数理的リアリズム
カルペンティエール曰く、「ラテンアメリカの現実世界には日常的に驚異が偏在するため、単に事実を記録するだけで驚異的な文学作品ができあがる」(寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』、中公新書、p.39~40)
これを言い換えると、「この現実世界には実は日常的に驚異が偏在するため、単に事実を記録するだけで驚異的な文学作品ができあがる」
円城塔の作品を端的に示す言葉としては、これ以上のものはないのではないか
カルペンティエールの“驚異的現実”はラテンアメリカが驚異的であることを示すためにヨーロッパの視点を必要とする矛盾した理論であったが、円城塔の“驚異的現実”は、そもそも円城塔作品が自己言及と相互参照によって成り立つものであり、かつ読者自信が自己言及に巻き込まれる構造になっているため、セーフ?
異常な数理的把握能力による驚異的な現実の姿を、その視点から描く作品群
(まだ精読が済んでいないのでガバガバだが)異常な数理的把握能力をもつ登場人物たちが、そのような世界で可能な時空的長距離恋愛を行う姿を、その世界の論理に基づいて描く。
登場人物間ではジョークとして交わされる文言が、一般的な読者にはジョークだと気づけない
急にクリプキだのヴァン・ヴォークトだのボードレールだの出しても、それは普通気づけないっすよ
驚異的な数学的能力をもつ少女が、その能力を捨て去って“宇宙の数理的晴れあがり”以前の数字の存在しない宇宙へと歩み去る姿を、一般の現実に身を置く語り手と異常な語り手である少女のふたりの視点から描く。
非数理的語り手の導入により、理解は容易になっている
驚異的な記憶能力をもつ父が、彼にとっては原理的に等価である現実の街と記憶の街に混淆して消えてしまったということを、一般的な現実に身を置く語り手の視点から描く。
非数理的語り手のみが導入されていることで、理解はより容易になり、“文芸的”になっている
“文芸的”とは何か?
父を探るという古典的なモティーフによる?
だが、これは本質的に数理的
なぜなら、父の“記憶の街”かもしれないこの現実で父を観測することは、内部観測にほかならないから 「これペン」では、テクストが実際の光景にほかならないことが示された(テクストが姪であったというオチ)
「良い夜」も、もちろんテクストは実際の光景であり、これはすなわち記憶の街である(父が記憶対象を示すために用いていた赤いポインタを姪が持っていたことから)
この姪は「これペン」の姪と同一人物で、「これペン」の叔父は「良い夜」の語り手
“文芸的”になっている、として切って捨てるのは容易い。確かにそれもあるだろうが、私はそれだけではないと考える。
「良い夜」が外部観測が実は内部観測に過ぎなかったという転回を見せるのに対して、「ムーンシャイン」は内部観測と外部観測の“摺り合わせ”であり、「Gernsback」は内部観測のみからなる作品であった。「Gernsback」〜「良い夜を持っている」の“文芸への歩み寄り”とされる現象は、実は内部観測の取り扱い方の変化(内部観測と外部観測の相互参照と拡張)として解釈されるべきである。