにあう。
児童作家の松原秀行さんが亡くなった。読んだ記憶はあいまいだが表紙絵とタイトルは知っているので著作にはお世話になったのかもしれない。パスワード探偵シリーズ。ご冥福をお祈りいたします。 骨丸さんの夢を見た。野望が壮大だとかそういう内容だったとおもわれる。謎の人物である。
風邪ぎみになってしまった。喉と鼻。気候がコロコロかわるので体調をくずしたのだろう。身体がへんなかんじだ。予期せぬタイミングで病気はおそってくるので本当に困る。
フリーゲーム。いろいろなタイトルがあるが、まさに玉石混交のカオスという勢いで、選ぶのに迷う。長くプレイできそうな作品を覗くことにしている。 コーラをひさしぶりにのむ。たまにのむと爽快感がある。一緒にポテチも食らう。いい組みあわせだ。
今日は冷えこんだ。寒さが身に染みる。予測のつかない天気だ。
レコーディングを行った。環境音と楽音がいかに境なく共存できるかの実験である。録音の際は楽器・非楽器とわず用いた。ジャンクな物も採用し、ジャンクな雰囲気をめざした。
付点音符をつかった曲のアイデアがうかんだ。メモ。聴いていくうちに音型がわからなくなる曲。
今後の社会について人と話した。AIが一部の労働を代行するようになり、階層が変化するとの見通しだった。人文学は趣味の領域になっていくだろうと。
エネルギー不足になったら、エネルギーをなるべく使わないような文化が流行るかもしれない。例えば、ほとんど動かない踊りとかだ。
文章の書きかたは、奥が深すぎてまったくコツがわからない。世の中の片隅に文を置いておいて、謎の満足感を得る。
死はまだ人類にとって相対化されたものではない。死ではなくコレ、という存在が存在しない。謎と重なりあって一緒になっている。
読書にお金を使わない人が増えているという。さほど読書家ではないが、読書はコストパフォーマンスのよい趣味だとおもう。読書の代わりの趣味にお金を使いすぎるというパターンもあるのではないか。
Xのタイムラインを眺めていると、リポストするべきとは感じないが興味深かったりする投稿もわりとある。情報の渦の末端に浮かんでいるかんじだ。Xのくわしい仕組みはしらないが、こういう情報のおおきな流れもAIが管理・統制しているのだろうか。殺伐とさせたり和やかにさせたりはおてのものそうである。
海をもう何年も見ていない。本物の海だ。ところで、偽物の海というのはあるのだろうか。海、いざいってみると、感動があるのだが。ついつい色々な施設がある内陸部に行ってしまう。
2026/02/25
五年日記というものを聞いた。何年前かの記述もみることができる日記らしい。つづけていくと楽しいだろう。 東浩紀さんの雑談アーカイブを流していた。東さんが酒を飲んでしゃべっている。昔、実際に会ったことがある。
コーヒーにミルクパウダーはつかって正解だった。飲み口がまろやかになる。わずかだけども栄養もとれる。次は砂糖を買おう。さいわいに入れ物はある。キシリトールガムの容器である。
それに、ピクルスの瓶とオリーブの瓶があった。これでけっこう入るだろう。保存にぴったりだ。
静かさをたのしむ。
ここのところ徐々に風邪気味になった。原因はわからない。暑かったり寒かったりするので調子が狂ったのかもしれない。鼻とかるい咳。暖かくしたほうがよさそうだが換気も必要だ。同居者にうつさないか心配だ。
デフォーに『ペスト』という小説がある。彼は『ロビンソン・クルーソー』の作者。『異邦人』のカミュにも『ペスト』という作品がある。相当ヨーロッパに被害を与えた疫病だったのだろう。 紙に文章を書いていたら、文字と言葉の関係と繋がりにふしぎを見た。一字一字は簡単に書けるけれども、それらが繋がった単語・文節・文章は複雑な意味と読まれ方をもっている。他人の文を書き写してもそれはよくわかる。なぜ単純な文字が集まって余人には書けないその人の言葉になるのだろう。……文章をのこすと、個人の証をのこすことができる。
2026/02/24
カップ麺を食べた。安価なうえに味もたしかでありがたい。とにもかくにもおいしい。
3月からはいろいろとありそうだ。
もう使わないプリントの裏に字を書いている。よろずのことに利用できる。
東浩紀さんの雑談動画を定期的に流し見している。時間がつぶれて便利。多く知らないことを語っている。ふいに知識がつながったりシンクロしたりする。
三島由紀夫の『につぽん製』。フランス帰りのデザイナーと柔道家の恋愛(?)。まだ序盤なのでどうなるのかわからない。軽いタッチで洋風化しつつある日本を描いている。人物造詣が巧み。 牛丼を食べた。牛丼の具のちぢれ具合がたまらない。味は濃いめ。
いざというときは、どうしようもなくても、できることはするのが大切だ。
今日は話がまとまって、スムーズに見通しがたてられた。この調子でいけそうだ。
2026/02/23
天気のいい、暖かい日で、ほどよい風もあった。散歩をしたい空気だったので、自転車で遠出をした。心地よく身体を動かした。
