「良い夜を持っている」
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やたらめったらに物事をつなげてみたら、それが一種の代数構造を成し、バーストして上位のなにかに昇華していく
記憶を街並みに結びつけると完全記憶が構成され、共感覚を多重に発生させると数学に関する超常的な才能が構成される
この繋がりがとんでもないものになっていることがあり、それが「ムーンシャイン」ではムーンシャイン理論だった
結局、われわれは何を読んでいるの?
答:なんでもよい。与えられたテクストに対して、私たちはあらゆるものをそこに読み出だして良い。この点において、われわれの求めるすべての小説は既に書かれていて、われわれはまだそれに気づいていないだけ。
われわれは無を読むことが出来る
われわれは何も読み取らないことも出来る
われわれはあらゆるものをテクストから読み取ることが出来る
作中の記述から様々なものを連想出来るし、その連想の内容は人によって異なるだろう。まったく同一の読書体験というものはあり得ず、それだからこそ面白いのだとも思う
われわれの世界認識はわれわれの神経学的特性に依存しているのでは
科学は、人類の理解しやすい簡単なものから発展してきたはず。すなわち具体的対象を具体のまま扱う手法であり、具体を積み重ねて抽象を探索し、世界を構成してきた
認識の特性が違うなら、この手法も変わる。例えば、個々の座標や運動量より作用や Lagrangian の方が認識しやすいのならば、Newton 方程式を経ずに Euler-Lagrange 方程式や Hamilton 方程式を構成するだろう(これはまさしくチャン「あなたの人生の物語」)。
父は抽象的把握が先行している?
自分がいま立っている公理系が分からず、混乱している?
われわれ一般人がこうならないのは、教室と教室外とで学習したことが切り離されてしまうという心理学的特性が働くから
教室で学んだことは教室の中でしか通用しないものであり、教室外では教室外での法則のようなものが必要であるという誤認は教育学で有名なやつ。→提示事例の個別学習の変形 提示事例の個別学習とは、提示した事例については確かに学習するのだが、それらを貫くような演繹が生じないという学習上の不具合のことを指す。
例えば、「植物は種子によってのみ生殖する」「チューリップは球根によって増殖する」という混同しやすい事例をそれぞれ学習したのちに、チューリップが何によって生殖するかを問うと、学習者は球根と誤答する。
誤解が生じやすい難解な問題設定が悪いという説もあるが、このような事例は一般に学習能力が高いと思われている有名大学の学生であっても発生することから、人間の認知機構そのものが原因であることが示唆される。
これは別に完全に悪い行為というわけではなくて、常に学習したことを思い返しながら生活するのは脳に非常に負担がかかるので、脳が勝手に情報間の架橋行為を遮断してしまう。もしこれがうまくいかないと、常に学習した情報の間でバーストが起こって普通の日常生活が送れなくなる。
(父が社会不適合的性格なのは、多分このせい)
数学者の立場からの話
この文章を読んで、真の学者は常に学術的感覚を暴走させている人間なのか、とM1当時思った
小説を読むという体験をする際、人は文芸的な頭に切り替わっていることが普通で、小説内の表現が真に数理的であったとしても、それが数理的な表現であることを失念することもあるだろう
まあそれは至って当然。(なぜなら、小説という文芸的領域において、数理的感覚を要求されることは予想外なので)
翻って、円城塔の作品を真に親身に感じるのは、同じ数理的なものの見方を身体に叩き込まれた人間であろう。
円城塔は、いわゆる理系的な人間が人口の半分程度は存在することを忘れてはならない、と繰り返し発言している
ここから、円城塔の作品を“難解”であるとして深く考えないのは、そのような考え方が自然な人間たちについても考えないと言っているのと等価であり、これは一種の差別であるように思う
円城塔が「自分は見たままを書いている」と繰り返し明言するのは、この数理的感覚が暴走した状態での“見たまま”を書いていると解釈出来るだろう
具体例
SF小説は、“自閉症的”描写によって特徴づけられるという言説がある
“自閉症”とSFは相性がいい、というのは山田正紀が自身を例になんとなく言っていたりする(『SF読書会』)
スティーブ・シルバーマン『自閉症の世界』原著では、SFファンと自閉症者は相性がいいと指摘している(ブルーバックスから刊行された邦訳版では丸ごと削除の憂き目を見ている)
ここでは、妙な論理にこだわったり、少数の事例から得られた法則性を全体に適用してみたり、そんな奇妙な執着・拡張を指して“自閉症的”とする
