「十二面体関係」
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朝日文庫『20の短編小説』収録。
もとは《小説トリッパー》掲載の“20”をテーマとした競作ショート・ショートのうちのひとつ。
読まないと判断出来ないが、関係はあるかも
物語が幾何学的に構成されるというつくりは、
お察しの通り、三角関係のもじり。
20がお題なのになぜ十二面体なのかというと、十二面体は頂点を20個持つから。正十二面体では20人の登場人物がそれぞれ頂点に相当し、頂点と頂点を結ぶ辺が登場人物同士の関係を表し(圏論)、12の面が登場人物たちの織りなす“物語”を表す。また正十二面体は正二十面体の双対である。この正二十面体では20の面が登場人物たちを表し、面と面の接する辺が依然として登場人物同士の関係を表し、辺の集まる12の頂点が“物語”である。 時間(すなわち意識)とは自発的対称性の破れによって生じるものである、というのは物理学的考察に基づく一世一代の大ネタだったのに、それをあっさりここでやられてしまってもはや笑うしかない
また、物語を圏論を用いて解析することは通常困難であるので、ここは逆に圏論を用いて面白い関係を作ってみよう、とか仲間内で話していたことが、いままさに目の前にあって、大爆笑。勝てるわけがない
俺が(より正確には俺たちが、なのだが)SF用に温めていたアイデアを使って円城塔の作品の解説をするのは、これこそ俺がこれから描こうとしていた作品を過去の円城塔に剽窃されている疑いがある。(思考盗聴だ!)
まあ、駆け出しレビュアーである俺が円城塔レベルの作品を再生産出来るなら、御の字をω個並べても足りないくらいな気はするが。
物語を、頂点と、頂点間の結びつきを規定する辺で囲む面として構成することを考える。このようにして、すべての面を集めてくるような“完全”な物語を構成したい。しかし、これはEulerの定理より、不可能である。 Euler閉路(ある頂点からはじめて、すべての辺を集めて元の頂点に戻って来れるグラフ)が存在する必要十分条件は、すべての頂点の次数(頂点から出ている辺の数)が偶数であること
十二面体の各頂点の次数は3、ゆえに十二面体はEuler閉路が存在しない
二十面体の各頂点の次数は5、ゆえに二十面体はEuler閉路が存在しない
Euler路(ある頂点からはじめて、すべての辺を集められるグラフ)が存在する必要十分条件は、次数が奇数であるものがちょうど2つだけあること
同様に、十二面体と二十面体にはEuler路が存在しない
ひとつひとつの“物語”は構成出来るのに、全体の“完全”な物語を構成出来ない
$ A(1), A(2), A(3), ...が証明出来るにもかかわらず、$ \lnot \forall xA(x)も同時に証明されてしまうこと(野矢茂樹『論理学』、東京大学出版会)
物語の幾何学的構成はEulerの定理より不可能。物語の圏論的構成は可能であり、実際登場人物たちは圏論的構成のもとで作品宇宙を理解している。これらの構成の差異は、時間軸の有無である。
この作品の“物語”は、3+0次元でのみ“完全”な構成を得る。“読む”という行為は3+1次元的な行為であり、完全な構成は数学的・物理学的に不可能である。
“読む”とき、読者には時間次元の向きに関する自由度がある。“読む”ことはこの時間次元の“回転対称性”を破ることに相当する。これは“物語”という系の内部からすると系の自発的対称性の破れにほかならない。(作品宇宙の人間には破れの方向を決められないので。要は読者による時間の生成方向は物理量のようなもので、それ以上のことを物理学的に問うのは原理的に不可能。)
物語の相転移が生じ、物語宇宙に時間が生成される(=クロノジェネシス:バリオジェネシス、レプトジェネシスからのアナロジ) 意識があることと、世界が時間次元をもつ(=系の自発的対称性の破れ)は等価
壁石の話にあったやつ
真の時間の流れはもしかしたら“滅茶苦茶”かもしれないのだけど、わたしたちはエントロピーが増大する方向にしか認識出来ない。認識が時間を規定してしまう。
さて、ここで私たちの現実の宇宙を見てみよう。この世界は3+1次元で、宇宙は十二面体構造を持っている。すなわち、私たちに自由意志などない。
ちなみに、私たちは“超読者”に読まれている可能性がある(ソビエトロシアでは、小説が私たちを読む!)
なお、“超読者”は(おそらく)時間1次元の時空の存在
辺は射である。はじめ、便宜的に“時間の矢”の向き(=射の向き)が定義されているが、時間逆行が許される(=逆射が存在)ことも同時に示される
読者に読まれたとき、向きを自然に獲得してしまう(=自発的対称性の破れ)
しかし、“完全”な物語は数学的に構成不可能である
意識がないなら、射の向きが固定されていなくてもOK
読者にまだ読まれていないので、時間の流れの向きが構成されていなくても、圏を成しているというだけで存在が許される
自分が書いてないはずの文章、未来からの剽窃
104頁、岡原司[13]「岡原によれば時間とは(中略)秩序を維持するために排出される何かである。」
“時間回転対称性”の破れは、よりエネルギー状態の高い対称性を守るために自発的に破れると主張。
この作中世界は3+0次元
なぜ自発的破れなのかというと、作中世界の登場人物たちには現実世界の読者の読む方向を指定出来ず、予言も出来ないから。時間の破れの方向は、作品世界の登場人物たちにとっては物理定数のようなもの。
数理的リアリズムの真骨頂。読者が読むまでその作品宇宙は存在せず、読むことによってはじめて作品宇宙は生成される。 本当に一般的な読者に己の作品を理解させる気があるのか?
読解のポイント
円城塔が幾何学的構造を単純にプロットとして用いることを想定してはならない。必ず、その先にもう一段階は仕掛けがある。
今回は、
1. プロットが十二面体構造を成す
2. 登場人物たちと、その間の射が存在し、それらが圏を成す
3. すべての射について、逆射が存在する
4. 逆射が時間逆行に相当する
5. “読む”という行為は時間の向きのとり方が自由であるため、系の時間次元についての対称性の破れを引き起こす
6. ~9. (中略)(ギャグではなく、円城塔はマジで議論を何段かすっ飛ばしている)
10. “自由意志がない”ということと“時間の対称性の破れ”は等価である
時間逆行を許す記述が複数見られる。なにかが許されるならば、それが必ず存在するのが物理。この作品は必ず時間逆行する。
本作は易しい構造。なぜなら読者と観測したい系(本作の物語構造)が完全に独立しているから。ただし、観測によって系が自発的に対称性を破り、新たな次元が誕生して破綻するというのがこの作品の面倒なところ。作中の人物はこの破れに気づいており、それが意識を、ひいては“物語”を生成することと等価であることも気づいている。