廣松渉『存在と意味』。骨の折れそうな読書だ。歯が立つまでに時間がかかりそうだ。日本語をつかって、哲学としての散文を見事にかたちづくっている。吉本隆明とはまたちがった形で。 パスカルの『パンセ』。岩波文庫。上巻に、時間についての記述があった。下巻に、用語集がある。 人にパスカルを紹介した。諸学につうじた才人である。惜しくも39歳で亡くなった。死語、膨大な遺稿が遺され、纏められて『パンセ』として出版された。
『小品と手紙』は、岩波文庫から出た、パスカルの『パンセ』以外の主要テクストを編んだ一冊。『パンセ』と合わせて、パスカルの思考により深く触れることができる。
『鼻持ちならないガウチョ』。五編の短編小説に、講演原稿を二編収録。短編小説集というのは複雑だとおもう。解説の青山南(翻訳家でエッセイストらしい)の言葉、「ボラーニョというチリに生まれてスペインで死んだ稀代のイメージの散らかし屋」。イメージの散らかし屋、というフレーズがいい。まさにふさわしいとおもう。
坂本龍一を聴いている。坂本のことをよく知らないのだが、教授といわれるだけあって理知と感性がとけあった音楽だとおもう。ピアノ曲はどれも静かだ。
数年前から、三島由紀夫の作品を読んでいくということをしているのだけれども、それはなにか一人の作者の作品群を読んでいったほうがいいとおもったからだ。長編と短編と両方とも読んでいこうとおもっているが、長編は半分以上は読んだ。次に何を読もうかかんがえている。もうほとんどノルマのようなものなので、じっくり読んでいきたい。一人の作家を読むと、さまざまな角度から作品を見ることができるから有意義だ。ある作品を読んでうかんだあるアイデアが別の作品を読むと単なる思いこみであるということがあるし、また、何作も読んでいくとあるアイデアが有効だという確信が強まっていく。読んでいる間は問題にしないところも読み終わったら頭に引っかかるし、その逆もある。時間が経った作家と作品なので、準古典の位置にあり、その意味で距離が保てていいだろう。骨董や彫刻のようにも見ることができるし、ひとつの近代小説の発想として把握することもできる。
くり返しを避けても、くり返しはやってくる。
思考を断片としてでものこしておけば、誰かが体系化していく。
テレビでやっていた『シン・エヴァンゲリオン』を観た。このシリーズ作品をみたのは初めて。オブジェ感覚がすぐれていて、ヴィジュアル的にエッジがききつつ洗練されたデザインのアニメだった。途中から前衛的な演出がなされ、日本古典の残滓がおもわれた。劇構成がしっかりしていて、観終わった印象は爽やかだった。終演後の情報によると、また新作が制作されるらしい。副音声で山里さんと津田さんともうひとりがしゃべっていて、流していたのだが、よく知らない数人でみているような心地がしてたのしかった。 2026/02/22
二が多い日付だ。
今日は、パソコンの電源を消してドイツ語に向き合っていた。書物と辞書類をパソコンの上に置いて。文字を紙に書いたり、音読したり、文法を学んだり、意味を調べたりしていた。以前よりは読めるようになっているが、まだまだ十分ではない。Musilの文を理解したり、意味が頭に入ってくるようになったりするには、もっと時間をかける必要がある。小さい本があれば、持ち歩いて、英語の本のように、しょっちゅう読むのもいいかとおもった。外国語を読むのはおもしろい。
部屋の整理をしていたら、ムージルの本を手にして、原書まで手が及んだのである。
「保護猫」という、野良猫などを自治体が保護する活動が話題になっている。いままでは放任していたものが、周辺に対する配慮からか、家に隔離する方針にかわっていっているようだ。猫の数が多くなっているのかもしれない。去勢手術とセットになっている。耳に桜の花びらのような痕をつける。さいきんは飼い猫にも元保護猫が多い。かくいう私も猫と住んでいて、保護猫出身だ。静かな猫で、いつも定位置にいる。
猫のテレビ番組はあいかわらず多い。これからも犬とともにますます心のよりどころとなっていくのだろう。
空きっ腹には熱いコーヒーが沁みる。
昨日テレビをつけたら、かくれんぼをやっていた。もう長い間かくれんぼをしていない。外でする遊びをそもそもしていないかもしれない。
電子図書館。図書館が離れている人には便利なサービスだろう。簡単に本をチェックすることにもつかえそうだ。
坂本龍一の「千のナイフ」のイントロには、毛沢東の詩がつかわれている。すごいアイデアだ。
とても快適な時をすごせている。
2026/02/21
なかなかに微妙な気候である。
『埴谷雄高文学論集』は、また見直す必要があるだろう。哲学的人間の考えた文学論。『死霊』は哲学的問題意識から出発して書かれた小説。「小説とは背馳である」。 ボラーニョを読みながら、文芸のレベルの高さということを思った。
ラテンアメリカの作家は勉強熱心で小説が上手、ということを考えた。ヨーロッパの文学を懸命に学んだのだろう。
文芸にレベルの低さというものはない。高さというものだけがある。
古いものでも歴史のないものがある。
「認識」という言葉の変遷。何の気なしにつかっているが、どういう意味あいなのか判然としていない。通用する言葉ほど、あいまいな意味のプールに浮かんでいる。という認識。