そうやって批評用語として自閉症という言葉を使うと、なんだかわかりやすい気もするが、非専門家が安易に用語を使うこと、特に医療用語をみだりに用いるのはどうなんだろうという感じがする
小説自体が常に内部観測を行い続けている非常に危うい体系
作中の父に関する記述からは、自閉症スペクトラム症候群の典型的な症状が読み取れる
過去の記憶をすべて等しく鮮明に覚えているため、自身の記憶が過去のどの時点の記憶なのかが不明瞭になり、時間感覚の消失が生じる
自閉症者の記憶と想起については『発達障害の精神病理Ⅱ』(星和書店、2020)の清水光恵「スクラップ置き場と私」が詳しい。
余談だが、なんか精神科医の書く文章には科学的でないものがあるというか、言葉遊びと連想ゲームで精神疾患を語ってる人間が紛れ込んでいて気になる
しかも結構な大御所ヅラして居座っている
とりあえず、スペンサー=ブラウン代数をありがたがっている人間を信用しないようにしましょう
よくあるタイプの話という説はある
でも円城塔は筒井作品を一作も読んでないらしい
創作者の言うことは話半分に聞いとくべきではあるのだけど
p192以降の姪の描写が妙に精緻。突拍子もないことをいうならば、それ以外の部分のディテールを描写すべきということか
”記憶の街”の描写も詳しいのだが、いかんせん想像上の街なのでそれを想像することが難しい。それに比べて家族という対象は非常に文芸的で、読み手にとっても(通常)想像しやすい題材であるので、一層描写が精緻であるように感じられる。
家族に関する描写はこれまでの一般の文芸作品で腐る程書き継がれてきた類のものなので、書き手からすれば優れているとされる描写を参考にすることは容易。
独立した系だと思っていたもの(ここでは作中宇宙)が実は自らの依拠する系にほかならないと気づく物語
あまりにも強すぎる記憶力によって構成された記憶の街は、その主の死後、逆に主を再現することさえ出来る
世の中、不思議なことは多い。この世界は一体なんなのだろうかとか、私たちはこの世界を正しく認識出来ているだろうかとか、そもそもこの文章の意味は他人に正しく伝わっているだろうかとか。しかしながら、これらのような疑問をいちいち気にしていたらキリがなく、正常な日常生活に支障をきたしてしまう。
なので、人間の心は予めいちいち細かいことを気にしないようなつくりになっている。すなわち、人間の心は物事に対してある程度鈍感になるように作られている。しかしながら、この鈍感さを超えることが出来る人間というものを考えることが出来る。そのような人間としては2種類存在することが考えられる。まず一方は厳密な科学的思考、特に数理科学のような公理的な思考を備えた人間であり、もう一方はその鈍感さを生み出す仕組みが備わっていない人間である。
本作に登場する“父”は後者であり、超常的な記憶というものは実は副産物的なものであって、その本質は原理的に思考停止することが出来ないような、帰納と演繹を極限まで押し進める異常な認知である。常人に比べて過剰な帰納と演繹を行うような、そしてそれを可能にする無限の記憶領域に支えられた認知はもちろん一般的な認知を超越している。しかしながら、逆に、常人にとっては一般的な認知が“父”にとってはまったく異常なものに思われる、ということになる。
異常な認知能力を持つ者は世界をどのように捉えるだろうか、という主題は「ムーンシャイン」と共通するものであり、数に関する異常な認知能力を持つ少女の内部思考と外部からの描写とによる記述を試みた「ムーンシャイン」に対して、徹底的に外部からの描写のみで異常な内部思考を理解しようとする「良い夜を持っている」という差異を指摘することが出来る((なお、“純粋な数理”に支えられた「Gernsback Intersection」から「ムーンシャイン」を経て「良い夜を持っている」で”文芸”に接近するという論は well-defined でない。より正確には、完全な内部観測によって記述された「Gernsback」から少女による内部観測と語り手による外部観測との折衷で記述される「ムーンシャイン」を経て、完全な外部観測と見せかけて実は全て内部観測に過ぎなかったことを明かす「良い夜を持っている」に至る。”文芸的”であるのはその表層だけであり、より高度な語りを実践しており、かつ成功している。これについては後ほど別の記事で詳細に論じることにする。))。
さらに、時間感覚が存在しないということを意味する完全記憶の存在によって、“父”は本質的に時間を理解出来なかったことが示唆される。”父”のもつ認知とは、すなわち、テッド・チャン「あなたの人生の物語」における積分的認知である。
