作用論的主体概念
機能論的、でもいいが。
要するに知的操作として〈主体〉を〈扱う〉ことに主眼をおいている。 主体を仮定して扱う
メタ主体概念
デカルト的自己
ウェーバー的自己
対義語として、
自己と知覚する
自己責任論
環境(例:リベラルという自己責任概念)が主体概念を要請している
Miyabi.icon要するに共同幻想としての自己と、環境とインタラクションする個体としての自己
作用論的主体概念 (共同幻想)
学問とか、メタ的推論で使う。
研究とかで便利なやつ
透明
低解像度
必要的主体概念
環境からの要請 (個体幻想)
社会からの要請(共同幻想)
〜あらゆる文化科学の先験的な前提は、我々が白紙で我々の前にあるある一定の、あるいは一般に何らかのある「文化」を価値があると思うことではなく、我々が意識的に世界に対して観点を決め、かつ、これの意味を意味づける能力と意欲とを具備した文化人である、ということである。〜このように我々の意味での文化科学的認識は以下のようである限り、「主観的な」諸前提に拘束されている。つまり、その認識は現実のうちで我々が文化意義を付加する事象と何らかのある−たとえ間接的にでも−係りをもつ現実の構成部分だけを顧慮する限りそうなのである。
限りある人間精神による限りなき現実の思惟による認識はどれも、現実のうちの一有限部分だけがそのときどきの科学的な把握の対象を構成し、この部分だけが「知るに値する」という意味で「本質的」であるということにしよう、という暗黙の前提に基づいているのである。
『社会科学の方法』ウィーバー
Miyabi.icon機械学習における特徴量
記号それ自体は特徴量を見出してシニフィアンをつける名付けゲームである 「互いの話を理解したいのならば、二人にとって必要なものは、
発話と発話のあいだでつかのまの理論を収束させる能力があるだけでいい
民俗学、フィールドワークにおける主体概念の斉一化
これって相互理解とか他者理解
環世界(宇宙観)の斉一化
世界モデルの近似(コミニケーション)
クオリアの近似
記号創発の文脈での主体
自己閉鎖系は世界に対して開いている
自己閉鎖系のコミニケーションである
記号を用いて、互いの内部モデル予測して近似している。
クオリアの斉一化
シニフィアンの斉一化
このコミニケーションは身体的
このコミニケーションはいわゆるシャノン的なものではない。
記号は自己閉鎖系のコミニケーションの場において生成されている。
ソシュール的な言語総体ではなく、生成過程のプロセスにおいてのみ真の意味がある。
インタラクションがあって計数性(≒絶え間ない創発特性)がある状態。マルコフ性 フーコーの〈言説〉と照らし合わせてもおもろいかも?nzht.icon
言語は経済のように相補関係に自然発生的に生を賜るもの
目的論的道具性としての言語ではない
Miyabi.icon道具的になっちゃうのは社会システ厶の問題
記号の発生(社会的ニーズ)の発生は非常に生成的だが、統治システムは解析的で定義的
しかも低速、人間がやってる門番的
記号コミニケーションによって文化とかをつくる
文化
技術
宇宙観
環境要請的主体概念(エージェントとしてのプロパティ)
社会計算機におけるノードの全体最適(制度とか国家見たいなクソデカ概念)
局所最適としての社会的属性
目的論的・イデアへの接近
これまで:作用論的主体概念 (共同幻想)≒研究コンテクストとして用いられる透明な主体概念
経済学とか
創発特性や、社会計算機の構成素としての性質を加味していない。
どこか
目的性は社会計算機の中で創発している
[**[複雑系としての世界で使いやすい主体概念を考えよう
↓
自律的に判断・行為するベイズ脳的な主体
未来を予想する<前>に,現在の外的環境を認知
過去の経験の記憶を参照しつつ学習。
①情報収集・計算能力において限界をもつ
自らの世界モデルや記憶にもとづいて外的環境を認知・解釈する
認知・解釈の結果である世界モデルにもとづいて慣習的・定期的な判断と行為を行う,
Miyabi.icon社会的あるいは認知的コード
限定合理→認知限界的・限界合理的
限定合理
目的論的
認知限界的・限界合理的
非目的論的
人間 7割無意識
動作の動機づけ
意識/無意識
意思決定
意思決定って何を決定してるのか?
https://scrapbox.io/files/6532897947910b001b83dc0e.png
感覚入力のインタラクションを知覚する〈場〉的な − 浮遊した − 自己
実体がない。
どこを指しているのか曖昧なのである。
この図のどこでもあるしどこでも無い
Miyabi.icon極論を言えば、内的/外的な入力が一切生じない状態では生きていると言い難い(神経が全く発火しない)自意識を論じるに値しない状態。
どこでもあるしどこでも無いと言うのは、意識にとっては、様々な環境からのインタラクションの総体、その感覚入力の知覚が意識自身であるが、知覚を生むその解釈系自体も、神経細胞の絶え間ない発火が実現している。
すなわち、自己組織化系、エコシステムとしてのオートポイエーシスな脳と、その情報エントロピーが相互言及的に閉じていることだけしか言えない。
このselfの部分が認知枠に当たる。
広義の学習によって拡張可能
学習とは自己破壊である
このセルフ自体が感覚入力から構成される
つまり認知枠あるいは自己同一性はは感覚入力の学習によって構成される
記号の恣意性
ソシュールは二つの恣意性を指摘しました。
一つは言語が現実世界をカテゴリ化する際の恣意性であり、もう一つはそれに対するラベル付けの恣意性です。
カテゴリの境界やラベル付けが恣意的に設定されることを意味しています。
しかし、丸山はこの解釈を誤読だと指摘しています。
恣意性は、非自然性や歴史・社会的な人為性を指す概念です。
言語における分節化やラベル付けは、人間の認識活動に基づいて歴史や社会の中で形成されるものです。
ア・プリオリに行われるのではなく、意味は人間の活動の中で形成されます。
これがソシュールの恣意性の意味です。
判断や行為の結果と内的モデルのズレから学習することで,
「認知枠」
認知枠≒ウェーバーの鉄の檻
内的モデル≒
「内的モデル」と認知枠を前提とすると、
主体は同一の客観的環境に対しても異なる内的モデルをもつ
即ち同一の状況でも異なる判断や行為を行う。
客観的経済環境を変化させる要因となる。
経済環境の変化が意思決定や行為の一義的な変化を帰結するとはいえない
Miyabi.icon多元性のある経済主体モデル
再帰するとはどういうことか?
プロセスの再帰
構造の再帰
再帰するマルコフブランケット
主体として扱えるもの多すぎ
会社
コミュニティ
個人
階層
OSとしてのパラダイムの檻