最近はなんだかんだいってXを見ている。中心軸は何もない。しかしさまざまな文言がランダムにあるていどの傾向をもって表示されるので、各情報をつかまえやすい。中心軸はないので、手ごたえはないのだが……。
似ているとおもうものの、似ていないところをピックアップしてみるのもおもしろいかもしれない。
言葉によって、自我を構築・形成している書物を読み、圧倒されるのが好きなのだということを自覚した。なので大作家(人類に大きな影響を与えた作家)の主著を読んで興味を持つことが多い。全ての大作家には、主著があると主張したい。
次に次にと試行しようとする心がけ、エッセイズムが出てきてしまう。書くことはおもしろい。
声も言葉も未来へしか行かず、過去へ戻ることがないというのは、不思議なことだ。
インスタントコーヒーを買い求めた。安い店があったので幸いである。馥郁たる香りが鼻腔にひろがる。
散文とはなんなのか。今後はぜひとも、ぎこちない文、ぽやぽやした文章をかたちづくってゆきたい。あらゆる言葉をつかっていたとしても、そこに上下の区別、新旧の境はないのだ。
「時と場合によるだろう」
「俺もそう思った」
「いざとなれば何だってするはずさ」
「俺もそう思った」
「まあ、俺たちのほうがトロいことはたしかだな。残念ながら」
「俺たちのほうがトロいだって?」
「あらゆる意味でトロいってことだよ。時代遅れなのさ」
「時代遅れなのをトロいっていうのか?」
くりかえしだらけで、なんだか可笑しい。ここだけきりとってもなんの話だか不明瞭だ。トロいということについて語っている。コンビのやりとり。
チリの政治的混乱と政治犯を描いたこの散文は、二者の会話だけで書かれている。内容は軽妙かつ意味深長で、読む人によってみえかた切り取りかたがかわるはず。短編小説集『通話』に入っている。
ボラーニョの小説は読みかた書きかたの参考になる。もちろん、翻訳者もすぐれた読み手であり、書き手だ。日本の複数の翻訳者がボラーニョに関与している。彼はチリで生まれ、メキシコで詩人になり、作家人生をスペインで送った。多くの作品が読めるのはすばらしいことだ。
彩りがますので、引用もビシバシやっていこう。
この日記をあとでまとめてみたい。そうたいした量にはならないはずだ。中身もエッセイだ。いろいろを書き連ねていくことで、形式を相対化するのが散文やエッセイなのだろうか。
パソコンで書くのと、スマートフォンで書くのにもちがいがありそうだ。これはパソコンで書いている。まとめてもりもり書けるぞ。電子機器で書いていると、予測変換でむずかしい字まで漢字に固めてしまうので、きをつけたい。読み易さと文章の香りのかねあいもある。難しい話でもある。
口にものをふくんだままクシャミしそうになるのは危ない。液体ならなおのこと。クサメについてはまたかんがえてゆきたい。
2026/02/20
疲労回復のためよく寝た。朝と昼の食事を兼ねた。
人はものを書く原動力は、似たりよったりだろうけれども、動力は、いろいろあって興味深いのではないかと思った。
デライトを入力していた。言葉を輪郭に入れる作業は、時間のあるうちにやっておくのがいい。
三月は、忙しくなりそうだ。
今日は、昨日とうってかわって、コーヒーを淹れてまったりとしている。
最近の社会は人が冷たいという話を聞いた。これはどういう理由なのだろう。技術発展のせいだろうか。
遅くなったが、2026年のモットーは、「継続的な学習」にする。 読書時間の確保。
文芸を読んでただ圧倒されることは少なくなり、作品と対峙し、作家と対話することができるようになってきた。相対的な読書が効いたのだろうか。といっても「驚嘆する心」は維持しておきたい。
淡々とした、持続しつづけるものに関心がでるようになってきた。ほころびがあっても、長くつづいていると存在として意味がふかまる。だから動力が重要でおもしろい。昨日より今日があきらかに「長引いている」。
日本語をつかっているので、まずつかっている言語をよく知り、あつかえるようになりたい。未熟にもなりたくなければ熟達もしたくない。日本語が下手になって会話ができなくなるのも困るし、日本語が異常にできるようになってもさらなる利益がえられるとは思わないからだ。
アープラが創作の日なので、詩でもつくる。
へたでもいいので つくるんだ にょきにょきにょきにょき きみだけのき なえをうえて ふたばがはえて えだがのびのび はながさく にょきにょきにょきにょき きみだけのき とってもへたに できましたで
プ・チエン・ドゥ
『名づけえぬもの』には、ワームという時間を食べるラスボスみたいな虫がでてくるが、世界のかなたにはそんなふうな虫が存在しそうではある。ほかの世界まで食いだしてしまうような虫がでてきそうだ。 言葉にあやつられている動物が人間だ。
意識しないでも文字を読み、言葉を読んでいる。
今日のことは寝ると明日には忘れている。そういう心持ち。
紙のノートにいろいろなことを書いた。走り書きのようなメモで、きれぎれだが、なにか意味がある。