さて、本作は最後の最後で二重の大転換を見せる。物語の最終行において、”姪”はいつしか手にしていた赤いビー玉を手放す。この描写によって、作中世界が「これはペンです」と同一であることと、作中世界が”父”の”記憶の街”と同一であることが明示される。すなわち、完全な外部観測者として”父”を記述していたはずの”わたし”は、ここで自身も”父”の”記憶の街”の住人であるということに気づくに至る。つまり、”父”について言及することは、”わたし”についての自己言及にほかならない。やはりここで、私たちは円城塔作品に特徴的な自己言及という主題を得るに至る。
ひとつ強いことを言うなら、円城塔の作品に対して、「理解出来ない」あるいは「難解である」と評することは、その作品にあらわれているような思考を実際に行っている人間が実際にこの世にいるかもしれないということをまったく考慮していない言動である、ということ。もちろん円城塔はこのような思考を行なっているし、いまこの文章を書いている下村も恐らく同様の思考を行なっている。自分が理解出来ない思考の存在をはなから否定するような言動は厳に慎むべき行為であると思う。
「星や星雲が『さあ、何々はそこにいろよ』って言うと、ここに動くのは大変な騒ぎなの。」(黒丸尚訳) 文庫版p119(冒頭)「目覚めると、今日もわたしだ。」
「ありふれた夢を見た。わたしに名前がある、という夢を。ひとつの名前が、変わることなく、死ぬまで自分のものでありつづける。それ(傍点)がなんという名前かはわからないが、そんなことは問題ではない。名前があるとわかれば、それだけでじゅうぶんだ。」(山岸真訳) 『君の名は。』は「貸金庫」が元ネタということが新海誠によって明言されている 文庫版p146 共感覚
円城塔はたびたびモチーフの掘り下げを行なっている
文庫版p155「そうした意味で、父は古風な迷宮探検ゲームをしていたとも言える。〜」
『Wizardry』(元はPC、のちに家庭用ゲーム機に移植。TRPGをコンピュータで再現した最初期のコンピュータRPGのひとつ。) もともと円城塔はゲームも好きだったようなので、この年頃のオタク趣味の人なら納得がいく
余談だが、下村も『Wizardry』が大好き
円城塔作品によく出てくるモチーフ
筒井康隆:『人がみな狼であったとき』(書評集『本の森の狩人』で、ある海外の作家の作品として書評を行った作品。実は存在しない本で、のちのち筒井康隆の作品として執筆するとしていたが、その後の断筆によって書かれることはなかった)
文庫p181~182「いかに解読しようとしてみても、〜」
このセンテンスの記述は量子情報論的にまったく正しい 系の情報量が最大となるのは、系が最もエンタングルしているときである
Nielsen の優数列定理(Nielsen's majorization theorem)によれば、より情報量の多い系から少ない系へ局所操作かつ古典通信可能(Local Operation Classical Communication, LOCC)という条件のもとで移行することができる
系がもっともエンタングルしている状態(最大エンタングル状態)とは、系を成す要素の出現確率がすべて等しいときである。すなわち、まったくランダムな文字列は最大エンタングル状態。
まったくランダムな文字列の例として、無理数である円周率 π や自然対数の底(Napier数)e が挙げられる。これらは無限の文字列であり、あらゆる文字の配列を含む。 なお、最大エンタングル状態からすべての状態に移行出来ることが数学的に保証されている(前述の Nielsen の定理を用いる。ほぼほぼ自明。)
文庫版p182「父は、出鱈目な文字列からさえ、積極的に意味を読み取り、〜」
教師なし機械学習の手法のひとつ、敵対的学習(Generative Adversarial Network, GAN あるいは敵対的生成ネットワークとも)の手法に非常によく似ている でも敵対的学習が確立されたのは2016年のこと、どうしてこの時点で円城塔はこのアイデアにたどりつけたのか?SF的オーパーツ?
これに関しては、俺の読みすぎというか期待しすぎという説がある
無に有を見出す
ある慣性系における真空に対して加速度運動をする観測者は、そこに光子の熱浴を見出す
文庫版p188「通常の人間における〜」
ほんとに好きですね
やはり、人間というもの、意識というものに興味のある作家なのだと思う
文庫版p198「エミュレーション、〜」
やはり「ムーンシャイン 」の系譜にあると考えて良いだろう
文庫版p200「わたしは今、こんなことを考えている。〜」
文庫版p207「『誰もが同じ舞台で目覚めると、どうやって確認すればよいのです』」
文庫版p216「丸く赤いビー玉」
父がお話の中で記憶の対象を示すために用いていたポインタ(p156)。