内部観測
一般的な観測では、対象となる系と観測者は完全に分離されており、かつ観測は系に影響しない(影響は無視出来る)。これを特に外部観測という。
しかし、観測者が対象となる系に含まれており、かつ相互作用によって観測を行うとき、つまり観測という行為そのものが系に影響を与えてしまうような観測を考えることができ、これを内部観測という。
物理をやってない人はピンとこないと思うが、物理をやったことがある人なら内部観測がヤバげだというのはわかるはず
要は、無限次かつ多体系の摂動計算になりそう、という話
そもそも外部観測は理想的な観測で、真の観測はすべて内部観測になるはず
内部観測でない観測などありえない
外部観測だと思っていたら内部観測だったでござる、という典型例
この作品から遡って、「ムーンシャイン」が内部観測と外部観測の並立によるものだったと理解される 皮が3枚に剥ける3枚族と4枚に剥ける4枚族がいて、互いに憎しみ合っているというエピソードが披露される
自信が狂っていないか自己診断する宇宙探索機、という語り手自身が自己言及的でなおかつ内部観測
内部観測の危うさと重要性が非常に良く表れている作品
ここで強調して書いておくと、俺は“哲学”が嫌い。つまり、それを実験的に確かめる方法がないような、地に足のつかない議論が嫌いだし、そのような議論を俺は科学とは認めない。(一応、実験屋なので)
哲学一般が嫌いなわけではない。数理科学の用語を持ち出して語感だけでこねくり回し、挙句物理にせっせと口を出してくる無知で物臭な哲学屋が嫌い
内部観測に関する言論はかなり拙速だという印象があり、特に物理学からはみ出して哲学にまで援用するような流れにはまったく賛同できない。自然がそこまで簡単に理論の外挿を認めるとは思えない
わかるものをわかっていくと、最終的にわからないものと自分が同じくらいの大きさになってしまって、自然自己言及(内部観測)のような構造になってしまい、問えなくなってしまう。
山形浩生が書いていた、ふわふわと回りながらわかるかわからないかの境を浮き彫りにしていく書き方というのは、おそらくこういうことか わかることができることは最終的にわかることができるだろう。しかし、わからないことをわかることができるかどうかはわからない。