読める本は少なく、それで十分だ。一生のうちに読む冊数は関係ない。読むために書き、書くために読む。
2026/02/19
今日は出先でずっと吉本隆明の『共同幻想論』を読んでいました。『国家とは何か』も副読本として。あまり読めていないかもしれません。が、いくつかのことを考えられました。
まず、日本ということ。いま使っている言語は日本語で、それを離れてこの思考はありえない……と、当然のように前提にしていることを吉本は問題にする。
次に、思想ということ。日本に思想を生み出したのは、戦後でいえば吉本が五本の指に入る先鋭さでしょう。或いは、芽生えさせたといっていい。国家とは何か。端的にいえばそこで生きて死ぬものである。だが吉本はそれはあくまで幻想のうちであると指摘する。意識したことのない読者はハッと目を開かされる。そしてそこから考え出す。
吉本は、外国語を操らず、翻訳しか利用しない。身についた言葉だけで探っていく。
また、日本思想、というものがあり得るか。もちろん実際に書いている人はいる。吉本は、『遠野物語』という近代の書と、『古事記』という古代の書を引いて、そこに観念の言葉を肉付けする。戦争が終わった後の日本人と国家を結ぶものは何か、どう束ねられてきたのか、どう生成されてきたのか。その批判と追及をじとっとやる。実感がこもっているので、読みごたえは人肌のぬくもりがあります。
いきなり大きすぎる音を聞いた時、耳(脳)は思ったよりダメージを受けていて、もとの調子に戻るまで暫くかかる。と思う。
今日は出先に英語の本、ボラーニョ・コレクション、メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』(これは少し開いた)、そして吉本隆明を持って行った。『共同幻想論』を読みながら、まず埴谷が浮かび、三島が浮かんだ。三者ともに20世紀60年代の旗手だが、誰かの著作を読んでいると誰かの著作や発言の補助線になる。昭和中期が、立体的に生きた時代として現れる。 個人の幻想。これは妄想とか狐憑きとか。対の幻想。カップルののろけ。共同の幻想。国家というもの。内包する時間が大きくなるにつれて幻想も膨れ上がる……という論だとおもう。いうなれば、現存在という仕方で人間をつかみだしたハイデガーの手法のように、幻想というキーワードで集団をつかみだす作戦。
同じ位相・異なる位相というように、「位相」という言い方をする。異なる位相のものを、同じ問題でくくったりはできない。これは何かを問うときに気にしている。カテゴリーかもしれない。
2026/02/18
昨晩は眠かった。よく寝た。
メディアの身体化。
もう21世紀だが、勘違いして20世紀酔いしていたようなきがする。
日本は古くから農耕社会だったから、その年や世代によって裕福になったり貧困になったりころころ変わったのだとおもう。ずっと貧困だったりずっと裕福だったりするわけではないだろう。収穫と収入は天候や税、出来高に左右される。確かに四季は同じ呼び名で巡るが、年どしによってうけとる感覚はちがうだろう。また、この差は地域や世帯にもよるはずだ。
習俗に精神性が結びついているといわれるが、他にもあるだろう。例えば貨幣にも精神性が結びついている。物や言葉にいちいち精神性はまつわりつくのだ。
海外の人々がもののあはれを感じとることができるように、美的感情には普遍性がある。これはどの文化でもそうだ。なぜ世界の一角に普遍性があるのか。たとえば日本語でいえば、それが曖昧だからだろう。どの言語でもそういえるのかもしれないが、日本語は未完成の言語だ。美的感覚の表出には優れているが、それは或る文化内の美の表出なのだから当然の話だ。伝達の曖昧さは美的感覚の曖昧さというより、言葉の未完性をその要因とする。完全な美が完全な言語で定義され、表出されれば、それは閉じられた特異性を生み出すのだろうが、感情の普遍性には結びつかない。それは感情の閾値の限界にも達し、美の感情というか美の衝撃のような印象を引き起こすはずだ。地方的な閉じた体系が曖昧さを生み出しほのかな感覚を形成するという、この現象は、世界のどの文化でも観測できるものかもしれない。そしてそこから感得・抽出できる感情は、独自の色をもっているだろう。
料理も儀式だとおもう。21世紀の儀式。技術と共感の時代に「儀式」をおしだすのはアナクロともとれるかもしれない。『ひきこもりの手記』は、殺人を儀式のようにおこなう悪夢的な事件を題材としているが、同時にデーモンを執拗に描くことで呪術的な魔除けの機能も果たしている。『ひきこもりの手記』は「理解されたくない」という衝動につきうごかされている書物である。テクストのレベルではなく、エクリチュールのレベルでそうなのだ。すなわち記述は「私」のことを遮二無二かたるのだが、かたられたそばからそれが嘘だといい、一人称の宣言は空しい残骸と化す。ポジティブな自己披瀝から、ネガティブな自己否定が生み出されるのだ。この難しい方法をとることで、作品は新しい人道的な進歩を明確に拒否し、オルタナティブな外部への脱出をめざしている。テクスト自体が一種の迷路のように生成されており、内部に入り込んだ読む力はたえざる攪乱によって分散される。何人からの理解も共感も拒絶するのは文学的な、追い立てられるような筆致である。特定と保護から逃走する精神の運動は、文体自体の発する否定の意志によって、横溢する殺意を永遠のものとしている。そこで料理されるのは、ほかならぬ、理解されえぬ、「私」なのだ。
コーヒーが尽きそうだ。おいしい。
『魚の夢』はどういうふうに読もうか。パラパラ読んではいる。
小説は言葉の構築物だが、作品中には言葉の意味と物語の意味とが示されている。材料の意味が充満しているのに、登場人物たちの行動などが意味として立ち現れているのはふしぎだ。言葉でできた街の中に表現上の街がある。この関係。あるいは逆もいえるのかもわからない? 言葉の塊のなかに穴を穿って、そこに活路を生み出すのが小説かもしれない。カフカの小説を読むとそれを執拗にかんじる。最近でいちばんわかりやすい例は、「クソデカ羅生門」だ。内部のものはとにかく大きくなるが、あらすじとしては原作「羅生門」と同じだ。材料が変わってもできるものは変わらない。
シンボルの海にたゆたう虚構の生。そういう見え方を採用している生き物もどこかにいるのかもしれない。近代小説的生物。
小説技術の向上が、小説衰退のひとつの要因だろう。読者(購買者)の求める水準の変化や、書けない領域や規模の出現。書かせることをやめさせるまでの書きかたの洗練。
すでにある言葉を多くつかってしか、形成できない。なおかつ新しい物語が求められる。小説を構成する語彙が枯渇する。行き止まりに直面する。Uターンもしくは開拓によってしか打開はみこめない。
自転車をこいで筋肉痛。今回、時間差はあまりないので安心した。時間差があると痛烈だし困る。
2026/02/17
日が翳ったら寒かった。日中と気温差がある。
YouTubeをいくつか見た。
多和田葉子、宇野常寛、先崎彰容、小川哲などが出演していた。
それぞれさまざまな印象をえた。
戦後日本。近代小説。翻訳。執筆。
ブルートゥースイヤホン。
日記について。
遠くにあった『鏡子の家』を手元に持ってきた。好きな小説なのでうれしい。安定感すらある。 吉本隆明『共同幻想論』を読みとくために選集『国家とは何か』は編まれたそうだ。レーニン、エンゲルス。『遠野物語』、『古事記』。埴谷雄高を読む自分の目にはどう映るのか。人に両者を紹介した。土着の吉本に超然の埴谷。国家を論じた吉本と国家死滅を語った埴谷。戦後の日本語で思想を練り上げ拵えた。ねばりづよく強靭だ。 『吾輩は猫である』と『明暗』。夏目漱石の処女作と遺作。 辻原登『卍どもえ』。オースター『ガラスの街』。
言い切りの「ある」のつよさ。
疲れと言葉。
本は読みかたによってみえてくるものがちがう。
『ロビンソン・クルーソー』はよく分からない土地にいって生活する場をつくる話だが、ドン・キホーテはどこへ行っても自分の人生劇場にする。
2026/02/16
モーツァルト、ブラームスを聞く。テレビでドヴォルザークとU字工事がコラボしていた。白洲正子の特集を途中から見て、クラシック、スイッチインタビューとつづけて見ていた。NHK。ブラームスの第一交響曲は精緻で激しい。
家で立ち読みをする。体操になる。
国語辞典がほしいとおもった。
お茶、コーヒーをよく飲んだ。
真面目に日記をつけはじめてから一週間である。思えば遠くにきたもんだという感じがもうする。筆記で書くのはたいへんだからやらなそうだ。もうデジタル族になってしまったのか。打ち込むのは慣れると楽だ。慣れていない人はインターネットやチャットに参加していないかもしれない。慣れている人との間の断層があるだろう。その断層が将来、問題になるかもしれないし、問題にされず、自然に忘れられるかもしれない。
コツコツとためられていった途方もなく大きいもの。
ブコウスキーはとぎれとぎれに日記をつけていた。
読点のつかいかたのクセを分析してみたい。即興で打っているから参考のための材料が多くないといけない。
将来、国語を変える文章を書く作家は、外国語と接点がある作家だろう。日本語が変革するとしたら、外部の異言語や別構造を吸収して変化していくはずだ。言い回しも少し昔と今でずいぶんちがう。
クラシックのひとつの形式、交響曲が面白いのは、単純な素材を決められた枠の中でさまざまに料理する点だ。古典的な純粋音楽はそれだけ制限や調整がむずかしい。それでもさすが音楽、結果として色彩豊かに仕上がるのはふしぎだ。文章芸術でも変化が多様で色彩ゆたかなものを好むのは、交響曲を愛聴するからかもしれない。リズムがあることは間違いないが、言葉にも和音があるのだろう。長く複雑な芸術にたずさわるものを作る人間たちへは尊敬しかなく、自分がみすぼらしくなるのでケチをつけることは全然しない。芸術家の全力の本気をかけてつくられたものが好きだし、受けとりたい。
フランシス・ベイコンの小さな画集を見ていた。解説には難解な文言が散りばめられている。現代のシンプルさと古典の豊かさを感じる。一瞥したところの事件的な鮮烈さには、創造の秘密が隠されているのだろう。人体を多く書いているが、完璧な作品しか残さなかったため真相はわからない。 入浴中に(書くほうの)小説のアイデアがうかんできた。架空の世界として書いていたものを、今度は実際の舞台として置けばいいのではないか。俎上にのせるのは、政治である。いままで書いたものを加筆するのもいいが、別の似た小説をつくり上げられればしめたもの。私は体毛が濃いので、そういう身体論まで入れられれば長い書きものになるだろう。感情論もはいるかもしれない。以前のように連載にするか、書きおろしにするか、ひょっとして出来ればアープラにかかわる場所で発表すればおもしろいし恩返しできそうだ。とにかく、必要十分な資料とリラックスして継続した集中期間をもうけられれば可能なはず。
2026/02/15
妙な夢を見た。悪夢といっていいかもしれない。ただ笑えもするほど奇妙で、漫画っぽい。
ビートルズを流した。『アンソロジー4』など。
『4321』をすこし読んだ。文章がうまい。テンポがいいし説明も豊かだ。タイトルが似ていてヴォリュームがあるので読んでいると連想に『2666』や『1Q84』がちらつく。音楽や文学やスポーツがたくさんでてくる。 ちなみに頻繁に読み返したくなる『2666』はもう背表紙がべろんべろんで書き込みだらけである。ふつうは書き込むタイプの本ではないかもしれない。『4321』よりも字が小さく本のサイズは同じである。ボラーニョはエルロイの本を評価していた。エルロイは子供のころ母が何者かに殺された。その調査をする本である。『2666』も(話によると『野生の探偵たち』も)調査をする話である。『1Q84』も調査をする話であり、話が進むごとに調査をする人物は代わっていく。『2666』も『1Q84』も俗な話、なんのことはないことについての話、あらゆる意味での評価についての会話が多い。小説はこういう些末な話を吸い取って肥え太っていく。長編になればなるほど本題を外れていく断片こそ魅力になるのかもしれない。おもしろい小説は細部が大事だ。
フィクションの効力。記述を重ねていくと分量が増える。単純な事実だが癖になるほどおもしろい。リアルにおいて、われわれの一挙手一投足を記述していってもどうしても分量に限界がある。そんなに書いていられず、そんなに覚えていられず、そんなに興味を集中していられない。だから誰かがおもしろいウソともいえるフィクションをなるべく詳細に記述して、ディティールの積み重ね、言葉の積み重ねで膨大な塊を作り上げる。それは原理的に無限であり、状況的には未完で信用性の薄いものだ。信頼の賜物であるお金や銀行、医療や病院とは大いに違う。小説によって資金をえたり、悩みを治療したりといったことは、本来なら奇妙なことである。だがそういったことも可能である。人間の心は不可思議だからだ。そして一挙手一投足を記述し、保管したがっている当のものこそ、人間の心なのである。
英語の本を読むにはデジタルにOCRを使うといい勉強になるそうである。
『潮騒』は、三島が書いた標準語のセリフを現地の人に方言へ直してもらった作品だそうだ。内容がいつもの三島由紀夫の短編なのに長編にして方言と舞台を変えたらオーソドックスな小説になるという実例だ。三島の短編の長編性、長編の短編性という話はしてみたい。文章自体と小説の構造に着目して分析したらおもしろい対象だ。三島由紀夫の扱う語彙の多さもポイントで、彼は辞書を食べたかったという。 2026/02/14
『死霊』についてのチャットがあった。それで文庫本をさがしたら一巻目二巻目はあったが三巻目だけない。なんにせよ文庫は読みやすいので、便利だ。布団に寝っ転がって読むこともできる。一巻目の奥付を見たら、2009年発行。2026年の今となってはずいぶん昔だ。17年前! することがなく東京をうろついていた若造のころ、平積みされていたこの本を一念発起して買ったのである。オビが本に挟んであって、「20世紀の傑作。わが国初の形而上小説。」とある。21世紀というあるていどの時間を経た今でも、固い表現とはいえ、読むに堪えうる文体と内容を獲得したという意味では、確かに或る種の傑作といえるだろう。文庫本をぱらぱらと開けると、そこに書かれている文字が懐かしく踊った。思えば、私の近代文学風の青春はみなこの本から始まりこの本のなかに過ごされたのだった。人との交流も文化的な活動もこの『死霊』が淵源となって広がっているのだった。私にとって二十代の殆ど全てが入っている書といって差支えない。この先も何回も読み返す小説であろうと思う。
『ドグラ・マグラ』と『死霊』を人に紹介する機会があった。面白がってもらえたが、こちらのほうも面白いものだということを再確認した。
バタイユの話があって、ひさびさに名前をきいた。目を通したくもなったがかつて手放してしまっていたので、バタイユを好きだった作家の著作『太陽と鉄』をひっぱりだした。作家の思想書は珍しいが、ないわけではない。実存主義が流行った時代にはよく書かれたのではなかったか。特に西洋で?
『エセ物語』を積読していたのを思い出した。あれは読まなくては。
一年に一冊か、数冊、大長編が読めれば最高だ。というかいままでもそうしてきたのだが。これからもそうしていきたい。
『4321』は、タイトルと装丁のカッコよさから購入した。シンプルかつモダンだ。翻訳者も柴田元幸さんで、ブコウスキーの『パルプ』を翻訳した方である。それがサイコーだったので、今回も楽しみだ(すこし読んでいるが、テンポがよくおもしろい)。『4321』は英語を読む機会になるから、ペーパーバックでもほしい。
今後読みたい小説……『4321』『夜明け前』『エセ物語』
『2666』を読んだ後、ボラーニョの作品を読むようになったから、『4321』を読んだ後も、オースターの他の諸作品を読むのだろうか。『4321』がブラックホールのような魅力を湛えていたら、そうするだろう。
日本の出版事情。本が売れなかったりすると聞くが大丈夫なのだろうか。このままでは縮小する一方だという。ふーむ、と考えるが妙案はうかばない。おそらく多くの問題が複合して進行しているのだろう。問題というか、状況か。事実を客観的に分析できるのは時間がたってからだろう。リアルタイムでどうこうできることはすくない。どうにでもとれるベケットの言葉を思い出す。「つづけなきゃいけない、つづけよう。」
日本語はキーボードだとスペルミスが少ない……のだろうか。思い付きだがちがうかもしれない。
松岡正剛がロラン・バルトについて書いているのがおもしろかったのをおもいだしていた。ブリオというキーワードがあるらしいが、ベートーヴェンの第五交響曲の第一楽章は「アレグロ・コン・ブリオ」だ。これはテンポ指定の記述。
『存在の耐えられない軽さ』を手にとったら、おびただしい書き込みがあった。数年前の同作の読書会のときに書いたのだろう。読み返してはいちいち書いていた。あのときは愉しい時をすごした。いい作品だ。 2026/02/13
そんなに寒く感じない一日だった。小説のおもしろい読み方について思いをめぐらせた。部屋の本をすこし整理した。掘り出し物?があった。あまりゲームをやらなかった。
Xのスペースで話した。DiscordのVCとは時間の流れかたが微妙にちがう。
恐怖を表現するのはむずかしいが、根源的な刺激あるいは感情だ。
人と話す楽しさは、さまざまな種類の声と反応を受け取れることにある。
今日の作家:谷崎潤一郎、埴谷雄高、三島由紀夫、村上春樹、川端康成、横光利一、そして紫式部
長編小説あるいは大長編小説は作家にとって夢だろう。自分の書きたいものを滔々と書けるのだ。私はそういう作品を読むのが好きだ。作家より作品が前面に押し出て、全てを押し流してしまうような散文を好む。そういう作品に耽溺していたいものだ。古典的であろうと現代的であろうとそうだ。今このとき大長編を書く、書こうとしている作家を支持する。
明日は早起きしたい。
2026/02/12
プルーストの『失われた時を求めて』を久々に開いた。この作品はとてつもなく長いので、本の読み方が変わる。文をとにかく目で追うように読んでいくことになる。タイトルの通り、現実の時間が失われ、作品のなかの固有の時間が立ち現れてくる。その時のなかをたゆたうようにすごせたら、と思うのだが、内容はあんがい入り組んでいて、哲学書のように逐一解釈しようとして読むなら、癒されるというよりも骨が折れるだろう。とはいえ小説が小説であることを忘れて記述がふいに随想になるところは理想的で、読む悦びにみちており、ゆっくりと伴走してもらいたい書物である。おそらく実際の映像にすると文章そのものの印象より多少は地味でくすんでいるだろう作中の世界が、現実が時をへて、こちらは風化せずにのこり絵画的な美しさを強調してつたえるようになった。昼食のレモンが黄金のしずくを滴らし、食後の魚の骨は竪琴のように鳴り響いた……こんなように美しく表現することで、小説のなかの祖母との食事は長く忘れがたい記憶として人の心にのこる。 コメディとしても上質で、愉快な作風。芸術とコメディは切っても切りはなせない関係だ。
東浩紀とひろゆきが雑談している。あとで見よ
森敦の『われ逝くもののごとく』をまた読んでみようと思ったが、少し読み返したところ良いので、ゆっくりと読んでいこうとおもった。 村上春樹さんは、私の親でもおかしくない世代の人で、2009年それまで数冊読んで好きだったのにリアルタイムで読まなかった『1Q84』はもし読んでいたら影響を受けただろう。『1Q84』は若い人に向けた小説に感じる。たしか、あまりにも人気だったから手が伸びなかったのだ。当時の登場人物の世代が近かったり、打楽器を演奏していた経験があったりで、シリアスな作品なこともあり、没入して体験する読書になっていたはずだ。それは逆にいえば、あの時代の典型的な日本人のタイプ、格好の読者層だったということもいえる。実際に読んだのは十年以上あとで、時間的に大きなギャップがある。今後はこの偶然を生かして何か考えてみようとしている。 2026/02/11
くるりの新しいアルバムを聴いた。今は大貫妙子を聴いている。 マイルス・デイヴィスを聴く。ビッチェス・ブリュー。
ドラムのビートが心地いい。
ダイスで遊んだ。
イギリスのテートから展覧会が来るとかで、DOMMUNEを見ていた。 フランシス・ベイコンの怪物のトリプティクが来ているそうで、それを間近でみるためにいってみたい。
刺激されて、ノートに絵を描いた。字も書いた。
ひらがなってかたちがおもしろいなあ。贅沢なかんじがする。
自分というのはとりとめがないので、自分を手懐けてくれるものを欲する。最も効果的なのが書物だった。長い時間、一冊の本にかかりきりになるのはとんでもないことだ。
カリテ(質)というものに興味がある。興味があるものどうしをつなぎ合わせると、人をくぎづけにする質、というものについて。
価値というのは、異質なものに付いてまわるのだろう。ということで、Xで画像がよくリツイートされるのはそんなもんなのだ。
完成されたものも度がすぎると、真似しづらくなる。完成のヒケツは欠点もその要素のうちと感じさせる力だ。自分が読んできた長い小説は、もれなくみな完成されていた。読んだとき若かったので、もちあわせている言葉が粗くて作品をつかみそこねることの連続だった。人生の1ピースにある小説の読書があるのに、人生とまるきり関係のないところに読んでいる長編小説がある。生きている時間と小説のなかの時間の関係はなんだろう。つながりはどこにあるのか。小説を流れる時間ごと愛せたとき、自分の生きる時間とまた別の時間との橋がわたされるのだろう。
しゅわしゅわと記憶が消えていき、なにもなくなったとき、満足もなく、不満足もないのか。コンクリートブロックのような文章の塊をのこしたい。メルロ・ポンティ。『知覚の現象学』。身体と他のものの区別。ベケット。散文。いつか透明なさわりごこちのしないものをかきたい。 見ることと見られること、内包された時間、きりつめられた生。この三つ以外に近代小説は本質的なテーマを持っていない。ブレイクスルーを模索するかぎりブレイクスルーはない。羊皮紙からコピー用紙へ、それから電子へ媒体が変わったので、書かれる文とそこにのせる言葉も変化する。自分が時間をすごさなければ、つつみこむ時間も熟さない。時間の熟したさきに、きりつめられていない死がある。脈絡のないなかにあらわしたいことがある。
2026/02/10
いつも何かしらは読んではいるのだが、ここになんでも書けばいいのに、あまり書いていなかった。うっかり、日記がつづかない性分である。
コーヒーにいれる砂糖とミルクがほしかった。
クリーミングパウダーというものを買ったら、ほんのり甘いし、ミルキーで、節約である。
最近は、おもに外国の古典を読んでいる。モンテーニュ、パスカル、ラブレーなど。
『モロイ』は、見かけより、かなり仕組まれた作品だと思う。一文、一文、終わりまで(たどたどしく)つきすすんでいく。
ひさびさにムージルを読んでも頭が疲れなかった。意識せず読み方を変えたのだろう。調子のでるときはこれほどおもしろい読書もない。
日本の作家でも、座右においておける書籍を選びたいところ。
散文について興味がでて、考えはじめる。さくさく進む快感の不思議。何度も繰り返し書く。
散文とは何かと追求していくのもおもしろいかもしれない。長くなりそうなテーマだ。
長大なエッセイのような本が常にあれば、それだけでありがたい。自分にとっては、『エセー』、『失われた時を求めて』、『パンセ』、『特性のない男』などだ。そういう本をもって、どこかへ書きものをしに出かけたい。
『南総里見八犬伝』は、随筆的なのか。ところによってはそうかもしれない。基本としてはそうではない。 ムダな話がたくさんあるような小説、あるいは随筆などを読みたい。
ジャンクな快楽がクセになる文章だ。自分の中ではおなじみになってしまった。
第一短編集だが、さまざまなジャンルを試している。ジャブのなかにストレートやアッパーを入れるのが恐ろしく、また巧みだ。なにげない営みに異様な雰囲気を醸し出したり、異常な日常に不穏な事件を導きいれたり。
とはいえ、『2666』の驚きがなければ手にとらなかっただろう。幾つか並行してボラーニョの著作を読んでいるが、各作品の執筆は、内容だけでなく作品どうしの関係も周到に練られた印象だ。病により余命が少ないことを意識しながら書いていたらしいが、遺された小説たちは、一種の魔法陣のように構成されている。
ベケットの散文と比べると、あらっぽく、洗練(されていないではなく)していない気がする。原文は英語・フランス語とスペイン語なので、わからないが。翻訳でも骨格というか書き手のノリみたいなものは伝わるように感じる。
『売女の人殺し』や『アメリカ大陸のナチ文学』も少しづつ読んでいるので、愉しみたいところ。
そういえば、埃をかぶっていた『ブヴァールとペキュシェ』を引っ張りだした。翻訳者の鈴木健郎の著作権が切れているので、引用がしやすい。 読んだもの日記(イ)2026年1月(ちょっぴり)
2026/01/20
『南総里見八犬伝』
2026/01/17
Nesterを始める。きっかけは、AI検索。国産SNSを探していた。国産カホンを検索で見て、国産を探してみたのである。 2026/01/15
ボラーニョ
2026/01/14
ジジェク